Pretty Poison Pandemic | ナノ





自分を追って飛び降りたサイタマの体が空中でぐらりと傾いて、あらぬ方向へ落ちていくのを、シキミは四肢を引き千切られそうな落下速度に翻弄されながら確かに見た。

(せ──せんせ──なにが)

彼女の目に間違いがなければ、サイタマはハルピュイアから繰り出された枝の槍や蔦の鞭はすべて人間離れした膂力で防御していた。物理的な攻撃を受けてはいなかった──それなのに、いきなり彼は糸が切れた操り人形のようにがくんと停止して、バランスを崩し、そのまま螺旋階段を構成していた足場のひとつに墜落した。

あのサイタマが。
巨大隕石をも素手で砕き、地上を侵略せんとやってきた大海の覇者ですらただのワンパンで倒した最強の男が。

成す術もなく枯れ葉のようにあしらわれた。

「………………ッ!」

ざわり、とシキミの胸が不穏にざわめいた。

自分が放り投げられ、遥か下に叩きつけられて潰れたトマトになるのはいい──いや決してよくはないけれど、絶対に受け入れたくはないけれど、こうなってしまったのは己自身の致命的な不注意が招いた結果だ。どうしようもなく因果応報なのだ。

しかし──サイタマは違う。

彼は情けない自分を助けようとして飛び出してきてくれた。弟子を守ろうと身を挺してくれただけなのだ。そんな憧れの正義の味方が、わけもわからないまま目の前で危害を加えられている。自分を庇おうとしたがために傷つこうとしている。

そんなことが。
そんなことがあってたまるか。

そうならないために──ヒーローになったのに。
もう誰も悲しまないでいいように。
誰より強くなりたかったのに。

こんなことがあってたまるものか!

「……ッッッあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

絶叫した。

喉が潰れそうなほど悲痛な声を迸らせながら──シキミはヴェノムを腰から引き抜いた。シリンダーを開く。詰めていた試験管状の弾丸を回収することさえもどかしく、落下の勢いのまますべて空中に放り出した。かくして空になったシリンダーに、予備としてホルスターに装着しておいた新たな弾丸をどうにかこうにか装填する。思うように身動きのとれない状態でありながら、その手捌きは澱みなく鮮やかなものだった。

たった今シキミが愛銃に込めたのは、赤黒い色をした、どろりと粘性の高い液体の入った弾丸である。
それはつい先日、海人族と戦ったときにも使用した劇薬。

かの深海王をも圧倒した“ドーピング”──

師のもとへ駆けつけるべく、素早く腹部に銃口を押し当てて、躊躇なく引鉄を引こうとしたシキミめがけて──赤い人影が横の足場から飛び出してきたのは、まさにその瞬間だった。

がしっ、と強く抱きかかえられた。

「…………!?」

予想だにしていなかった展開に、シキミは硬直する。しかしその程度で落下速度が低減するわけもない──潰れたトマト候補が哀れにも二人に増えただけだ。

謎の赤い人影は、どうやら男性のようだった。なかなか鍛えているらしく、シキミを抱える腕はそれなりに逞しい。ヘルメットを被っているので、どんな顔をしているのかはわからなかった。先ほどハルピュイア全体を揺すった轟音──協会が重機を使って入口を作ろうとしたのだとシキミが推測したあの衝撃──その試みが成功して、ようやく内部へ突入できたヒーローのうちの一人だろうか。

それが正解であれ誤解であれ、このままでは墜落に彼も巻き込んでしまう。それだけは避けたい──と足掻くシキミだったが、彼はシキミを離そうとしない。左腕をしっかりとシキミに巻きつけて、そして──黒い革手袋を装着した右手を振り上げた。

その指の先端から、極めて細いなにかが伸びる。

(……あれは……“糸”──?)

