Pretty Poison Pandemic | ナノ





シキミが起こしてくれなかったら、一体どうなっていたのだろう、とサイタマは思う。あのまま夢の中で自分自身を相手に戦い続けて、子供の喧嘩と大差ない、意味も理由も信念も矜持も皆無で絶無の虚しい闘争に明け暮れていたのだろうか。死ぬまで──すべてが終わるまで。

想像するだけで、ぞっとさせられる。

対等に渡り合える強さを誇る敵との邂逅を、本来の目的であったはずの平和を蔑ろにしてまで望んでいたツケが回ってきた──そんな気分だった。

そんな憔悴のサイタマに反して、シキミは既に一定レベル回復しているようだった。傷は塞がっていないものの出血は弱まり、全身に浮いていた汗も引いている。顔色も口調も平常時と変わらない。

「あたしの推測ですけれど、この樹には“夢”っていう形で幻覚症状を誘発する作用があるんです。そういう物質を分泌していて、それが空気中とかに溶け込んでる……先生はその影響を受けたんだと思います。妙な匂いがするとは、ずっと感じてたんです。気づいた時点で報告すべきでした……あたしの不注意で……すみません」
「いや、言われてたって対処の仕様がなかっただろうしなあ……ん?」

サイタマがふと、怪訝そうに眉根を寄せた。

「この樹にそういう気持ち悪い効果があるんだとして、なんでお前は平気なんだ?」
「…………それは」

シキミは言い澱み、ふらふらと宙に視線を泳がせて、

「そういう訓練もしてましたから」
「……ふーん。大変だな」
「そんなことより、これからの作戦を練り直しましょう」

話の向きを強引に変えた。

「選択肢としては──当初の目的通り上に登る、外部とコンタクトを取るために外へ出る、一旦シェルターまで下って体勢を立て直す……この三つでしょうか」
「あと、もう一個ある」
「もう一個?」
「俺が落としたっていうヒーローの安否を確認しに降りる」
「……そうですね。かなりの実力者のようでしたから、チームを組めれば心強いのは間違いないんですけれど……そういえば彼、なんか先生のお知り合いみたいだったんですよね」
「あ? 俺の? ……ヒーローに顔見知りなんていたっけな」
「借りを返さないといけない、とか言ってました。先生に感謝してるみたいでしたけど……前にピンチを助けたことのあるヒーローとか、いないんですか?」
「さあな。いたかも知れないけど、全然わか」

そこで会話は途切れた。
いきなりサイタマが超速で動いて、シキミに飛びついた──ほとんどタックルに近い勢いで躍りかかって、彼女をがっしりと力強くホールドした。

「──〜〜〜ッ!?」

突然の展開に顔を赤くしたり目を白黒させたり忙しなく表情を変えているシキミを抱えたまま、サイタマは弾かれたように跳ぶ。枝の床すれすれを、磁石の力で浮いて走るリニア・モーターカーのように滑って──

一秒前まで彼らが座していた場所に。

巨大な塊が降ってきた。

「な、なん──」

驚愕の声を上げようとしたシキミだったが、移動速度が迅すぎて、舌を噛んでしまう。しかし衝撃波で割れた額や、銃弾を撃ち込んだ腹部と比較すれば大したことのない痛みだったが、それでも咄嗟に口元を押さえたシキミが見たものは、衝撃的な光景だった。

(……な、なんなの、あれ……!?)

端的に表すなら、それは枝の集合体であった。一本一本が幹のように太いハルピュイアの一部が絡まり合って形成しているのは。

「すげーな。──ドラゴンみてーだ」

巨大な蛇のようにうねる長い体躯。
すべてを噛み砕かんと開かれた咢。
その奥にびっしりと並んだ鋭い牙。

──龍。

ファンタジー・ゲームのラスボスのように超然とした、厳然とした、圧倒的な存在感。

架空の存在であるクリーチャーを模した、ハルピュイアからの“攻撃”が、またしても二人を狙ってきた──はっきりと、排除の意思を示してきた。

「また上からか……マジでこの樹の頭にはなにがあるんだ? 困っちまうな」
「そそそんな悠長なこと言ってる場合じゃ」

壁際で停止したサイタマの拘束から逃れ、臨戦態勢に入ろうとするシキミだったが、まだ完調してはいなかったようだ──ぺたん、とその場に尻餅をついてしまう。

「先生、ここは一先ず離脱して……」
「そんな必要ねーだろ」
「えっ……」
「さっきは恐竜で、今度はドラゴンってか。似たようなのばっかり出てきやがるな。色だけ変えてレアモンスターだとか言いやがるカードゲームアプリじゃねーんだから」

ぶつぶつと愚痴りながら、サイタマはまるで行きつけのスーパーへ向かうような軽い足取りで、ドラゴンとの距離を縮めていく。すたすたと鼻先まで来たサイタマに、ドラゴンが鎌首をもたげて大口を開ける──外敵を噛み千切ろうと豪速で迫る。

対してサイタマは、軽く手を挙げて。
ハイタッチでもするみたいに平手を振った。

──ばちんっ、

と。
ドラゴンの頭が弾ける音が壁を震わせる。

化け物はあっという間に無数の枝の細かい破片になって、ぱらぱらと落ちた。統御を失った数十メートルはあろうかという胴体がずるずると落ちてきて、床に衝突して、樹全体が大きく揺れた。

