Pretty Poison Pandemic | ナノ





シキミの全速力のクライミングに、赤色の男はなんとかついてきていた。激しいダンスのように腕を振り回して、シキミの後ろから一定の距離を保ったまま、上昇する──空中で華麗に踊る彼の妙技に思わず見とれそうになるが、残念ながら現在それどころではない。

落ちるのは簡単だが、登るのはどうしたって難しい。自分の体に圧し掛かる重力をこんなにも疎ましいと思ったことはなかった。もどかしいと感じたことはなかった。奥歯を食い縛りながら、シキミはがむしゃらに上を目指す。サイタマが墜落した場所へと急ぐ。

蔦の砲台による強制降下の倍以上の時間をかけて、シキミと赤色の男は目的地へ到着した。かくしてそこには──地に倒れ伏したまま動かないサイタマの姿があった。

「──先生ッッッ!!!!」

シキミが金切り声で叫ぶが、返事はない。反応はゼロだった。足を縺れさせながら走って、シキミは彼の隣へ滑り込む。焦燥の滲む切羽詰まった口調で「先生、先生、先生」と壊れたレコードのように繰り返し、その肩をがくがくと揺さぶる。しかしサイタマの目は閉じたままだった。

出血は見られない。打撲や骨折など、墜落によって負った傷はないようだった。それなのに──サイタマは起き上がらない。頭でも強く打ったのかも知れない。

「どうしよう、先生、先生っ……」

半べそをかきながら狼狽するシキミの様は、いくらA級ヒーローといってもやっぱり女子高生なんだな、という感想を赤色の男に持たせるには充分な醜態だったのだが──彼の心には、そんなことよりもずっと大きな衝撃が走っていた。

シキミが“先生”と呼んでいる、その男。
見覚えがあった。
いや──見覚えどころではない。

忘れたくとも忘れることなどできようものか。

かつての悲願を、野望を、その拳で打ち砕いたヒーロー。
忌々しくてたまらない“正義の味方”なのだから。

「……お前だったんだな」

掠れた独白には、忘我の響きがあった。ヘルメットの下で彼がどんな表情を浮かべているのか、彼自身以外に知る者はない。

「ここで会ったが百年目ってとこか」

赤色の男は足を動かしはじめる。迷いのない足取りで、サイタマに縋りつくシキミの、すぐ背後に立つ。

「借りを返させてもらうよ。……ヒーロー」

誰にともなく呟いて。
彼は黒い革手袋を装着した右手をゆっくりと伸ばす──



なぜか今、自分は廃墟と化した市街地にいる。

真ん中から圧し折られ、炎と黒い煙を吹き上げているビルディングの群れ。舗道のアスファルトは砕けてめくれあがり、街灯は残らず地面に転がり、元の形を保っている建造物はひとつもなかった。その惨状は──そこかしこに倒れている老若男女の人々にも、同じことが言えた。

誰もが揃って正常な肉体を失っている。

肩から先がない。片足がもげている。首が百八十度も回転して明後日の方を向いている。どてっ腹の風通しがよくなっている。辺り一面を埋め尽くす、ありとあらゆる暴虐の限りを尽くした殺戮の痕跡。息をしている者はひとりもいなかった。

(……俺、なんでこんなところにいるんだ?)

ついさっきまで、ハルなんたらとかいう巨大樹の内部を探索していたのは記憶にある。どこまでも広く、天を突くほどに高い樹洞を登っていたはずだ。行動を共にしていたパートナーもいた気がする。それは誰だったか──靄が掛かったように不明瞭で、判然としない。

そうこうしている間に、立ち尽くしていたサイタマの前に異形の生物が姿を現す──鋭い牙を持つ、二足歩行の獣だった。爬虫類の無機質な瞳がサイタマを射抜く。全身がびっしりと光沢のある鱗に覆われている。

学生時代にテレビのロードショーで見たジュラシック・パークが脳裏を過ぎった。現存する生物のどれよりも大きい躰、なによりも獰猛な凶暴さ、しかし獲物を狩るための知性も持ち合わせている史上最強の恐竜──T・レックス。

太く尖った爪の伸びる腕と、成人男性ですら難なく丸呑みにできるであろうサイズの口には、べったりと赤黒い液体がこびりついている。そこから漂う不快な錆の匂い。幾度となく嗅いだことのある、しかし一生かけても絶対に慣れられはしない、滴り落ちる血液の異臭。

(ああ──コイツが“やった”のか)

