Pretty Poison Pandemic | ナノ





一般的に“夢”というのは、睡眠中の脳の作用によって起こる幻覚のことを指す。ほとんど感覚を遮断された状態でありながら、覚醒時の水準に近い活動を維持している大脳皮質や辺縁系の働きによって、かつて経験し記憶した映像をもとにストーリーを構成しているものとされている。

メカニズムに関してはまだ解明されていない部分が多く、専門機関に属する学者たちの間では今もなお研究が進められている。世間に広く知られている「夢を見るのは浅い眠りの際のみである」という常識も覆りつつある昨今、一概に“夢”という観念を決定的な確度で証明することは不可能なのだけれど、それでも現代において“夢”とはつまり“自動的な反復”であるというのが通論となっている。

それまでの人生で見たこと、聞いたこと、嗅いだもの、触れたものをアトランダムに、オートマティックに再生する脳機能──それこそが“夢”という現象の正体であると掲げられている。

(その“夢”を──この樹は強制的に誘発してるんだ。しかも当人にとって嫌な記憶──忘れてしまいたい思い出とか、いつも感じているコンプレックスを刺激して“悪夢”を見せている)

それはあくまで推測に過ぎなかったけれど、ヒズミには確信があった。なにせ身を以て体感したばかりなのだ──封印していた過去の痛みが表層まで浮き上がり、心を抉られるような“悪夢”を見せつけられた。

どこにも救いのなかった頃。
なにもかもに怯えて。
実の親にさえ心を許せず。
死んでいくために生きていた弱い自分。

終了の合図を探し求めてばかりいた日常に逆行させられた。

しかしそれは、ヒズミにとって初めてのことではなかった。二度目だった。そう──爆発事故に巻き込まれ、地下研究所に叩き落とされ、全身に電磁波を浴び劇薬を吸い込んだあの日に次いで、二度目なのだった。

そしてこの樹は、あの地下研究所と似ている。

ということはつまり──強い幻覚作用を促す物質が充満している可能性が高い。脳髄の根幹へダイレクトに作用する、敵意のない悪意に満ちた悍ましいものに包まれているのかも知れない。ヒズミはそう認識していた。そうだとするならば、さっき倒れていた調査団の一員が魘されていたのも説明がつく。かつてのヒズミも襲われた、あのどうしようもない絶望感に、彼らもまた囚われたのだ。

(あのまま彼らを放っておいたら、私みたいな特異体質に変わってしまったりするんだろうか……? ……いや、私の場合は催眠電磁波で“恐怖”を増幅されたってのもあったから、その心配はないと見ていいか。いくら危険な劇薬つったって、ほんのわずか停留しただけのただの残滓が、塩基構造に干渉……生物を構築するDNA配列まで変化させられるとは考えづらい。あの研究所より、なんつーか……空間の“濃度”みたいなのは薄い気がするし。まあでもどのみち精神に悪影響が出るのは明らかだよな。早いところ避難させねーと……)

“経験者”にしか理解できない感覚のもとに思考を巡らせながら、ヒズミは探し人の姿を求めて下層への大ジャンプを繰り返す。

この大樹の外は一体どうなっているのだろうか。幻覚物質の作用が樹洞の内側だけに留まっている確証などない。既に近隣の市にまで影響が及んで、罪のない多くの人々が“悪夢”の餌食になっている可能性だってゼロとはいえないのだ。そうだとしたら、もう一刻の猶予もない。

すべての生き物が等しく所有する最重要器官に音もなく忍び込み、輝ける希望を黒く塗り潰し、暗澹と沈んだ世界へ閉じ込める。

人間に限らず、螻蛄だって蚯蚓だって水黽だって、みんなみんな生きているのだから──脳神経の伝達によって生命活動を維持しているのだから、その脅威から逃れることはできないはずだ。