「せ……せんせい……」
「怪我は? どっかぶつけたりしなかったか」
「あ、えっと、……腰が抜けました」

ほとんど蜻蛉返りで戻ってきたサイタマに、シキミは足を崩してへたりこんだ格好のまま申し訳なさそうに項垂れる。

「これじゃあ、しばらく動けそうにないので……先に行ってください」
「置いてけってのか?」
「足手まといになります。ハルピュイアの攻撃があれっきりとは限りませんし……先生の邪魔をするわけにはいきません。先生なら単独でも対処できますから、あたしがいてもいなくても、変わらないです……最初から大した戦力じゃなかったですし……」

自虐するふうでも自嘲するふうでもなく、シキミは至って真剣な顔で、そんなことを言った。

確かに──それはそうなのだけれど。

海の底から上がってきた侵略者だろうが。
暴虐の限りを尽くしてきた宇宙人だろうが。
正体不明の大樹だろうが。
恐竜だろうがドラゴンだろうが。

自分自身が相手だろうが。

仲間がいようがいまいが関係なく。
どうせ勝ってしまうのには、間違いないけれど。

守るもののない戦いは。
庇うひとのない闘いは。
欲求不満を解消するだけの暴力は。
ひどく苦しくて──どうしたって恐ろしかったのだ。

「じゃあ尚更、こんなところに置き去りにするわけにはいかねーだろ。ここで一人で待ってて、またさっきみたいのが来たら、今度こそお前ただじゃ済まねーぞ。バカなこと言うな」

掌握できない感情にせっつかれて、つい語気が強くなってしまう。

「だいたい俺は殴るしか能がねーんだから、さっきみたいなわけのわからん夢とか幻覚とか、あーいうのは専門外なんだよ。お前が助けてくれたんだろうが。もっと胸を張れよ。邪魔とか足手まといとかつまんねーこと言ってリタイアしようとすんなよ。途中でいなくなろうとすんなよ」
「あ、あの……先生、あたし」
「一生ついてきてくれるんじゃなかったのかよ」

それはとっくのとうに成人したいい歳の男が一回りも年下の女子高生にまくしたてるような台詞では、到底なかったのだけれど──客観的な視点からすればみっともないことこの上なかったのだけれど、しかしそれは一片の嘘も偽りもなく滑り出たサイタマの本音だった。

──なにせ、初めてだったのだ。

いつでもどこでも振り返ればそこにいて、
なんの根拠もなしに信じてくれて、
自分のようになりたいと心から憧れてくれて、
打算も理屈も猜疑もなく脇目も振らずに、
ただ純粋に慕ってもらえるなんて。

先が見えないまま闇雲に進んできたこの道が決して間違っていないのだと、自分以外の誰かが証明してくれるなんて。

全部が全部。
初めての出来事だったのだ。

己が決めた“ヒーロー”という孤独な身の振り方を、寂しいとか侘しいとか思ったことは一度もないけれど。

──それでも。

「絶対に置いてったりしねーから」

ずっとずっと、心の底では嬉しいと思っていた。

もう手離したくないくらいには。
悪い夢のあとに、安息を求めてしまうくらいには。

ヒーローらしからず──執着している。

「ちゃんとついてこいよ」
「……先生、」

そして──サイタマからこうして口に出して必要としてもらえたのも、シキミには初めてのことなのだった。弟子入り志願して勝手についてまわって、かといって大した協力もできず迷惑をかけてばかりで、できることといえば食事を炊いたり掃除をしたりなんていう小間使いみたいな雑用しかなく、内心では呆れられているんじゃないかと、そのうち破門されるんじゃないかと不安だったのだが──事実はそうではなかった。

先生はこんな自分でも認めてくれている。
側に置いてもいいと、許してくれている。

その実感がシキミの内側にじわじわと満ちていって、



──足場を構成していた枝の床が、超重量級の巨大ドラゴンの胴体が落下してきた衝撃に耐えきれなくなって、一気に折れて瓦解した。



「──あ、」

眼前を茶色の屑に覆われる。内臓がスクランブルされるような浮遊感。胃と肝臓の位置が入れ替わってしまうのではないかというような──

「シキミッ!!」

同じく支えを失い宙に投げ出されたサイタマが、叫んで腕を突き出す。シキミもそれを握り返そうとして、指先が触れ合いそうになって──もう少しで掴めそうなところまできて──今度こそ、墜ちゆくシキミに“正義の味方”の救いの手が、

届かなかった。

上から──ハルピュイアの頭部から、二頭目のドラゴンが襲来してきた。先刻よりも一回りは大きい。そいつがほとんど水平に近いほどの角度で口腔を開いて迫り、サイタマが迎撃体勢を整える間もなく、字面通り、額面通りに彼の目と鼻の先で──シキミを飲み込んでしまった。

「──………………────、」

頭にかっと熱いものが上って集中する。血液が沸騰する。全身がざわめいて肌が粟立つ。体を捻って強引に繰り出した横薙ぎの蹴りで、サイタマはドラゴンの胴体を真っ二つに圧し折った。

いつものように一撃で仕留めて、サイタマは斃した怪物の先端を──シキミを丸呑みにした頭を探したが、そこに広がっているのは闇ばかりで、どこにもなかった──既に遥か下まで落ちてしまったあとのようだった。

どこまでも昏い奈落の底へ、シキミを道連れにして。

「……………………」

──どうやら。
“悪夢”はまだまだ、終わらないらしい。