刹那。

──ぎしっ、

と。

二人の体が──宙に制止した。

「…………ええっ!?」

驚愕に目を白黒させるシキミに対して、赤色の男は冷静である。高く掲げた右腕を指揮者のように数度ほど複雑に動かしたかと思うと、ゆるやかな下降が始まった。どういう仕組みなのか、どういったトリックなのかシキミには想像もつかなかったが、なにはともあれ──近くの足場に、安全に着地することができた。生きた心地がじわじわと蘇ってきて、その場にへたりこみそうになるシキミだったが、なんとか根性で持ちこたえた。

乱れた呼吸を整えながら、シキミは改めて自分を窮地から救ってくれた男をまじまじと見た。脳天から爪先まで、とにかく赤い。ヒメノが好きだった新本格ミステリ小説シリーズに、全身まるっと赤ずくめの人類最強を名乗る請負人がいた気がするが、そんな感じだ。そのキャラクターは女性だったのだが──とにかく現実離れした、フィクション作品の登場人物めいた雰囲気がある。

「あ、えっと、ありがとうございます」
「……礼はいらない」

当たり前のように返事をもらえたのが少し意外だった。
それどころか、普通に会話が続いている。ヘルメットに遮られて声がくぐもってはいるものの、聞き取れないほどではない。

「ところで、僕の見間違いでなければ、君は上から落ちてきたようだったが」
「え? ああ……はい。そうです。ハルピュイアの頭部あたりになにかあるのではないかと上へ向かっている途中で、攻撃を受けました」
「それで、上にはなにかあったか?」
「登りきる前に、攻撃を受けて落とされてしまったので……しかし、上に行く途中で攻撃された──妨害されたということは、そこに外敵に発見されたくないなにかがあるのかも知れません。危険を承知でリトライする価値はあると、あたしは思います」
「そうか。僕も頭部に急所みたいなものがあるんじゃないかと思って登ってきたんだが、どうやらアタリみたいだな……ほら、大抵こういうモンスターは頭が弱点だって、テレビゲームじゃ相場が決まっているだろう?」
「はあ……」

サイタマと同じことを言っている。
そこでシキミは我に返った。そうだ──のんびりと話し込んでいる場合ではない。早くサイタマの安否を確認しに行かなければ!

「あ、あの、一緒に入った人が、今の攻撃を受けて動けなくなってるかもしれなくて──」
「仲間がいるのか」
「な、仲間……といっていいのかはわかりませんが」
「仲間はいいものだ。大事にしろよ」
「はあ……」

なぜだか諭すように言われ、曖昧に頷くシキミ。

「そうだ、あの、──あなたの名前は」

シキミが問いかける。彼はしばし押し黙ってから「名乗るべき名は、今はない」と、意味深長な回答を提示した。

「今は……?」
「いずれ君にもわかるよ」

質問をはぐらかされてしまい、シキミは首を傾げるしかなかったのだが、きっとヒーロー名簿に登録したばかりで、まだヒーローネームをもらえていないのだろう、と強引に納得することにした。活動するに当たって、自分の本名を名乗りたがらないヒーローも少なくはない。

「上に戻るんだろう? 同行させてくれ」
「一緒に来てくださるんですか?」
「目的地は同じなんだ。人数は多いほうがいい。それに、君ほどの実力者が手も足も出なかったんだ──僕みたいな半端者じゃ、あっという間にやられてしまうだろうからね。できればフォローしてほしいっていう姑息な算段でもある。乗ってくれるかい?」
「とんでもありません。フォローしてほしいのは、正直あたしもですから……感謝します」

ワイヤーフック銃が正常に動作することを確認して、シキミは正体不明の赤色の男を振り返る。

「全速力で登ります。ついてきてください」
「ああ。遅れないように努力する」

彼は革手袋をはめた両掌を、その感触を馴染ませるように何度か開閉して、頷いた。あの革手袋から極めて強度の高いストリングスのようなものが伸びていて、それを複雑な指の動きで操っているのだということはシキミもなんとなく察していた。さっきのように高所からの落下を止める命綱にしたり、使い方によっては物体を切断することなどもできるのだろう。応用の利くユーティリティな武器だ。その分、自由自在に扱うのには相当の鍛錬を積む必要がありそうだけれど。

(──よし!)

心強いパーティ・メンバーも加わったことだし──と気を引き締め直して、シキミは頭上の足場めがけ、師匠との合流を果たすべく、意を決してフック銃のトリガーを引いた。