Pretty Poison Pandemic | ナノ





「それで、うっかりオーケイって言っちゃったの?」
「………………………………うん」
「なんだそれ。しょーもなっ。ハゲろ」
「もうハゲてるよ……」

ヒズミの辛辣な一言に、サイタマは情けない呻き声を上げ、頭を抱えて項垂れた。

壁を刳り抜いて作られた小窓から、ヒズミはリビングの様子を伺った。彼は本当に軽率な返答をしてしまったことを後悔しているらしく、テーブルに突っ伏して珍しく真面目に悩んでいるようだった。大鍋で茹でられている三人前のパスタを菜箸でぐるぐるとかき回しつつ、ヒズミはしかしそんなサイタマの懊悩をひっそり面白がっていた。

「まあいいんじゃねーの? これで合法的にかわいい女子高生とアレコレできるってことだろ。突如やってきた弟子入り志願の純粋な美少女に修行と称してあんなことやそんなことを」
「アホ言うな! エロゲーじゃねーんだぞ!」
「ああんっ! いやん! だめっ! 先生やめてっ! やめてくださいっ! こんなのっ! 先生のいじわるっ!」
「喘ぐな! やめろ! 頼むからやめてくれ!」

ガチへこみだった。
相当グサッときたようだ。
効いたようだ。

「ヒズミ? どうかしたのか? 妙な声が聞こえたが」

ジェノスが顔を出してきた。風呂掃除の途中の、ゴム手袋に泡立ったスポンジを持ったままの彼に、ヒズミは軽く手を振って「なんでもねーよ」と答えた。

「そうか。それならいいが……あまりを余所見をするな。火を扱っているときは集中していないと怪我をするぞ」
「……ん。わかった。ごめん」

正味な話、家庭用コンロ程度の火力では傷ひとつとしてつかない強靭な皮膚を現在のヒズミは持っているのだが、それでも彼女は素直に頷いた。ジェノスはヒズミが丈夫さを楯に体を雑に扱うことを頑なに良しとしない。戦闘の度にパーツを壊しては取り換え壊しては取り換えしている自分のことは清々しいほど棚に上げ、ヒズミには口うるさいくらいに注意するのだ。

「人の家でいちゃいちゃするんじゃねえええ!」
「せ……先生!? どうしたんです!?」
「うるせええええええ! クソが! このリア充どもが! 爆発しろおおお!」
「落ち着いてください先生! 先生!」
「あっはっはっはっは。やべー。おもしれー。愉悦愉悦」
「黙れ! この野郎! 聖杯に呪いあれ!」

額に青筋を立てているサイタマにまったく悪びれることもなく、ヒズミは笑いながら鍋に塩をまぶしている。ジェノスはどうしたらいいのか判断しかねておろおろしていたが、やがて“自分が丸く収められる会話ではない”と理解したようで、後ずさるようにバスルームに戻っていった。

「まあまあ。言っちゃったもんはしょうがねーだろ。腹が減ってるからイライラすんだよ。メシ食って風呂入って寝て成り行きに任せましょうや」
「簡単に言ってくれるけどなあ……」
「明日も来るんだろ? あの子。シキミちゃん」
「って言ってた。学校が終わったら来るって。しかしいくらヒーローつったって、未成年がこんな危険指定区域に出入りするのはまずいよなあ……親御さんとか出てきたら、どう説明すりゃいいんだよ……」
「あー、それもそうか……同居人がいるって言ってたな」
「同居人? 家族じゃなくて?」
「……そういえば、同居人とか保護者とか、なんか妙な言い回しだったな。わけありかな」
「聞かなかったのかよ?」
「寝起きでぼけっとしてたから、変だとも思わなかった。ごめりんこ。明日聞いてみたら?」
「そうだなあ……放っとけねー問題だよな……」

悩みの種がまたひとつ増えてしまった。

「とりあえずメシにしましょう。ミートソースとカルボナーラ、どっちにします?」
「…………カルボナーラ」
「卵のっけます?」
「うん」

食欲をそそるチーズの匂いがサイタマの鼻腔をくすぐった。
こうなったら開き直るしかない。明日のことは明日の自分に任せよう。サイタマは食事の支度に勤しむ隣人を手伝うべく、鉛のように重い尻を上げた。



そして──翌日。
来訪者がやってきたのは昼過ぎであった。ノックの音にサイタマは読みかけのマンガから顔を上げる。ジェノスは定期メンテナンスだかなんだかで出掛けていて、ヒズミはまだ寝ているのか音沙汰がなく、活動しているのはサイタマだけだった。

(……この時間って、まだ学校なんじゃねーのか?)

