Pretty Poison Pandemic | ナノ





それまでの曖昧模糊としていた感覚が嘘のように、ヒズミの頭は冴え渡っていた。不気味なほど静まりかえった、一縷の光もない闇の中であっても、彼女の超人的な視覚は正しく空間を捉えていた。自分の生まれ育った家でもない。ましてや花畑でもない。ここは間違いなく、遺体の安置されたシェルターの中である──と。

しかしその様相は、明らかに変化していた。コンクリートだった壁は茶色のなにかにびっしりと覆われている。表面は乾いていて、ささくれていて、ごつごつと不規則な凹凸がある。まるで樹の枝が密集しているようだ、とヒズミは思った。その咄嗟の比喩がまさに的を得ていることを、現在の彼女は知らない。

円形のシェルターの壁はぐるりと茶色に囲まれていた。ヒズミの周囲にはそこから伸びている“根”も這っていたが、それらは不思議なことに、等間隔に並べられた遺体をすべて避けていた。白いシーツの隙間を縫って、壁と同じコンクリート製の床を割って地面に潜り込んでいる。

そして枝は天井を突き破って、上へ伸びていた。屋根が落ちていないのは、枝が複雑に絡み合ってうまい具合に支えているためだろう。しかしそれもいつまで保つかわからない。崩落に巻き込まれたら怪我では済まないだろう。つい先日インベーダーたちの手によって滅ぼされたA市で、瓦礫の下敷きになったときのように──

(……怖いな)

恐怖の記憶が蘇る。かたかたと奥歯が鳴りそうになるのをぐっと堪え、傍らに横たわる両親の手を順番に握ってから、ヒズミは立ち上がった。二人との“お別れ”はさっき済ませた。いってきますと伝えて、いってらっしゃいと応えてもらった。

自分の甘ったれた身勝手さで、打たれ弱さゆえの逃げ癖で、父にも母にも今まで散々迷惑をかけてきた。恥をかかせてきた。それでも彼らはドロップアウトしかけた己の子供の将来を死にもの狂いで打開しようと、齢二十一に至るまで体を張って守ってくれたのだ。せめて二人の安らかな眠りを妨げないように、今度はこちらが命を懸ける番だ。

(いい加減に親離れしろ──ってことだ)

枝に埋め尽くされた壁際まで、警戒しながら歩み寄る。手で表面を撫でてみれば、それはいよいよただの樹であった。がっしりと硬く、乾燥しているのに、どことなく瑞々しさのようなものも感じさせる。その太さや厚みはまちまちで統一性がなく、場所によっては枝と枝の隙間からシェルターのドーム自体を構築しているコンクリートの灰色が垣間見える部分もあった。

枝の柵が特に薄い箇所を探して、電撃で破って外に出よう。ヒズミはそう考え、シェルターを壁に沿って一周してみることにした。体内に高圧電流をチャージしながら足を動かす。前髪から飛び散る火花が、暗く閉ざされたシェルター内をちかちかと照らした。物言わぬ人々の、魂の抜け殻によって膨らんだ白いシーツを慎重に避けながら、ヒズミはとある異常を発見した。

「……? なんだ、あれ……」

そこには“瘤”があった。蟷螂の卵のように、壁と床に張りつく形で、樹皮が異様に膨らんでいるのだ。かなり大きい。一般的なマンションの、3LDKくらいの面積ならまるごと収まってしまうのではないだろうか。手の甲で軽く叩いてみる。周りの枝と比較しても、明らかに硬度が高い。あまりにも不自然だった。堅牢な繭のごときその“瘤”に、ヒズミは本能的な危機感を覚えた。

近づかない方がよさそうだ──そう直感した。

正体不明の“瘤”から離れ、ヒズミは脱出口を見つけるべく、探索を再開する。



ベルティーユの精製した毒は、かくして絶大な効力を発揮した。薄い青色をした液状のそれは、ペットボトルの半分にも満たない量でありながら、確実にハルピュイアへ大打撃を与えた。

協会の秘匿兵器である特殊な巨大ニードル・ガンによって、ハルピュイアの幹の真正面、地上およそ十メートルほどの部位へ注入されるやいなや、その周辺がみるみるうちに枯れていった──ぼろぼろと錆が落ちるように樹皮が剥がれ、第二撃を加えるまでもなく“入口”が完成した。

「──今だ! 諸君! 突入しろ!」

ヴァルゴの大音声。構えていたヒーローたちが一斉に走り出した。隆起した根の坂を駆け上がり、いつ塞がるとも知れぬ“入口”へ殺到する。

しかし──怪樹は、易々と外敵の侵入を許さなかった。

空いた穴から、高速で数本の枝が伸びてきたのだ。唸りを上げて鞭のようにしなり、先陣を切っていたフブキ組の一団を薙ぎ払った。後に続いていた他のヒーローたちが驚愕に身を強張らせる。彼らもまた暴れる枝の一撃によって振り落とされた。ハルピュイアからの突然の反撃に怯え、恐れをなして逃げ惑う者にも容赦なく枝は襲いかかる──叩き落として排除しようと猛威を振るう。