どこか他人事のようにぼんやりとそんなことを考えていたサイタマに、そいつは雄叫びを上げながら吶喊してきた。だらんと両腕を垂らしたまま、無防備に直立しているサイタマを食い千切らんと、食い散らかさんと大口を開けたまま突撃してきて──その頭に風穴が空いた。

なんの技巧も凝らされていない、素人の繰り出した正拳が、恐竜の頭部を貫いたのだ。開かれていた口の奥に空洞が生まれ、そこから青い空が見えた。体液と唾液の混ざり合ったものが地面に撒き散らされて、べちゃっ、と嫌な音を立てた。

しかしサイタマの赤い手袋は汚れていない。
それも当然だろう──
今のパンチはサイタマが叩き込んだものではなかったのだ。

攻撃は恐竜の背後からのものだった。断末魔さえなく、太古の地上の覇者である恐竜の巨躯が傾いて、その向こう側にいた者がサイタマの視界に入る。舞い上がる土煙の中に佇むそいつを見て──そこで初めて、サイタマは明確に驚愕した。

「一足遅かったな」

オールインワンの黄色い繋ぎ。
両手には赤い手袋。
一本の毛髪さえない頭。
白いマントをはためかせて──そいつは立っている。
拳を握って、突き出している。

「……………………」

鏡でもあるのかと思った。
そんなわけがないとわかってはいても、そう思いたかった──見たくなかったものを、今まで目を逸らし続けていたものを、無理矢理に見せつけられている、そんな感覚があった。

「カッコつけてヒーローだって言っときながらさ、お前が守れた人って実際いるのか? いつも災害が発生してから現場に向かうとかさ。後手後手じゃねーか。今もそうだ。この街を見てみろよ。お前がもっと早く来てたら、こんなふうにはならなかったんだぜ。まったく──ヒーローなんて、聞いて呆れちまうよ」

自分自身と同じ姿をして、同じ声で喋る、そいつの台詞が脳髄に染み渡る。

「せっかく実力を手に入れたのに、そんな体たらくだ。情けないよな。それなのにお前ってヤツは“強くなりすぎた”とか思ってやがる。“張り合いがなくて退屈だ”ってな。お前は一体なんなんだ? 人助けがしたくてヒーローになったくせに、圧倒的になりすぎてつまらないってのはどういう了見だ? 勝っても達成感が得られなくて物足りないって、お前は何様なんだよ」
「……………………」
「お前みたいな身勝手なのは、もうヒーローとは言えない。ただ好き放題に暴れてストレス発散して、スッキリしたいだけの自己中な喧嘩狂だ。正義の味方とは程遠い。むしろ対極の存在だよ。どこまで行っても平行線が交わることはないんだぜ。お前はもう、お前がなりたかったヒーローにはなれない」
「……黙れよ」
「痛いところ突かれたってツラだな。自覚はあったんだな。それでいてのうのうとヒーローのつもりでいたなんて、頭が下がるよ。お前いつだったか、どっかで難癖つけられたときに言っただろ──“お前らの評価が欲しくてヒーローやってんじゃねえ”とかなんとかよ。ご高尚なこった。それ自体は評価に値すると思うぜ。でも実際、それって寂しいよな。俺にはわかるぜ。だけどお前がそんなことを言ってるのは口先だけだろ。評価なんていらないって突っ張ってもよ、ありがとう、って言われたら嬉しいんだろ? 感謝されたら満足感に浸っちまってんだろ? それはつまり、誰かから認めてほしくて戦ってるってことの証明なんじゃねーのか? 他の有象無象どもと同じだ──結局ちやほやされたくて正義の味方やってるだけなんだ、お前は。最初は確かに“誰にも必要とされなくてもいい”って考えてたんだろうさ。でも今は違う。変わっちまったんだ。今のお前は、もう──」

じりじりと──胸の奥を焼かれる。
限界まで張り詰めていた糸が切れそうになる。

頼むからその先を言うな。
言わないでくれ。
そんなことは重々わかっているから──口に出さないでくれ。

心のどこかでサイタマは懇願するような気持ちで──

「──くだらねえ偽善者なんだよ」

いとも容易く踏み躙られた。
なにもかもすべてまとめて踏み潰された。
それは否定。
それは拒絶。
それは嘲笑。
それは軽蔑。
それは冷罵。
誰の悪意でもなく。
他ならぬ自分自身からの。
目の前が赤く染まる。
サイレンを鳴らす警報機のように。
けたたましく耳を劈く赤。
暴力的衝動を象徴する血の色。