訝しみながらもマンガを閉じ、サイタマは疑うことなくドアを開けた。
そこに立っていたのは、見覚えのない人物であった。

墨を流したような漆黒の髪をサイドに垂らした妙齢の女性だった。吊り上がった切れ長の鋭い目は、猫や狐や猛禽類を連想させる。裾の長い羽織を袖を通さず肩に掛けていて、その下には暗い緑色の、男物の甚平を着ている。腰布に差してあるのは喧嘩煙管と呼ばれる、金属製で極太の、武器としても使えるように作られた煙管だった。足元の高下駄がまた古風で、奇矯というほどではないものの、とても街中でよく見かけますね、といった通俗的なファッションでは有り得なかった。

「御免」

ややしゃがれ気味の、年季の入った声だった。謝罪ではなく挨拶として発せられたその単語に、サイタマはぽかんと口を開いたまま、かろうじて「どうも」と会釈で応えた。

「シキミがご執心の“サイタマさん”というのは、お主のことかえ」

人は見た目によらないという使い古された言葉があるけれど、今回ばかりはそうでもないようだった。外見通りの古めかしい口調で、彼女はサイタマに訊ねた。

「……あんたは?」
「おお、申し遅れてしもうた。儂はシキミの保護者じゃ」

予想よりもかなり早いお出ましだった。
正直、まったく心の準備ができていなかった。

「えっ、あ、保護者さん……すか」

思わず敬語になってしまう。しかし“保護者”とは──どういう意味なのか。女性の年齢は化粧や髪型でいくらかごまかせるものだが、彼女にそういった雰囲気はない。サイタマ自身や、つい先日“人造怪人量産計画”をともに暴いた“教授”よりは年上なのだろうが、それでも女子高生の娘がいるような歳には見えなかった。

「親御さん……じゃなく?」
「いいや。あの子は親無しじゃよ。幼少の砌から親戚筋のもとで育てられておっての、それからまあ複雑な事情があって、現在は儂が引き取って面倒を見ておる」
「そ……そうだったんすか……」

どうにもシキミはサイタマが想定していたより難しい娘のようだった。

「お主いまシキミのことを“難しい娘だ”と思ったろ」
「いやいやいや滅相もない」
「よいよい。実際めんどくさい立場の子であるからして。ちゃんとした高校に通えているだけでも奇跡のような星の下に生まれた子であるゆえ……ヒーローなぞやっとるお陰で、世俗から距離を置かれることこそないけんども、それでも孤独な子じゃよ、シキミは。重荷になるやもしれぬが、まあ、よろしくご指導ご鞭撻してやってくれんさい」
「え? あの、弟子入りに反対というわけでは……」
「あの子が決めたことに、儂は口出しする気はないでな。根が頑固な子じゃから、儂がなにか言うたところで聞きゃあせんじゃろうしの。それに──お主、相当の実力者とお見受けする。いざというときには、どうかシキミを守ってやってくれ。もっとも」

ぎらり、と彼女の糸目が光った。

「お主自身がシキミに手を出すようなことがあれば、儂も黙っちゃおらんがの」
「とんでもないですそんなことしません絶対しません」

取り立てて凄んだ口振りでもないのに、彼女の台詞には謎の迫力があった。サイタマが焦る程度には鬼気迫るものがあった。これが年長者の風格か、とサイタマは打ちひしがれる。

「かははは、冗談じゃよ、冗談。本気にせんでくれ。むしろ嫁にでも貰ってくれれば万々歳じゃて」
「よ、嫁って……」

それはさすがに飛躍しすぎではなかろうか。

「いや、それは、ほら、歳の差とか……」
「たかだか十年やそこらであろう? 大した問題ではないわ、そのくらい。ほんの瞬きの間じゃ」
「はあ……あ、そういえば、その、お名前」
「人は儂をヨーコと呼ぶ」

これまた妙な自己紹介だった。

「ヨーコさん、すか」
「お義母さんと呼んでくれてもよいがの」

にやりと含み笑いをして、ヨーコはサイタマの肩をぽんぽんと叩いた。

「いやあ、よかったよかった。実はどんな男かと気を揉んでおったのじゃが、お主のような男ならば一安心じゃ。大船に乗った気持ちでシキミを任せられる」

自分との遣り取りの、一体どこを見て安心したというのか。気の利いたことなどなにひとつとして言えていないのだが──と考えて、サイタマは改めて自分の不甲斐なさに落ち込んだ。

「どうせ今日もシキミは来るじゃろうから、あまり帰りが遅くならんよう注意したってくれんさい。長居をしてしまって申し訳ない。儂はそろそろお暇させてもらう」
「え、あ、お茶くらい出しますけど……」
「気遣いは無用じゃ。また今度、ゆっくりしに来るでの」

勝手に約束を取りつけて、ヨーコは踵を返して颯爽と去っていった。からん、からん、という高下駄の立てる軽い足音がどんどん遠ざかっていく。なんだか狐につままれたような気分で、ヨーコの後ろ姿が見えなくなっても、サイタマはしばらく玄関先から動くことができなかった。

──なんだかまたごたごたに巻き込まれそうだ。
それは嫌な予感ではあったけれど、決して、悪い予感ではないのだった。