Pretty Poison Pandemic | ナノ





ドアの向こうはお花畑でした。
めでたしめでたし。

「……は?」

思わず間の抜けた声を漏らしてしまうヒズミ。見渡す限りなだらかな丘が続いていて、一面に色とりどりの小さな花が咲いている。遮蔽物は一切ない。三百六十度ぐるっと地平線が見えた。さっきまで自分がいた実家どころか、たった今くぐったはずの扉すら忽然となくなっていた。

広がる空は青い。雲一つなく晴れ渡っていた。
心地のいい風が優しく頬を撫でる。
足元の花が揺れて、ざあっ、と花弁が巻き上がった。

「どこだ、ここ……」

ひょっとしたら今まで自分は夢を見ていたのだろうか。

自分はあの事故でとっくに死んでいて、発電体質に変貌したこともサイボーグ青年やヒーロー志望のハゲに出会ったことも天才教授に面倒を見てもらったことも黒幕に命を狙われたことも大蜘蛛と戦って死にかけたことも隕石を打ち砕いたことも女子高生と仲良くなったこともゴジラみたいな化け物の頭を吹き飛ばしたこともロックフェスで暴れたことも生まれて初めて誰かのために洋菓子を焼いたことも宇宙人が襲ってきたことも──すべてが夢で、幻だったのだろうか。

(都合のいい夢から叩き起こされて、天国に強制送還された、とか)

てっきり自分は地獄に堕ちると思っていたのだけれど。
こんなにも美しい風景は、罪人が行き着く奈落の底には有り得ない。

得体の知れない場所なのに、空気そのものが全身を温かく包み込んでくれているような安心感があった。ここにいれば大丈夫だと、正しい方向へ導いてあげるからなにも怖がることはないと、穏やかに染み込む神の言葉をヒズミは耳でなく肌で感じた。

ここは全知全能の神の庭なのだろう。
自分の物語は終わったのだ──ヒズミは深く息を吐いた。

「……あーあ」
「溜め息はいけないわ、お姉ちゃん」

誰かに咎められた。
ヒズミはぎょっとしてその声のした方向を見た──“下”を向いた。

そこにいたのは年端も行かぬ少女だった。
いや──少女というより幼女だった。

腰まで届く若草色の髪は、稚児特有の細さと柔らかさを持っていた。毛先にゆるくウェーブがかかっていて、真ん中で分けた前髪を固定するように花冠を被っていた。背丈はヒズミの膝くらいしかない。小さな身体に纏っているのは薄手の白いワンピースに似た衣服で、その出で立ちはまるでファンタジー伝奇に描かれた妖精のようでもあった。

「……え? あ? 君は……」
「溜め息をつくと幸せが逃げるって、おかあさんがいつも言っていたわ」
「おかあさん?」
「そう。もうすぐ会えるのよ。楽しみだわ」

にっこりと屈託なく笑って、その幼女はくるりとダンスのステップを踏むみたいに一回転した。スカートの裾がふわりと踊る。

「お姉ちゃんは、ここでなにをしているの?」
「……なにしてんだろうな」
「わからないの?」
「うん」
「自分のことなのに?」
「……全然わかんねーんだ。なんで私が、ここにいるのか──」
「ふうん。変なの」
「変かな?」
「変よ。だって自分のことなのに」

幼女は不思議そうに小首を傾いだかと思うと、ぱあっと顔を明るく輝かせ、いきなりヒズミの手を握った。子供は体温が高いそうだと知識として記憶してはいたが、確かにその掌は自分よりも温かかった。

「じゃあ、私と遊びましょう。退屈していたの。誰もいなくって」
「誰もいない? ずっと一人だったの?」
「そうよ。でもちっとも寂しくなんてないわ。だって、もうすぐいろんな人に会えるんだもの」

その真意を掴めず、ヒズミは混乱していた。この幼女は一体ナニモノなのか──外見は二、三歳くらいに見えるのだが、言葉はしっかりしているし、とても乳児とは思えない。しかしヒズミはもう考えることを放棄していた。この“天国”に充満している幸福さに中てられて、判断力が既に麻痺していた。

最近のがきんちょは随分ませてんだなあ、と──それくらいの認識で、パステルカラーの花の海を行く宛てもなく漂っていた。



サイタマとシキミがX市の災害現場に辿り着いたときには既に黒山の人集りができていた。立入禁止の黄色いテープの側で、協会の人間が押しかけたマスコミの相手をしている。とはいっても「危険なので避難してください」とか「落ち着いたら会見を開きます」とか聞こえてくるのはそんなその場しのぎの文句ばかりで、報道魂に溢れる記者たちを説得できるはずもない。彼らから飛び交う無数の質疑がわやくちゃに重なって雑音になっていた。ひどく騒々しい。

