Pretty Poison Pandemic | ナノ





上を目指してひたすら足場から足場への跳躍を繰り返しながら、ヒズミはかつて自身が巻き込まれた事故のことを思い返していた。

決して油断をしているわけではない。身勝手な理由で多くの人々の命を奪ったテオドールに憤懣して己を奮い立たせようとしているわけでもない。センチメンタルな回想に浸って、なんて私は可哀想なのだろうと心を慰めているのとも、勿論のこと違う。どうしてもそうなってしまうのだ──なぜなら。

(似てるんだ──あの“地下研究所”と、ここは)

地盤の崩落によって叩き落とされたあの忌まわしい場所に、匂いというか、気配というか、とにかく空間の質が似ているのだ。充満している不可視の圧迫感。ぴりぴりと肌に伝わる、針の筵にいるかのような緊迫感──そのなにもかもが、まるっきり同じだった。

ヒズミが特異体質へ“進化”した大きな要因は、催眠作用のある電磁波を長時間その体に浴びていたことだとベルティーユは言っていた。しかしそれだけではない。要因は要因であって、原因のすべてではないのだ。爆発によって気化して空気中に霧散した薬剤を、呼吸によって体内に取り込んだことも影響していたらしい。脳内物質の分泌を抑圧し、あるいは過剰に促し、精神の安定を崩壊させる劇薬──

それによって増幅された“恐怖”が暴走して、ヒズミを人間たらしめていた最後の箍を外した。
堰を切って、制御を超えて、怪人へと変えてしまった。

その話を予め聞いていてよかったと、ヒズミは心底からベルティーユに感謝していた。あの爆発事故で厳重な管理下から離れ、外界に流出してしまった劇薬の数々──先述の気化だったり、土壌への浸透だったり、地下水への溶解だったり、いろいろなルートがあったのだろうが──ともかくそれらはこの界隈一帯を汚染して、様々のモノに多大なる変化を与えた。

この巨大樹が出現するに至った理由として、ヒズミはすんなり“爆発事故の後遺症によってこうなってしまった自分と一緒だ”と、正解を導き出すことができていた。

そう──完膚なきまでに一緒なのだ。
この樹と自分は、同じ事故の、同じ被害者。

劇薬によって遺伝子ごと書き換えられ、まったく新しい生き物として生まれ変わった。それがこの樹にとって幸だったのか不幸だったのかはヒズミの知るところではないが、他を圧倒する生命力を獲得した樹は、こうして超然と聳えている。外から全貌を確認できてはいないので如何とも言い難いが──恐らく巷は騒然としているだろう。安全な暮らしを脅かす敵対勢力として認識されているのだろう──かつての自分のように。

「なんとも難儀な話だよな、兄弟──」

そうしているうちに辿り着いた足場のひとつで、大勢の男たちが倒れているのが見えた。
ヒズミは思考に埋没しかけていた意識を表層まで引きずり上げ、彼らのもとへ駆け寄る。そのうちの一人がヒズミの接近によって目を覚まし、首だけを動かして彼女を見た。その目は虚ろで、いまいち焦点が合っていないが、傍らに膝をついたヒズミの姿を認識することはできたようだった。

「……アンタは……あの“生存者”か……?」
「ええ。皆様ご存じ、噂のビリビリ女です。大丈夫ですか? 動けますか?」
「……俺たちは、一体……なにがどうなったんだ……」
「覚えていないんですか」
「わからない……急に周りに白い花が大量に咲いて、光り出したと思ったら……そのまま意識を失って……」

ヒズミは辺りを見回してみたが、花どころか葉の一枚すら見当たらない。枝が絡み合って構成された床と、無機質に立ちはだかる樹皮の壁しかない。どこまでも色彩に乏しく殺伐としている。そんなメルヘンチックな光景が広がっていたなどとは、にわかには信じ難かった。

「それで、夢を見たんだ……」
「夢? 夢ですか?」
「昔の夢だ……何年か前に、生まれ育った街に、怪人が来たときの……猛毒ガスの化け物が襲ってきたんだ……みんな死んじまった……助けに来てくれたヒーローも……俺を庇って……」

ぼそぼそと掠れた声で呟く男の双眸にみるみる涙が溜まって、許容量を超えて透明な玉になって、頬を伝って滑り落ちた。

「俺は……俺はなんにもできなかった……それが悔しくて……今度は俺が正義の味方になるんだって思った……まだ今は、ただの調査員だけど……俺は……助けたかったのに……」
「あなたの仲間は、全員、生きています。まだ終わっていません」

ヒズミが語気を強めてそう言ったのは、悄然としている男を正気に戻すためだった。男はしばらく黙ったまま茫洋と中空に視線を彷徨わせていたが、ややあって再び口を開いた。

「さっきも、起こしに来てくれたのがいた……金髪の若いヤツだった……腕がなんか、ごっつくってよ……機械みたいで……あれも夢だったのか……?」
「……それ、多分、夢じゃねーな」

敬語を使うのも忘れて、ヒズミは舌打ちした。間違いなくジェノスのことだろう。どれくらいのタイムラグがあるのかは判然としないが、確実に彼はここに来ていた。

「その人がどっち行ったか、見てませんでした?」
「……わからない。わからないが……飛び降りていったような、気がする……」

飛び降りた──ということは、下へ向かっていったのか。

(地上を囲ってた幹は、かなり分厚かった……高いところの隙間から入って、シェルターの中にいた私を助けるために下りてる途中でここに差し掛かった……ってのが、いっちゃん可能性の高いパターンか)

しかし自分は最下層──地上のシェルターからここまで登ってきたのだ。その道中ジェノスには出くわさなかった。この樹洞が馬鹿みたいに広く、足場がジグザグに入り組んでいるという複雑な構造をしているせいで、気づかないうちに入れ違いになってしまったのだろうか。

そう考えたヒズミだったが、どうしてもこびりついた違和感が拭えなかった。こういった異常事態に不慣れで、注意力散漫な自分がジェノスを見落とすのは大いに有り得るとしても、彼の方がそんなミスを犯すとは思えない。あっちには高精度の生体感知センサーが備わっているのだ──暗かったし急いでたのでわかりませんでした、などというすっとぼけた理屈が通じる道理はない。

「仕方ねーな、……戻って探すか」

登っていったという怨敵──テオドールの動向も気になるところだったが、それよりもまずジェノスと合流して、話をしたかった。ビビって怖くて死にそうだけど、でも戦ってくるよ、と決意を改めたかった。

きっと猛反対されるのだろうけれど。
なによりも──ただ、彼の声が聞きたかった。

「……くっそ、メロメロだな、もう」

緩く頭を振って、ぽつりとヒズミは零す。

その言葉の意味を押し測り兼ねた調査員の男は目をぱちくりさせているが、ヒズミはそんな彼に「やることが終わったら戻ってきます」という一言だけを淡々と伝え、足場の縁から助走をつけて飛び降りた。かくして取り残された男は、呆然と彼女を見送るほかなかった。白い蓬髪が戦旗のように勇ましく翻り、一瞬で彼の視界から消えた。