Pretty Poison Pandemic | ナノ





樹皮に覆われたシェルター内部を一周し、どうにかこうにか潜って通れそうな枝と枝との隙間に当たりをつけて、ヒズミはそこから覗く灰色のコンクリートで構成された壁に開いた掌を押し当てた。体内に充填した電気を、そこに一点集中する。

高圧電流の持つ熱エネルギーを利用して、壁を熔かそうという試みだ。直接フルパワーの電撃を叩き込む方が手っ取り早いのかも知れないが、シェルターの外がどうなっているかわからない以上、無闇に高出力のアタックを仕掛けるのは危険だろうという判断に基づく行動だったのだが、それが不要な懸念であったことをヒズミはすぐさま悟ることになる。

「……なんだこりゃ」

赤くどろどろに熔解した部分に触れないよう注意しながら穴を抜けて、果たしてそこはシェルターの内側と大差ない闇の世界であった。妙ちくりんな夢を見ているあいだに夜になったのか、などとは思いすらしなかった。月の明かりも星の瞬きもない。完全に一帯が遮蔽されている──常軌を逸した巨大な“なにか”によって。

目を凝らしてみれば、立ちはだかっているのはドームの中に犇めいていた枝と同じ色、同じ質感を持つモノであることがわかった。荒れ果てて土が剥き出しになった地面のあちこちに太い根も隆起している。そこから連想されるものは、すなわち──そう──“樹”である。

自分は今──巨木と呼ぶことすら躊躇われる規模の“樹”の内側に閉じ込められている?

「シェルターの上にでっけー樹でも生えてきたのか……?」

それは冗談のつもりだったのだが、どうしようもなく的確な推測なのだということを、このときのヒズミはまだ知らない。

人間離れした五感を持ちうる自分ですら光を拾えないのだから、完全に密閉されていると見ていいだろう。注意深く周囲を見て回って、地道に脱出の突破口を探すしかない──と覚悟を決めたヒズミの耳に、ふと物音が飛び込んできた。

それは重いものを引きずるような──ずる、ずるっ、という、不規則な音だった。体積の大きい動物が這って移動しているとも取れる。ヒズミがその薄気味悪い音に対して真っ先に覚えたのは恐怖だったが、放置しておくわけにもいかない。不可思議な現象に巻き込まれた一般人かも知れないし、この謎の空間を作り上げている危険な怪人が徘徊しているというなら、尚のこと──戦って、打ち倒さねばならない。

自分の帰りを待っているひとがいるのだから。

右手に青い火花を漲らせ、音のする方向へ歩いていく。鳥の群れが一斉に鳴くのに似たスパークを隠しもせずに響かせているのは故意である。ちょっとでも威嚇になれば、という思惑だった。しかし彼女の気合いに満ちた臨戦態勢はまったくの無駄に終わる──なぜならそこにいたのはとても強そうには見えない、地面を這い蹲って進む泥だらけの白衣を纏った銀髪の若い男だったからだ。

立ち上がろうとしているらしかったが、どこかに傷でも負っているのか、うまくいっていなかった。ふらふらと体を起こしたかと思うと、次の瞬間には盛大に転んで地面と熱い抱擁を交わし、白衣に土色の汚れを増やしてしまう。

突如として鼓膜を劈いたスパークに驚き、異形の趣きで闊歩する自分に怯えた顔を向ける彼を見て、ヒズミは警戒を解いた。両手を軽く挙げて敵意のないことを示しながら「大丈夫ですか! 怪我はありませんか!」と叫んだ。

「だ──誰!? 君は誰なの!?」
「あーっと……通りすがりのビリビリ女です」
「ビリビリ女……?」

適当に名乗ったヒズミの台詞に、彼は目を瞠った。

「君……君は、あの、ヒズミかい?」
「私のことをご存じなので?」
「ああ、俺、ベルティーユ教授のチームメイトなんだ。教授から、その、なんていうか……話は聞いてる」

ということはヒーロー協会に属する人間なのか。歩いた距離から推察するに、ここは“受付”のあった場所の近くだ。そこで待機していて、この樹に飲み込まれた、ということだろうか。

