Pretty Poison Pandemic | ナノ





サイタマの目覚めを出迎えたのは、とんでもなく豪勢な朝食だった。

「……なにこれ」
「そちらは甘鯛のポワレです、先生」
「はあ……」
「そしてこちらが海老のテリーヌとスモークサーモンのシュー詰めです。和牛のグリエは塩と山葵でお召し上がりください。デザートには林檎のコンポートを用意してあります」
「これ全部シキミが作ったの?」
「はいっ!」

テーブルにずらりと並べられた、数々の料理。どれもこれもが高級フレンチを取り扱う三ツ星レストランでしかお目にかかれないような品目ばかりである。盛り付けも手をつけるのが勿体ないほど丁寧で芸術的で、とてもこんな安普請のワンルーム・マンションに相応しい食事ではなかった。

「朝五時に起きて作りましたっ!」

満面の笑顔でそんなことを言うシキミに、サイタマは頬をぴくぴくと引き攣らせざるを得ない。なにをそうも張り切っているのだ。知らないあいだに祝い事でもあったのだろうか。

「先生には、昨日、お世話になりましたので」
「俺なんかお世話したっけ?」
「めそめそと泣いていたあたしを慰めてくださいました」
「……ああ……」

そういえば──そんなこともあった。

これはその礼のつもりなのか。それにしたって少しばかりやりすぎではないだろうか。ちょっと優しく頭を撫でてやっただけだぞ。よしよしと宥めてやって、さほど気の利いているわけでもない言葉をかけてやっただけだぞ。それだけだ。本当に、たったそれだけなのに──これか。

サイタマは戦慄にも似た感覚に囚われてしまう。

「恐ろしきかな、JKの恩返し……」
「昨日はよりによって先生に醜態を晒してしまって、申し訳ありませんでした……反省しています。あたし、まだまだ未熟です。自分の弱さを痛感しました。受け入れてくださった先生には、心から感謝しています。もう大丈夫ですのでっ! これからもご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますっ!」
「……………………」

なにやら決意を改められてしまった。

パジャマのまま席について、サイタマは“アントレ”──前菜、オードブルのような位置づけらしいスモークサーモンのシュー詰めをおそるおそる口に運んだ。食べたことのない味と食感だった。慣れない舌触りに動揺しながら飲み込んで、テーブルを挟んだ向かいに正座して緊張の面持ちで自分を見つめているシキミに素直な感想を伝えた。

「めっっっちゃくちゃうまい」
「本当ですか!? よかったですっ!」
「すげーな。料理人になればいいのに」
「あたしの本職はヒーローですから……でも、先生がお望みとあらば、毎日でも作りますっ!」

その台詞に嘘偽りはないというのは、サイタマにもわかっている。シキミなら本当に毎朝五時に起きて、自分のために豪華なメシ炊いてくれるんだろう、と理解している。それを嬉しいとかありがたいとか思ってしまっている自分の正直すぎる心も、ありありと見えている。

なにかが、おかしい。
最近どうにも──おかしいのだ。
地を這うような速度で、己の内側に潜むなにかが着実に変貌を遂げている。

「……ところで、先生」
「んあ?」
「ジェノスさんの姿が見当たらないのですが。ヒズミさんの部屋のキッチンお借りしてこの料理を作って、こっちまで運んできたのが八時くらいだったのですけれど、そのときにはもういませんでした。どこかへお出掛けしてるんですか? ヒズミさんのところですか?」
「ああ。あいつ今日はヒズミと、X市に」
「? X市……ですか?」
「そう。爆発事故で見つかった遺体の身元確認に呼ばれて」
「それは、……ヒズミさんの……?」
「両親“かもしれない”んだってよ」
「ああ……」

シキミが口元を手で覆って呻いた。

「ヒズミ本人はケロッとしてるふうに見えたけどな。そういう振りしてただけなのかな……まあ、ジェノスが一緒に行ってるなら大丈夫だろ」
「そう、です、か……」
「……まあ、帰ってきたら優しく迎えてやろうぜ。結果がどうなのかはわかんねーけど、ヒズミがどんな顔して戻ってくるかはわかんねーけど……とにかくあいつにはもう新しい居場所があるんだ。ちゃんとしっかり前を向いて生きてってもらわねーと」
「……そうですね」
「というわけで、だ。晩メシもとびきりいいヤツこさえてやってくれよ。うまいもの食えば元気も出るだろ。頼んだぜ」
「! はいっ! 任せてください!」