それを遠巻きに眺めながら、サイタマとシキミは圧倒されていた──眼前に聳え立つ巨木の想像を超えるスケールに言葉すら失っていた。大きい。大きすぎる。テレビで中継映像を見たときより体積が増しているような気が──成長している気がする。とても人類の力でどうにかできるようなクラスの自然現象ではない。

「改めて生で見ると──でけーな」
「なんでこんな樹が、いきなり生えてきたんでしょう……」
「さあな。それを調べるのも、俺らの仕事なんだろ」

それは──勿論そうなのだけれど。
サイタマの言う通りなのだけれど。

一体どこから手をつければいいのかわからない。とりあえず乗り込むしかないか、離れていては対策の練りようもない──と進む覚悟を決めた二人のもとへ、走ってくる人物がいた。

「……使様! 毒殺天使様ーっ!」
「──! トキノさん!」

宇宙人襲来の際に“ドクター・キリコ”を動かす手伝いをしてもらった、管理課のトキノだった。ぜえぜえと息を切らしながら額の汗を手の甲で拭い、彼女は安堵の笑みを作った。

「毒殺天使様、来てくださったのですね!」
「はい。ニュースを見て、飛んできました」
「ありがとうございます! ……そちらの方は?」
「せんせ……あ、いえ、サイタマさんです。彼もプロヒーローです。今回の事件に、協力してくださいます」
「そうだったのですか。ありがとうございます」
「礼はいいよ。それより、状況は? 今どうなってんの?」
「……ここでは、ちょっと……少し離れましょう」

トキノに案内されたのは、樹に沿って数百メートルほど離れた場所だった。どうやら急拵えで陣営を築いたらしい。協会の所有する機材および人員を運搬するための大型バンが停まっている。数は三台。その周辺に腕章を装着したスーツ姿の者とヒーローたちが集まっていた。

「こちらをご覧ください」
「……これは?」
「偵察隊が上空から撮影した“樹”の写真です」

トキノから差し出された紙切れをシキミが受け取って、サイタマも横から覗き込んだ。そして揃って──驚きに目を見開いた。

「……CGじゃねーんだよな、これ?」
「ええ。決して、作り物などではありません」

トキノは強く断言した。

しかし、にわかには信じ難い──そこに写っていたのは、それほどまでに奇妙で悍ましい“樹”の全貌だった。

「なんだか、これ──女神像みたいな……」

女神像。
シキミは“それ”をそう称した。

そしてその比喩はそれ以上なく正鵠を射ていた。樹の上部は不自然にくびれ、膨らみ、女性の裸体のような形状をしていたのだ。ご丁寧に腕まで再現され、下腹部のあたりに両掌を重ねて佇んでいるふうに見えた。顔もある──表情が認識できる。俯き気味に頭を傾けて、眠っているかのように目を閉じていた。慈愛に満ちた、博愛に溢れた神々しい母性が感じられる。

背中にあたる部分からは枝が放射状に伸び、空へ届きそうなほど青々とした葉を豊かに湛えていて──まるでこれは羽根を広げた天使を再現した彫刻作品みたいだとシキミは思った。

「ニュースで見たとき、こんな形してたか?」
「いいえ……サイズ以外は、普通の樹に見えましたが」
「この樹は、今もなお“成長”しているようなのです。根を広げ、幹を膨らませ、どんどん上を目指しています。その過程で、原因は不明ですが、ああいった変化が起こりました。ヒトの貌を持ちながら、鳥の翼を備えた化け物──協会は便宜上、あの樹を“ハルピュイア”と命名しました」

──ハルピュイア。

その名をシキミは聞いたことがあった。確か海外の神話だったか叙事詩だったかに登場する、人面鳥身の、伝説の生物である。言い伝えによればハルピュイアは老婆の顔をしていたはずなのだけれど、そんな瑣事はさておいて、外見的特徴を鑑みればそれ以上ないほど適切なネーミングといえよう。

シキミは大樹の──“ハルピュイア”の遥か上部へ目を凝らす。

地上からは遠すぎて、肉眼でその恐ろしい全容を捉えることはできなかったが、現在もハルピュイアは静かに眠りながら育っているのだろう。コンクリートを砕くほどの生命力でもって栄養を吸収し、蓄え、糧にして──己が目覚めるに足る瞬間を待っているのかもしれない。

その怪物の眼が開くとき。
一体なにが起こるのというのだろうか。