男だろうと女だろうと。
子供だろうと年寄りだろうと。
委細を問わず、一切の関係なく。

たとえ。

“血も肉も骨も五臓六腑も捨て去って、身体の大部分を機械のパーツに換装し、人間であることを辞めた青年でも“──

残念ながら、例外ではないのだった。

「……ジェノスくん……!」

三つほど下の足場に、やっと見つけた彼は枝の床に俯伏せの姿勢で倒れ込んでいた。背中を少し丸めて、まるで眠っているようなポーズで──否、実際に眠っているのだろう。樹洞に漂う幻覚物質の魔の手に、彼もまた絡め捕られたのだ。

(そりゃそうだよな、あの子も脳味噌は自前なんだもんな──くそっ!)

舌打ちして、ヒズミは地面を強く蹴った。連なる足場を一足飛びにショートカットして、彼のもとへ大きく跳躍する──



「……っ、ぐ……いった……」

額から一筋、冷汗のように血を伝わせながら、シキミは呻く。

サイタマの拳による手加減なしの一撃は奇跡的になんとか躱せたものの、その衝撃波に彼女の矮躯は吹き飛ばされた。氷上を流れるカーリングのストーンのように床を滑って、強かに頭を打ちつけた。頭蓋を覆う薄い皮膚が裂け、血管が破れ、そこからどくりどくりと脈を打って溢れる自らの血液にぞっとする余裕もない。激しい痛みが彼女の意識を繋ぎ留めていた。

「先生……っ」

苦しげに悶えるシキミを、サイタマは焦点の合っていない双眸で見据えている。温度のない眼差し──熱もなければ、冷たさも感じない。なにも篭っていない伽藍堂の瞳だった。普段から無気力で、覇気のない顔をしている彼ではあったけれど、それとは別次元の空虚さだった。

なにも見ていない──というより。
そこにあるはずのないものを睨んでいる眼。

彼は眠っているだけだ、という赤色の男の言葉を反芻する。

「………………寝惚けてる?」

独り言を呟きながら、まさかそんなわけが──とシキミは己の考えの突飛さに頬を引き攣らせた。それでも笑えなかったのは、サイタマが本当に夢でも見ているように見えたからだ。

悪夢に身を捩り、抗っているように感じられた。

「……寝相が悪いってレベルじゃないですよ、先生……」

シキミの軽口にも、サイタマは黙っている。

彼のこの異常な行動の原因は、考えるまでもなくハルピュイアの仕業なのだろう。蔓の鞭によって叩き落とされた自分を庇おうと飛び出して、不自然に頽れて墜落したとき、なにか正体不明の“攻撃”を受けたのだ──恐らく精神に作用する、視覚でも聴覚でも捉えられない不可避の催眠を。

(神経に作用する毒物だとするなら“あたしには通用しない”……だけど先生はそうじゃない。なんか薬みたいな、妙な匂いがするとは突入したときから思ってたけど、おかしな樹だからって気にも留めてなかった。迂闊だった……)

後悔に奥歯を噛みしめながら手の甲で額から溢れる血を拭い、シキミは立ち上がった。その動作にサイタマは反応を見せた。ゆらりゆらりと一歩ずつ、緩慢な足取りで前進してくる──シキミに近づいてくる。

握られた彼の拳から伝わる、明確な暴力行使の意思。

そんなサイタマから目を逸らさず、シキミはヴェノムを右手に構えた。そのシリンダーには、落下中に装填した弾丸が一発だけ込められている。

己自身に打ち込むことでその効力を発揮する、劇薬の弾丸が。

「先生──どうか無礼をお許しください」

深呼吸と共に、シキミは銃口を腹部へ強く押し当てた。
寝ているというなら──すべきことは決まっている。
瞬きするより、ごくごく簡単な帰結。

無理矢理にでも起こしてやるしかないだろう。

目を閉じて一秒。
目を開いて二秒。
そして三秒。

細い人差し指でトリガーを絞る。

「この目覚まし時計、ちょっとばかし乱暴ですっ!」