不満のひとつもなく請け負ってくれたシキミに、サイタマは唇の端を上げる──と同時に、微かな黒い疑念を脳裏に過ぎらせた。家族──そう、家族。

シキミが疎まれ、蔑まれ、罵られ、虐げられ、飛び出してきたという、逃げ出してきたという“実家”のこと。

実の親を喪い、引き取られた形で籍に入った母方の血筋に“実家”という表現が適切なのかどうか学のないサイタマには判断できなかったが、なにはともあれ一筋縄ではいかない問題だった。

シキミはまだ未成年である。さらに、あのベルティーユを以てして“想像を絶する経験”だとか“常軌を逸した壮絶な変化”と言わしめるほどのなにかが、彼女の過去に起こっているはずなのだ。確認するまでもなく、問い質すまでもなく、それは彼女の“実家”と関係があることなのだろう。

となれば──いずれ直面することになる。
対決しなければならない瞬間がやってくるのは目に見えている。

そのとき。
自分はシキミを助けてやれるのだろうか。
ヒーローとして。
師として。

彼女を雁字搦めにしている運命から救い出してやれるのだろうか。

シキミが“自分のことを話してもいいと思うまで待つ”のも、そろそろ潮時なのかもしれないな──そんなことを考えながら、サイタマは白身魚の薄い切り身に箸を伸ばすのだった。



目の前に広がる光景は、まさに“グラウンド・ゼロ”と称するべき惨憺たる有様であった。

未曾有の大爆発に巻き込まれ、街そのものが一瞬にして息絶えたX市。事故直後の混沌とした崩壊っぷりに比べればかなり整備は進んでいたが、それでも見渡す限り瓦礫の山である。とてもここに文明都市が存在していたとは思えない、人類が人類たりうる生活の基盤が発展していたとは信じられない荒れ果てた地であった。かつて栄えていた表通りの往来は、もう見る影もない。

かの元凶──テオドール・ファン・ヴァレンタインが設立したという“人造怪人量産計画のための研究所”が位置していたのはX市の中枢にあたる場所の地下だった。その空間がまるごと消失したために一気に崩れ、そして潰れ、直径数キロにも亘るクレーターと化した。周辺一帯に張り巡らされていた道路や建っていたビルディングなどは達磨落としのように“落下”し、さらにその影響はX市全体に及んだ。クレーターを中心に、まるで水面に雫が落ちた波紋が広がるように地盤が歪んで、蟻地獄の巣が如く“引き摺り込まれた”のである。

いくら近代技術の粋を結集させて万全の耐震性を備えた建築物であろうと、地面そのものが傾いてしまえば倒れるほかない。どうにもならなかった。どうにもならなかったのだ。そうして──X市は、多くの人々と命運を道連れに、ありとあらゆる機能を停止した。

その死んだ街に今、ヒズミとジェノスは立っている。

「……あの辺に家があったんだ」

砂塵の混じった風に、燃え尽きた灰に似た色の蓬髪をなびかせながら、ヒズミは感慨深げに言う。彼女の視線の先をジェノスも追ってみた。しかしそこにあるのは倒壊して山になったブロックの塊だけだ。

「こんな状態じゃ、もうよくわかんねーけどな……ずっと住んでた街なのに、全然わかんねーの。ひでえ話だよな。……薄情だよな」

ダークグレーのジャケットのポケットに手を突っ込んで、口の端に煙草を挟んだまま器用に喋るヒズミの表情は淡々としている。しかし彼女の海のように青い瞳が悲しげに澱んでいるのに、ジェノスは気がついていた。

「お前が悪いわけじゃない」
「……うん」
「この事故でお前だけが生き残ったのは、悪いことじゃないんだ。……俺だって」
「……………………」
「俺だって、そうだったんだ。お前と同じだ。だから──生きていいんだ。どうして自分が、とか、もっと他に助かるべき人がいたんじゃないのか、とか、そんな罪悪感を背負う必要はない」
「そうだな」
「胸を張って会いに行けばいいんだ」
「……そうだな」

首を回して、ヒズミはジェノスを真正面から見据えた。色素の薄い、今にも消えてしまいそうな儚い笑みを向ける。しかしその根底には、どこか芯の通った強さが垣間見えた。

ジェノスと相対する彼女の背後には、ドーム状のシェルターが静かに聳えている。強度が桁外れであるため、都市ひとつ滅びるほどの事故でも破損しなかったそうだ。そして現在そのシェルターは、巨大な棺の役目を全うしている。非業の死を遂げた多くの市民を繭のように包んでいる。