「今どうなってるのか、説明できます?」
「……ごめん。気がついたらここにいたんだ。なにが起きたのか、全然わかんなくって」
「そうですか……仕方ない。出口を探しましょう」
「あるの? 出口が?」
「わからないので、これから探すんです。なければ私が作りますよ。ビリビリ女ですから」

そう嘯いて、ヒズミは指先から火花をひとつ散らした。彼はその超常的な光景に息を呑んで、それから思い出したように「あ、そうだ、俺、君に聞かなきゃいけないことがあるんだ!」と急に前のめりになった。その切羽詰まった様子に、ヒズミの方が気圧されてしまう。

「君のその能力はX市の爆発事故に巻き込まれたせいで発現したんだよね!?」
「え? まあ、そうらしいですけど……」
「それなら──“ジャスティス・レッド”を知ってるかい!?」

彼が口に出したその名前に。
ヒズミの全神経が拒絶を示すように軋んだ。

「…………ああ」

知っているもなにもあったものじゃない。

「会ったこともあるよ」
「! 本当に!?」
「ここの地下に研究所を作った、その張本人だった男だ」
「そ──そんな、そんなはずはない!」

声高に否定する銀髪の男の剣幕に、ヒズミは面食らった。

「あの人は正義の味方なんだ! そんな悪いこと絶対にしない! 罪のない人を傷つけたりなんてするもんか! だって俺のことも助けてくれたんだ! 命の恩人なんだよ!」
「……命の恩人」
「きっと真犯人がいるんだ! そいつに騙されたか、罠に嵌められたんだ! あの人は優しいから……きっとそうだ! あの人は悪くない! ジャスティス・レッドはヒーローなんだ!」

正確には──ヒーロー“だった”人間だ。
ヒズミはそれを知っている。

「でも彼は逮捕されて、今は刑務所にいるんだろ? 同意を求めるべきは私じゃあない。警察なり裁判所なり、冤罪を主張しに行くのなら、もっと相応しいところがある」
「勿論ずっとそうしてきた! でも誰も話を聞いてくれなかった! 証拠は揃ってる、疑う余地などない、とか言って……実際そうなのかも知れないけど、でも、俺はあの人がこんな恐ろしいことをするとは思えないんだ……きっとなにか裏があって……だからあの人は牢屋から脱出したんだ! 自分の無実を証明するために!」
「……ちょっと待て」

聞き捨てならないフレーズがあった。

脱出した?
脱出したと言ったか?

“ジャスティス・レッド”が──檻から脱出した?

「教授が参加してるっていう“逃走した凶悪犯の再捜索チーム”ってのは──逃走した凶悪犯ってのは──まさか」
「ジャスティス・レッドのことさ。俺もそのチームの一員。もともとは研究員の下っ端だったんだけど、あの人と繋がりがあるっていうんで、行動パターンの予測に協力してほしいって呼ばれたんだ」
「……………………」
「教授から教えてもらってなかったの?」
「パーフェクトなくらいスリーピングイヤーにウォーターだよ」
「なんでルー大柴?」
「ただの冗談。深い意味はない」

どうして隠していたのか──とベルティーユを責める気にはなれなかった。彼女は恐らく自分の精神状態を配慮したのだ。宇宙人の襲来以降、毎日のように錯乱してパニックの発作を起こしていた自分にこれ以上ダメージを与えないよう、余計な負荷を掛けないよう細心の注意を払ったのだ、とヒズミには痛いほどわかっている。

真に責められるべきは──弱い己自身だ。
黒幕との面会を拒み、面倒から逃げ、決着を放棄した臆病者。

「……笑えねーな」
「え、まあ、面白いジョークではなかったけど。でも俺ルー大柴は嫌いじゃないよ」
「いやそっちじゃねーよ。……そうか、脱走したのか、あの男」
「脱走したけど、逃走はしてない。だって彼はまた俺たちを助けに来てくれたんだよ! この危機から人々を守るために!」
「……助けに来た……? ──ッ! まさか……」
「ここに来たんだ! ジャスティス・レッドはここに来た! さっき気絶してた俺を起こしてくれて、それから上に登っていったんだ! たぶん上になにかあるんだ! きっと悪者を退治しに行ったんだよ!」