燃え尽きて。
糸が切れた。

サイタマは地を蹴って飛び出した──己の底から迸る昏い感情に駆られるままに、純然たる敵愾心に突き動かされるままに──そいつに向けて、全身全霊の衝動に任せて躍りかかる。



彼は黒い革手袋を装着した右手をゆっくりと伸ばす──

そして。

サイタマの体を起こし、ゆっくり持ち上げた。自分の首の後ろにサイタマの左腕を回させ、肩を貸すような姿勢を取る。

「……意外と重いな。ひょろっこく見えるのに」
「え、あっ、あの……っ」
「安全なところまで運んでやるだけだ。まあ、この樹の中に安全なところなんてあるのかどうかわからないが……ここに置いておくよりはいいだろう」
「外にいる協会の人たちに連絡は取れませんか? 早く治療というか……なにか措置をしないといけないのでは」
「その心配はないんじゃないか。彼はただ──眠っているだけだ」
「ね……眠っている? ね、寝てるんですか?」
「ああ。呼吸のリズムとか、筋肉の弛緩の度合を見る限り、彼は深い睡眠状態にあるだけみたいだ。よっぽど疲れていたんじゃないのかな」

飄々と嘯く赤色の男だったが、それが彼の本心でないことはシキミにも伝わっていた。この逼迫した状況下で、突然ぐっすりとっぷり熟睡に落ちるなんて、いくらマイペースを極めたサイタマにしたって有り得ない。なんらかの干渉を受けたと考えるのが自然だろう──ハルピュイアから、なんらかの特殊なアプローチがあったに違いない。

あのサイタマですら手玉に取ってしまう次元の。
恐ろしく精度の高い、正体不明の攻撃が。

「彼には借りを返さないといけないからね」
「借り……? サイタマ先生と知り合いなんですか?」
「いろいろあったのさ。一言では、ちょっと説明できないな。ともかく──彼はこんなところで倒れていていい男じゃない。地上のシェルターに放り込んでおこう。あれは頑丈な要塞だ。突入したときに確認したけど、破損している様子はなかったし、もっとも危険性は低いと見て間違いないと思う」
「そう……ですか」
「というわけで俺は一旦下りるが、君はどうする? 一緒に戻るか? それとも、単独で登るか?」
「いえ、戻ります。先生を放っておけません」

即答だった。赤色の男は頷いて、サイタマを抱えたまま足場の縁へ向かう。空いた右手を指揮者のように振って、その指先から伸びる糸が空間を裂き、ひゅんひゅんと風の鳴くような声を上げるのがシキミの耳にも微かに聞こえた。

その音に反応したのは。

彼に支えられたサイタマも同じだった。
同じで──同時だった。

「…………──ッ!!」

発条仕掛けのようにサイタマの体が跳ねる。思わぬ彼の“暴走”に、その腕を掴んで支えていた赤色の男は引っ張られ、押し出され──大きくバランスを崩す。どうにか持ちこたえようと踏鞴を踏んだが、そのままあえなく──赤色の男は足場から転落した。

「あ──」

隣に並んでいたシキミが、奈落へ突き落とされた赤色の男へ咄嗟に手を伸ばしたが、まったく届かなかった。彼は呆然としているシキミへ、錐揉み状に降下しながらハンド・ジェスチャを送る──それはシキミが先ほどサイタマに送った、ヒーロー協会の定めた隠密行動中などに使用する手信号である。その内容は──

──“状況は危険。即刻、離脱すべし”──。

彼の赤いシルエットは暗がりに溶け、あっという間に見えなくなった。彼の駆使するストリングスがあれば、地面に叩きつけられて呆気なく終わり、なんてことには万に一つもならないだろう。対処法を持たないシキミが追いかけて飛び降りる必要性はゼロではあるのだが──最重要点は現在、そこにはない。

眼前に、幽鬼が如くふらふらと立っている自らの師。
頭が下を向いているので表情は窺えないが、とても正気の沙汰には見えない。どんな希望的観測を以てしても、彼が正常な思考力のもとに動いているとは思えなかった。

「せ……先生……?」

シキミの手が、滑稽なほど震える。

サイタマは彼女の呼びかけに、なにも応えず──ただの一瞥もくれず、まるで目障りな敵を一撃のもとに排除しようとするかのように、彼女に向けて大きく拳を振り上げた。