Pretty Poison Pandemic | ナノ





「おやおや、これはまた──とんでもないね」

急ピッチで立ち上げられた“ハルピュイア”災害対策委員会からの要請を受けてX市に出向してきたベルティーユは、開口一番そんな嘆息を漏らした。協会の所有するバンから下り、そのままふらふらと車体にもたれかかって、眼鏡のリムに触れながら驚愕に引きつった苦笑を浮かべている。

「これは。一体。どういう。現象。なのでしょう」
「現時点ではまだわからないな。至急サンプルを採取して分析しなければ……とりあえず、持ってきた機材をセットしよう。ドロワット、ゴーシュ、手伝っておくれ」
「承知しましたわ、教授」

荷台に積んでいた荷物をせっせと下ろし始めた三人に協会関係者たちが駆け寄ってきて、手を貸した。至るところにスイッチ・レバーの付属したなにやら複雑そうなマシンや、金属製の黒い箱、それらを動かすための電源装置──自身の研究室から持ち出してきた機器の類を、なるべく平らに均された場所を選んで並べていく。いまだ瓦礫があちこちに残る廃墟都市の中心ではあったが、恐らくベルティーユがここに来るという連絡を受けて、ある程度の準備は整えてあったのだろう。設置作業はスムーズに終了した。

「遅れて申し訳ない。現在の状況を、なるべく詳しく教えてほしい」

折り畳み式のデスクに置いた自前のノートパソコンのキーボードを目にも留まらぬスピードで叩きながら、ベルティーユは近くにいた黒スーツの男に説明を求めた。

彼が述べたのは──数時間前にこの樹が生えてきたこと。シェルターを完全に取り込んでしまったこと。今も樹は驚異的な速度で成長していること。シェルターから数百メートル以上も離れた場所にあった、遺族を案内する“受付”も巻き込まれて樹の内部へ埋没してしまったこと。そしてその“受付”で管理作業に当たっていた者の全員が行方不明になっていること。それから急遽ヒーローたちを送り出すための陣営──自分たちがいるこのスペースを確保したこと。

「つい十数分前、ハルピュイアの幹に謎の大穴が空きまして……そこからヒーローが二名、指示を待たずに突入したとの情報も入っているのですが、確度が低いために保留となっています。目撃者の証言によれば、十代後半くらいの女の子と、頭のハゲた男だそうなのですが……」

ベルティーユの手がぴたりと止まった。

「……もしや」
「心当たりがあるのですか?」
「いや──不確定事項だ。報告するほどのことでもない……内部がどうなっているのかは、どれくらい把握している?」
「それが、最初に派遣した調査団と連絡が途絶えてしまいまして。現状わかっていることはほとんどありません」
「連絡が途絶えた……トラブルが起きたか? なんらかの攻撃を受けた可能性が高いかもしれないな。……ふうむ」

顎に指先を当てて、ベルティーユは考え込むようなポーズをとった。

「ところで、君、名前は?」
「はっ! わたくし災害対策委員会のヴァルゴと申します」
「ヴァルゴ氏。その“謎の大穴”から、他のヒーローを突入させたか?」
「いいえ。危険ですので近寄るなと命令を……それに大穴は五分と経たず塞がってしまいました。今はもう完全に枝に覆われてしまって、元通りの分厚い樹皮に遮られています」
「なるほど。では私は私の仕事をさせてもらうとしよう。ハルピュイアの成分解析に入る。大体の体構造を把握することができれば、破壊の糸口が掴めるかもしれない。細胞の結合パターンが読めれば、脆い部分が見つかる可能性もある……攻撃の際に採取できたサンプルがあるだろう? すべてこちらに寄越しておくれ」
「かしこまりました。至急お持ちします」

ヴァルゴと名乗った男が通信機で他の関係者に指示を出しているのを横目に、ベルティーユはぼそりと独り言を漏らした。それはひどく小さい呟きで、誰の耳にも入ることはなかった。仮に聞いている者がいたとしても、それは彼女の母国語だったので、理解できるかどうかは怪しかった。