いっそ狂信的ともいえる銀髪の彼の、根拠に乏しい主張を右から左へ聞き流して、ヒズミは思案する。

あの男が、この闇の中の、どこかにいる。

生まれ育った故郷を滅ぼした仇が。
自分をこんな化け物に変えた敵が。
すぐ近くに──いる。

(……できれば一生、会いたくなかったな)

怖くて怖くて死んでしまいそうだった。

雨の降り頻っていたあの日、ジャスティス・レッド──テオドールに命を狙われ、背中を切り裂かれた悍ましい記憶が蘇る。気が狂ってしまいそうなほどの激痛を思い出す。手が震え出しそうになる。心臓が早鐘を打っている。息が苦しい。

──それでも。

「見逃すわけにはいかねーよなあ……」
「……! あ、あの人のところへ行くのかい?」
「全部すっきり清算して、散らかった全部しっかり片付けるって決めたもんで」
「あの人を殺すの!? や……やめて! それだけはやめてくれ! あ……あの人は……あの人は悪い人じゃないんだ!」
「悪い人かどうかは、話をしてから自分で判断する」

きっぱりと言って、ヒズミは頭上を見た。登るのに打ってつけな足場が重なって連なって入り組んでいるのが確認できた。今の自分の身体能力なら、難なく跳んで移動できるだろう。

銀髪の男は、ヒズミの説得を諦めたらしい。あからさまにがっくりと落胆している。爆発事故の事情──ひいてはヒズミが発電体質に変貌を遂げた非業の経緯を聞いている分、自分の都合だけで彼女の気持ちを収めさせるのは無理だと折れたのだった。

しかし“話をしてから判断する”というヒズミの台詞に、彼はほんのちょっと安堵を覚えたようでもあった。有無を言わさず暴力に訴えかけて制裁するような乱暴な真似をしないのなら、対等に会話をしてくれるのなら、きっとジャスティス・レッドが悪党ではないことに気がついて、和解してくれるはずだ──と、そんな甘い期待を抱いているらしい。

「じゃあ……君にひとつ、お願いしてもいいかい」
「私にできることなら努力する」

ジャケットのポケットの中でくしゃくしゃに潰れていた煙草の箱を取り出して、一本くわえ、親指で火をつけるヒズミ。白く細い煙を吐きながら地面に胡坐をかいて、銀髪の男と目の高さを合わせる。

「……ジャスティス・レッドに会ったら」
「会ったら?」
「伝えてほしいことがあるんだ」
「聞きましょう」
「俺もヒーローになった。ヒーローっていうか、実際に戦ったりはしない研究員だけど、困っている人を助ける仕事に就いたんだ。君みたいに……ジャスティス・レッドみたいになりたくって、協会に入ったんだ」

己を救ってくれたヒーローに憧れて。
同じ道を歩もうと決めた。

「だから……君にも戻ってきてほしいんだ。前みたいに、世界の平和のためにカッコよく怪人と戦って……俺、ずっと待ってるから……」

彼の語尾はふにゃふにゃと弱くなっていき、唐突に止まった。ヒズミがその顔を窺う。両の瞼が下りていた。緊張の糸が切れてしまったのか、意識を失ったようだ。呼吸の乱れはない。彼の手首に触れて、脈拍の安定を確認してから、ヒズミは重い腰を上げた。

地面に優しく彼を寝かせて、着ていたジャケットを脱いで被せた。その行動に深い意味はなかったが、彼が起きたときに「ひょっとしてビリビリ女と出会ったのは夢だったんだろうか」とか勘違いされたら嫌だな、と思ったので、痕跡を残しておくことにしたのだ。

「……さて」

切実な伝言も預かってしまったことだし。
行かねばならない。
会わねばならない。

ジャスティス・レッドとの──最終対決。

唇に挟んでいた煙草を落とし、踵で踏み躙って火を消した。公序良俗に反する忌むべきポイ捨て行為ではあるが、今回ばかりは大目に見てほしいところだった。

「木登りなんて歳でもねーんだけどなあ」

そんな軽佻な呟きとは裏腹に、決して後には退かない意思を感じさせる力強さで──ヒズミは地を蹴った。