Pretty Poison Pandemic | ナノ





「…………は?」

あまりにも呆気なさすぎる決着だった。
思わず声が出てしまうほどに。

自分自身と生き写しの姿で目の前に現れ、散々これでもかと煽るようなことを口走り、にやにやと笑っていたそいつは──サイタマのたった一発のパンチであえなく撃沈した。渾身の右ストレートをもろに腹部に受けたことで、上半身と下半身が泣き別れ、グロテスクな中身を晒した肉塊になった。

不様に崩れ落ちる、自分と同じ顔をした残骸。
べちゃっ、という粘っこい液体が地面にぶちまけられる音が、脳髄まで揺らすようだった。

「……んだよ、なんだよ、なんだってんだよ……」

生温かいもので濡れた拳を解いて、サイタマは唇を戦慄かせる。危機は去った。害を為す敵はこの手で斃した──はずなのに、心臓が爆発しそうなくらい早鐘を打っている。暑いわけでもないのに全身から汗が噴き出ている。随分と久方振りで、すっかり忘れてしまったこの感覚は──焦燥。

苛立ちという薄い膜に包まれた不安。
対処のしようもない悪寒に襲われる。

そこへ畳みかけるように──足元のそいつが口を開いた。

「お前、今、どうして俺を殴った?」

サイタマがびくりと視線を落とすと、致命傷によって即死したはずのそいつが、また薄ら笑いを顔に張りつけていた。横倒しになった頭部の瞳だけが動いて、ぎょろりとサイタマを見ている。

「俺は怪獣を倒したんだぜ? なにひとつとしてお前に危害は加えてない。むしろ遅れてきたお前の代わりに化け物をやっつけてやったんだから、感謝してもいいくらいじゃないのか? そんな俺を、自分の感情だけに任せてこんな目に遭わせるなんて、やっぱりお前みたいなヤツはヒーローとは言えねーよなあ──」
「……お前は一体……なんなんだ?」
「わかりきったこと聞くなよ。俺はお前だよ。対戦ゲームとかで同じキャラ選ぶと、色違いのが出てきたりすんだろ? 2Pカラーの。あーいうのだよ、俺は。だらしない1Pのフォローに出てきてやったんだ。それなのに、この仕打ちだぜ。やってらんねーよなあ、まったく。……まあ、俺も結局は間に合わなくて、守れなかったんだけど」
「守れなかった? どういう意味……」
「なんだ、気づいてないのか? つくづくおめでたいヤツだな。もっと周りをよく見てみろよ」

侮蔑的なそいつの台詞を、サイタマは無視できなかった。ぎこちなく首を回して、崩壊した街並みを改めて観察する。

砕けたアスファルトの道路に転がる無数の死体。
制服を着た男子学生、OL風の女性、年端もいかぬ幼い子供、エプロン姿の主婦、寄り添うように折り重なる老夫婦──



白い蓬髪の隙間から、濁った青い眼を覗かせる異形。
首から上のない、人型のロボットめいた金属の集合体。
ぼろぼろに破れた白衣を纏った学者風の外国人。
その傍には、仕立ての良さそうなゴスロリ衣装の子供が二人。



「…………あ、」
「お前がもっと早く来てればなあ、あいつらだって長生きできたかも知れねえのにな。可哀想になあ」
「……………………」
「全部、お前が悪いんだぜ」

いっそ怨嗟さえ込められている、嘲りと侮りに飾られたその声は今、サイタマの足元ではなく──正面から聞こえた。そこにそいつは立っていた。しっかりと五体満足で、傷ひとつもなく、聴衆の前で演説する政治家のように両手を広げて、廃墟と化した街の荒涼たる風景を背に、白いマントを砂埃の混じった風に棚引かせている。

しかし生々しい血の匂いは消えていない。立ち上り鼻腔を突く、不快な錆の臭気。サイタマはおそるおそる再び地面へ目を落とす。落としてしまう。

真ん中から断裂して身長を半分に縮めたシキミの、半開きになって乾いた眼球がこちらを見ていた。

なんで、どうして、と。
敬愛する師の、己に対する暴挙を責めるかのように。

「────────────ッ、」

瞬間。
目の前が真っ暗になった。

「てめえの無力さを恥じろ。戦いに興奮だの高揚感だの下種な快楽を求めた強欲さを羞じろ。守ることよりも愉しみを優先した高慢さを愧じろ。ただ人より強くなれただけで、ヒーローとしての素質までは得られなかった不運を悔いろ。そんでもって──」

