Pretty Poison Pandemic | ナノ





ハルピュイアから“反撃”があったという報告を受けても、ベルティーユはさして驚いた素振りを見せなかった。それくらい織り込み済みだ──とでも言うように、いたって冷静な表情をキープしたまま、ビーカーから試験管へ慎重に液体を移していく作業の手を止めない。

「怪我人は? 傷の深い者はいるかい」
「いいえ。幸い振り落とされた全員が軽傷です」

そう答えるヴァルゴの顔は憔悴に染まっていて、この短時間で一気に老け込んだかのようだった。ただでさえ細身で肉付きの薄い彼の頬は、げっそりとこけているようにさえ見える。本来は頭脳労働が主な仕事で、こういった現場に出張る機会が少なく、あまり肉体を鍛えていない彼にこの大騒動はかなり堪えているようだ。

「じきに第二弾の精製が完了する。酷かも知れないが、動ける者には動いてもらわなければならない。ニードル・ガンの再稼働準備を整えて、ヒーローたちにリトライの命令を出しておくれ。誰か一人でも内部に侵入することができれば事態は大きく進展するだろう」
「……それが、ですね……」
「? ……どうかしたのかい」

言い澱むヴァルゴに、ベルティーユは調合を中断して怪訝そうに振り返った。

「先ほど開けた“入口”から侵入に成功したヒーローが、一名おります」
「ほう、大したものだ。一体その勇者は誰なんだい」
「それが……わからないのです」
「わからない?」

鸚鵡返しに高い声を出したベルティーユに、ヴァルゴは申し訳なさそうに縮こまった。いい歳をした、しかも知的で凛とした風貌の男性がそんなふうに恐縮している姿にはひどく違和感があったが、そんなことを気にしている場合ではない。

「ヒーロー名簿に、その人物の特徴と一致する者がいないのです。A級にも、B級にも、C級にも……集まった全員に協会から支給している手帳──身分証明書のようなものを提示させているので、関係者であることは間違いないはずなのですが……」
「……そいつは男だったかい?」
「体格からして、恐らく」
「彼がどんな恰好をしていたか教えてほしい」
「全身を赤色で統一していました。ジャケットからブーツに至るまで、すべて赤でした。フルフェイス・ヘルメットを被っていたので、顔はわかりません。こちらのミスです。奇抜な衣装で活動しているヒーローが多いからといって流さず、しっかりと確認しておくべきでした」

後悔を滲ませながら、懺悔のように言葉を絞り出すヴァルゴを、もうベルティーユは見ていない。デスクに両手をついて、がっくりと肩を落としている。

あまりにもお粗末な対策委員会の不手際に呆れ返ってしまったのだろうか──とヴァルゴは思ったが、それは事実ではなかった。

確かにベルティーユは呆れていた。呆れ返っていた。しかしそれはヴァルゴに対してでも、対策委員会の末端構成員に対してでも、突入に失敗して好機を逃したヒーローたちに対してでもない。他ならぬ自分自身の、注意力の散漫さにこそ眩暈がするほど後悔していた。

予想はしていたのに。
予測はしていたのに。
予見はしていたのに。

“そいつ”を見落とし取り逃がした、自分自身の甘さに打ちひしがれていた。

「なんという……私としたことが……!」
「教授……? どうかなさいましたか?」
「絶対に“あれ”がここに来るのは、わかっていたことなのに……だからこそ私が出向いたというのに……こんなにも近くにいながら……なにをしているんだ、私は!」

デスクを強く叩いて、ベルティーユは声を荒げる。重役との会議ですら自由奔放な言動を憚らず、いつでも飄々としているベルティーユがここまで取り乱し、平常心を欠いているところを初めて目の当たりにしたヴァルゴは狼狽することもできず、ただぽかんとしてしまう。

「き──教授……?」
「大至急だ。大至急そいつを確保しろ。総力を上げてだ。ハルピュイアの討伐と同等の優先度で、そいつの捕縛指令をヒーロー全員に通達するんだ」
「ほ、捕縛ですか!? 一体なぜ──」

ヴァルゴの疑問には答えず、ベルティーユはふらふらと脇に押し退けていたパイプ椅子に腰を落とした。ほとんど頽れるような仕種だった。額に掌を当てて、眉間に険しく縦皺を刻み、長い睫毛を地面の方向へ伏せる。

「彼はヒーロー協会の──いや、全人類の敵である。まさかこんなに堂々と衆目の前に出てくるとは……完全に読み違った。私も焼きが回ったものだ……“追われている身であるから、隠れて隙を窺って、こそこそと鼠のように紛れ込んでくるはずだ”と思い込んでいた。平和ボケも甚だしい。しかも赤ずくめ、だと? まるで正体を悟られることを恐れていない。我々を虚仮にしている……」