「ヒズミは確実にシェルターごと樹に取り込まれてしまっている。ジェノス氏も恐らく、ハルピュイアがここまで成長する前に隙間を見つけて侵入しているだろう。そして……“受付”が飲み込まれてしまったということは、ハイジもきっとハルピュイアの体内にいると考えられる。ジェノス氏が保護していてくれればいいが、宇宙人襲来によって彼には“ヒズミを守らなければ”という強い使命感が植え付けられている。置き去りにされているのだろうな……」

デスクに肘をつき、組んだ両手に顎を乗せて──ベルティーユは曇りないレンズの奥の双眸を鋭く細めた。

「我々の読みが正しければ“あれ”は必ずここへやってくる……そうなったとき、なにが起こるのか……事態がどうなるのか、予想がつかない。しかし非力な我々では手を出すこともできない。ヒーローに任せるしかないわけだ。他力本願は趣味じゃあないが、頼んだよ、サイタマ氏──そしてシキミ」




自分たちの与り知らぬところで命運を託されているとは思いもよらぬまま、サイタマとシキミは樹洞の内部を探索していた。複雑に入り組んだ足場の層が遥か上まで続いているのが見える。

「……登るか」
「上になにかあるんでしょうか?」
「いや、全然わからん。でもRPGとかだと、人型のモンスターの弱点は頭らへんだって相場が決まってんだろ。このハルなんとかとかいう樹も、頭ぶっ壊したら止まったりしねーかなと思って」
「そんなゲームみたいに、うまくいくでしょうか」
「さあな。やってみないことには……ダメだったら他の方法を考えりゃいい。今のところ手当たり次第しか道はないんだ」

呑気に言うサイタマだったが、彼の論に誤りはない。
シキミは頭上およそ五メートルほどの位置にある“上階”を見上げた。

「俺は別に足で登れるからいいとしてだ──お前、どうする? いけるか?」
「大丈夫です。これがありますので」

シキミがおもむろにスカートの裾からずるりと引き抜いたのは、変わった構造の銃だった。バレルが太く短く、グリップの付け根に鋼のワイヤーが何重にも巻かれたリールがくっついている。釣竿を銃の形にした玩具みたいだ、とサイタマは思った。

狙いを上に定め、シキミは引鉄を引いた。ぼしゅっ、という空気が抜けるような音と共に銃口から射出されたのは先端が尖ったフックだった。金属製の鉤爪の反対側にはワイヤーがしっかりとくくりつけられている。撃ち出されたフックは見事に上の足場の縁へ引っ掛かった。

おお──とサイタマが感心している間に、シキミは次のステップへ移る。なにやら銃身の横のレバーを引いて、スイッチを切り替えた。そして再度トリガーに力を込める。すると今度は銃身のリールが巻き戻って、糸を回収する──シキミの体がワイヤーに引っ張られ、するすると舞い上がっていく。

華麗に上階へ着地して、シキミは下で成り行きを見守っていたサイタマにハンド・ジェスチャを送った。それはヒーロー協会から支給されている手帳にも記された“異常なし”のサインだったのだが、無論サイタマがそんなことを知っているわけもない。彼は「なんか大丈夫だから適当に手でも振ってくれてるんだろ」くらいの認識で、シキミに続いて上階へジャンプした。

ただの一跳躍で──自分の背丈の何倍もある高さへ、易々と届いてしまう。

「すげーな、その銃。スパイ映画に出てくる秘密兵器みたいだ」
「……先生の身体能力の方がすごいですよ」
「あ? そうか?」
「とにかく進みましょう。あまり時間があるとは思えません」
「そうだな。この上は……天井だな。登れる切れ目を探さねーと」

頷き合って、二人は動き出した。どこまで続いているのかもわからない、遥か上を──ハルピュイアの頭部を目指して。