自分の2Pを自称するそいつが悠然とした歩調でこちらへ近づいてくるのにも、リアクションを返せない。身体が動かない。生物としての本能が、なにもかもを拒絶したがっている。悪い夢なら醒めてくれ──麻痺した思考回路が、ひたすらにそう希う。

「死んじまえ」

至近距離で囁かれた言葉。
自分の声で告げられた最期通牒。

こんな──こんなにも絶望的な状況下でさえ薄っすらと“今こうして喧嘩を売ってきてるコイツは本当に俺を負かせるくらい強いんだろうか”などと考えてしまう自分は確かに。

もうヒーローとは呼べないのだろう。
ここで終わってしまうべきなのかも知れない。

そいつが構えた断罪の拳が──届く前に。

後頭部を思いきり鈍器で殴られたような強い衝撃に襲われ、サイタマの視界がブラックアウトして──



そして、そこは樹洞の中だった。

霞がかっていた意識が一気に冴え渡っていく。自分が複雑に絡み合った枝の床に膝をついて、今まさに立ち上がろうとしていた状態であることを把握する。同時に、こちらへ凄まじい速度で飛来するなにかの気配を瞬時に察知した。ばっと身を翻し、その方向へ体を転回させる。

その正体は──果たして。

壁を蹴って跳躍し、上からサイタマへ飛びかからんとしていた──双眸を爛々と赤く輝かせるシキミだった。

「…………ッ!!」

呻いたのはサイタマでなく、シキミの方であった。空中で強引に体勢を変え、攻撃の照準を無理矢理サイタマから外したのだ──そのリセット行為は成功したものの、着地の用意が間に合わず、シキミは受け身も取れず地面を盛大に転がっていった。

「な──っ、おい! シキミ!?」

そのまま蹲って悶えているシキミにサイタマが駆け寄ろうとして、躊躇した──今の彼女に触れていいのかどうかわからなかったからだ。苦しげに吠えながら、両腕を抱えるようにして爪を立て、自分自身を抑えている。反則的な“ドーピング”によって無意識の安全装置を外した──肉体回路のリミッターを破った己の全神経を、必死に制御しようとしている。

「……っぎ、……ぃい……っ」
「シキミ、おい、お前なにしてんだ」
「あ……うぁ……、せんせえ……」

細く鳴いて、がくり、とシキミは唐突に頽れた。顔面から勢いよく倒れ込んで、見ているサイタマの方が痛みに顔をしかめるくらいだった。彼女の指先は床を掻いているが、思うように力が入らないのか、起き上がることもままならないらしかった。そこでやっとサイタマはシキミのもとへ走ることができた。小刻みに痙攣している背中を支えてやり、どうしたらいいのか少し迷って、とりあえず摩ってみる。

人間離れした赤の灯っていた両目は、既に元に戻っていた。それに安堵する間もなく、サイタマはそこで初めて、シキミの額が割れて出血しているのに気がついた。シャツの腹部にも赤いものが滲んでいる。

「シキミ、お前その頭どうした。血すげー出てんぞ」
「……覚えて、ない、ん、ですか」

息も絶え絶えといった調子に絞り出されたシキミの台詞に、サイタマはぎしっと身を強張らせた。

「……俺がやったのか?」
「いいんです、先生のせいじゃ、ないですから……」
「それ、腹も怪我してんのか」
「これは、あたしが自分で、撃ったので……自業自得、って、やつです。……あたしが、油断したから……すみません」
「なんで……なんでお前が謝るんだよ。俺が……」

脳裏に過ぎる、あの恐慌を極めた光景。

足元で、芥屑のように潰れていたシキミの屍。

「いいったら、いいんです。……あたしも、グーで先生の頭どついちゃいましたし……」

そんなことをされた記憶はない、と言いかけて、サイタマは口を噤んだ。心当たりがあった。後ろからいきなり頭を殴打されたみたいな、あの衝撃──面と向かって対峙していた“2P”からのアタックではなかった。あれはシキミ渾身のパンチだったのだ。

「どうも先生、寝てたみたいなので」
「は? ……寝てた?」
「落ちたあたしを助けてくれたヒーローの方が、そう言ってました。その人も先生を下のシェルターまで運ぶために手を貸してくれたんですが、その、先生が暴れたので、落ちてしまって……糸みたいな武器を使っていましたから、墜落は免れたと思いますが……」
「……そう、か……寝てた……のか、俺……」
「悪い夢でも見てたんですか?」

シキミにしてみれば、それは沈んだ空気を払拭するための軽い冗談のつもりだったのだけれど、サイタマは首を横には振らなかった。遠くを見つめるように目を細めて、深く息をつく。

「……ああ」

本当に──嫌な夢だった。
正しく悪夢だった。

「本当に、死んじまうかと思った」