赤いヘルメット。
赤いジャケット。
赤いボトムスに──赤いブーツ。

脳天から爪先まで赤一色。
自身を印象づけるための看板としてのコスチューム。

それは、まるで。

──“特撮戦隊モノのリーダーみたいな”──

「彼は……彼は一体、何者なんですか?」
「……海人族の襲撃によって巻き起こった混乱に乗じて、当時J市を走行中だった護送車から脱走した凶悪犯だ。まだ裁判が終わっておらず、面会許可が下りたばかりで、収監されていた独房から協会本部にある地下牢へ事情聴取のために移送される途中だった……。私は彼の犯した罪を暴くのに大きく貢献していた。その功績を買われ、彼を再逮捕するために立ち上げられた捜索チームに組み込まれた。私が今回ここに来たのは、勿論ハルピュイア災害を制圧するのが第一の目的だったが……同時に“犯人は現場に戻ってくる”という通論に基づいて、彼の尻尾を掴むためでもあった」
「ま──まさか……」

一気に顔面蒼白となったヴァルゴに畳みかけるように、ベルティーユは厳しい面持ちのまま、不快感を胃の中から吐き出すように、その名を──



何者かに肩を揺すられて、ハイジは目を覚ました。

暗闇の中にいた。どこまでも真っ暗で深い、漆黒に沈んだ場所だった。しかし夜の中空にぽっかりと浮かぶ月のように、頭上のとある一ヶ所だけが光っている。空間を閉塞している壁の一部に穴が空いて、そこから外界の明かりが入り込んでいるのだとハイジは察した。

一筋の光が、直線を描いて、荒れた地面に白い円を落としている──まるでスポットライトみたいに。

その中心に、ハイジは倒れていた。血液が鉛になったかのように全身が重く、思うように動かせない。それでも首だけをかろうじて回して、己が置かれている状況を把握しようとする──たった今、自分を揺り起こした人物が誰なのか、その影を探そうとする。

探そうとして。
探すまでもなかった。

果たして“そいつ”はハイジの隣に跪いていた。片膝をついて、女王に忠誠を誓う騎士めいた高潔な佇まいで、そこにいた。赤いヘルメット。赤いジャケット。赤いボトムスに、赤いブーツ。

燃える正義感を体現したかのような。
灼熱の炎を思わせる、その出で立ち。

その彼のことを、ハイジはよく知っていた。

「……ぁあ──あああ……!」

呻きとも唸りともつかない声を呆然と垂れ流しながら起き上がろうとするハイジを、深紅の彼は手で制した。無理して動かない方がいい──そういうジェスチャだった。

深紅の彼はハイジの無事を確認するやいなや立ち上がり、踵を返した。広がる闇を恐れず、むしろ進んで溶け込んでいこうとするかのように毅然と歩き出したその背中へ、ハイジは大声を振り絞る。体をがくがくと震わせながら、白衣が土で汚れるのにも構わず肘をついてもがき、追い縋ろうとする。

「ま──待って! 待ってくれ!」
「……………………」
「俺は……俺はずっと君を探してたんだ! 会いたかった!」

深紅の彼は足を止めた。
しかし──振り返りはしない。
それでもハイジは喉を嗄らしながら言い募る。

「本当のことを聞かせてくれ! 君はヒーローだろ! 俺を助けてくれたヒーローじゃないか! 君があんなひどいことするわけない! そうだろ!? なにかの間違いなんだろ!? そうだ──誰かに罪を着せられたんじゃないのか!? 悪いヤツの罠に嵌められたんじゃないのか!?」
「……………………」
「ここに君が来たのは人々を助けるためなんだろ!? なにが起こってるのか、俺もよくわかってないけど……危険からみんなを守るために、君はここに来てくれたんだろ!? なあ! そうだって言ってくれよ! 俺は──」
「なにも心配することはないよ」

深紅の彼が──言葉を発した。

「もうすぐ終わる」

ヘルメットに阻まれて、やや不明瞭にくぐもってはいたけれど、それはかつてハイジが憧れた“ヒーロー”の声に違いなかった。

「ちゃんと終わらせるよ。──僕が」

再び闇の奥を目指して歩き出した深紅の彼を止める術を、もうハイジは持っていなかった。しかしその緑の瞳から猜疑は消え失せ、今は憧憬に輝いている。テレビの画面の向こうで悪をバタバタと薙ぎ倒す正義の味方を応援する小さな男の子のような、純粋な尊敬の眼差しに変わっている。

「来てくれた……そうだ、君はヒーローだから……危機を終わらせるために、来てくれたんだ……俺たちを助けるために……君がここに来た……」

そして熱の篭った口調で──深紅の彼の名を口にする。
かつて彼が誇りと使命感を胸に、高らかに世界中へ名乗っていた、その二つ名を──

それは奇しくも、壁の向こうでベルティーユが発した台詞と一言一句として違わず、タイミングも揃って、完璧に被って完全に重なっていたのだが、そんな神の悪戯が如き偶然を知る者はどこにもいない。

彼らは同時に、大樹の内と外でこう叫んでいた。



「「──“ジャスティス・レッド”がここに来た!」」