ハルピュイアが初めて外部からの刺激に反応した。
圧倒的な攻撃性──暴力的なリアクションという形で。

「な──なんだと……!?」

予想だにしていなかった展開に、ヴァルゴは目を瞠る。協会屈指の実力者たちが、次々と羽虫のように軽々とあしらわれていく光景に呆然と立ちすくむ。

しかし──
それで終わりではなかった。

ハルピュイアの猛攻を紙一重で回避しながら、入口へ接近していく者が一人。見事な体捌きで迫り来る枝の鞭を躱し、跳んで、どんどん登っていく。作戦の統括を担う司令塔のヴァルゴや、既に地上へ落下させられたヒーロー、災害対策委員会の面々が唖然とそれを見守る中──彼は鮮やかに、踊るように進んでいく。

赤いフルフェイスのヘルメット。
同じ色のライダース・ジャケット。
臙脂色の革パンツ。

深紅のみに彩られた影の侵攻は止まらない。

「──! あ──危な」

その彼の背後から、枝が自らの鋭利な先端を突き刺そうと飛来する。完全なる死角からの攻撃。反応が間に合わない、串刺しにされてしまう──と誰もが血腥い惨劇を脳裏に過ぎらせた。しかしそうはならなかった──枝は弾かれ、勢いを殺され、次の瞬間には細切れになっていた。

「………………!?」

そこにいた全員が目を疑った。赤色の彼は後ろを振り返るどころか、枝に触れてすらいない。ただ“指揮者のように、腕をついっと見当違いの方向へ斜めに振った”──それだけだ。それだけにしか見えなかった。

彼はそのまま“入口”に滑り込んで、観衆の前から姿を消した。しばらく呆気に取られていたヴァルゴだったが──ややあって正気を取り戻し、側にいた部下に「今のは誰だ! リストと特徴を照合しろ! 無線でコンタクトを取れ!」と声を張り上げて命じた。怒鳴られた部下はぴゃっと飛び上がり、それから慌ててどこかへ走っていった。

そうこうしている間もに“入口”はじわりじわりと塞がっていく──茶色の蔦がうねって、瘡蓋のように覆い被さっていく。

見れば見るほど、不気味なほどの生命力だった。背筋を冷汗が伝っていくのを自覚しながら、ヴァルゴは項垂れ、疲労の色が濃い溜息を吐き出しながら眉間を指先で揉んだ。



ジェノスは悩んでいた。

目の前に現れた不可思議な“それ”に、どう対処したものかと困惑していた。根に絡め取られているであろう地上のシェルターを目指して大樹の層をひたすら下っていた彼が遭遇したのは。

──“扉”だった。

枝同士が電気コードのようにぐちゃぐちゃにこんがらがって固まった足場の上に、扉があったのだ──たった今ジェノスが飛び降りたばかりの上階にまで届きそうなほどの、大きな扉。

真ん中でカットした楕円の上半分のような形をした観音開きのそれは、四車線のトンネル程度か──大型トラックも余裕ですれ違うことができるだろう。壁や床と同じ色と質感の分厚い板が左右対称に並んでいて、中間くらいの高さには、律儀にも緑の蔦で取っ手を象った装飾までついている。しかし巨人でもない限り、その取っ手を使って扉を開閉することは不可能だろうとジェノスは思った。

扉の周囲には遮るように濃緑の蔦が密集していて、とても通り抜けられそうにない。かといって下へダイビングできそうな縁もない。どう足掻いても扉を潜らねば先には進めないようだった。ロール・プレイング・ゲームに出てくるダンジョンを思わせる、作為的な構造──冒険者に“ここが次のステージへ続く正しい道である”と指し示しながら“しかし進むには向こうにいるボスを倒さなければならないので武器とアイテムと心の準備をしろ”とほのかにイベント・シーンの勃発を匂わせる、そんな物々しい雰囲気。

テレビゲームに詳しいわけではないけれど。
あえて譬えるならば、それが最も近い比喩だろう。

「……………………」

意を決す。
腹を括る。

どのみち戻るなどという選択肢はない──ジェノスは謎の扉に掌を当てた。強く押してみる。引いて開けるタイプのドアだったら燃やすしかないな、という懸念もあったが、扉はすんなりと前に動いた。想定していたほどの重さもない。大した抵抗も苦労もなく、ジェノスは扉の向こうへ辿り着いた。

辿り着いて。
くらっ、と脳が揺れた。

ここまでの殺風景さが嘘のような場所だった。上下左右、ぐるっと三百六十度──白い花が零れんばかりに咲き誇っている。蓮に似た、淡く光を放つ花弁を持つそれらが何百、何千と溢れる現実離れした光景に、ジェノスは圧倒される。ふわふわと浮いて、地に足がつかなくなるような感覚。

ぽん、ぽん、と次々にその白い花は増殖していく。空間すべてを埋めようとするかのように、際限なく数を増やしていく。これは異常事態だ──と頭では理解しているのに、体が動かない。脳とボディを構成する各パーツとの連動がうまくいかない。たったいま潜って通ったばかりの扉が背後から忽然と消え失せているのにも、ジェノスは気がついていない。

彼の目の焦点は、もはやどこにも合っていない。
ぐるん、と世界が回る。

白い蓮の妖しい輝きに──なにもかもが塗り潰される。