「行ってくる。──きっちり白黒つけてくる」



ジェノスと別れ、案内役らしい協会の人間に連れられてきたのはシェルターの内部──そこはまさに野戦病院といった趣きだった。ただ広いだけでなにも遮蔽物のない、体育館のような空間に、長方形の白い布が等間隔に並んでいて、すべてが膨らんでいる。それらの大小や凹凸が様々なのは、その下に寝かされている物言わぬ魂の抜け殻が大人だったり子供だったり男性だったり女性だったりするからなのだろう。

ヒズミ以外にも十数人ほど、遺族らしき者の姿が見受けられた。寝かされた遺体に突っ伏してなにごとかを叫んでいる若い女性、唇を噛んで嗚咽を殺している学生服の男の子、品の良さそうな老夫婦もいる。隙間風のような泣き声を上げている今にも倒れそうな妻を、夫が支えていた。

彼ら彼女らの横を、ヒズミは通り過ぎていく。
前だけを向いて、絶対に足を止めない。

「こちらです」

自身をメリッサと名乗った案内役の彼女が指し示した、ふたつの遺体。その傍らに跪いて、メリッサはゆっくりと布を五分の一ほど折った。横たわる男女の胸から上が露わになって、穏やかに眠っているその顔にはどちらにも眩暈がするほど見覚えがあった。ヒズミは数回の深呼吸を置いてから、

「間違いありません。父と、母です」

はっきりと──言った。
そしてメリッサに深々と頭を下げる。

「これだけの事故でありながら、ふたりを──両親を、こんなにも綺麗な状態でここまで連れてきていただいたことに、感謝します」
「いえ! そんな……ご愁傷様でございます」
「ありがとう、ございました」
「……しばらく、お話なさいますか?」

遠慮がちに訊ねるメリッサに、ヒズミは「是非そうさせてください」と答えた。メリッサは頷いて、申し訳なさそうにしながら、諸々の手続きがあるから気持ちの整理がついたら自分に声をかけてほしいと伝え、その場を離れていった。

床に直接どっしりと胡坐をかいて、ヒズミは長い息を吐いた。頭が痛かった。目の奥がずきずきと疼痛を訴えている。車に酔ったときのような、脳味噌がぐるぐる回っている感覚があった。気持ち悪さを堪えながら、口を真一文字に引き結んで、ヒズミはもう二度と目を開くことのない肉親をしばらく見つめ続けていた。



……どれくらいの時間が経過したのだろうか。

ふと我に返った。茫洋と飛んで彷徨っていた意識が唐突に戻ってきた。しかしなぜか周囲は真っ暗で、目を凝らしてもなにも見えない。ただ暗闇が広がっているのみだった。

全身にずっしりと圧し掛かる倦怠感。ただの呼吸すらも億劫だった。なにもかもが面倒くさい、このまま意識を手放してしまいたい──と微睡みの中へ再び落ちかけたヒズミの鼓膜へ、女性の金切り声が叩きつけられる。

「……あんたはいつもそうよ。私とお父さんが喧嘩してたって、いつも見て見ぬ振りして。あんたは冷たい子だわ。思いやりがない。あんたをそんなふうに育てた覚えはないのに。自分だけがよければいいと思ってるんでしょう。あんたの中には自分かわいさしかないのよ。あんたみたいなのは、絶対に幸せになんかなれない。あんたは誰のことも愛せない残酷な人間だから、誰にも愛してもらえないに決まってるわ」

母親の、いつもの決まり文句だった。反論する気にもならない──というより実際なにも彼女は間違ったことを言ってはいないので、反論もなにもないのだけれど。

ええ、そうですね。
まったくもって仰る通りです。
わたしは感情の欠落した失敗作です。
人間失格。
恥の多い人生を送ってきました。

生まれて、すいません。

韜晦容喙するように心中で嘯いて、ヒズミは溜め息をついた。そろそろバイトに行かなければならない時間のはずだ。今日はスナック菓子の新商品が山ほど入荷する日だから、早めに出勤して陳列棚の整頓をしたかったのに。こないだ入ってきた新人の研修期間が終わったのでオーナーへ提出する評価シートも用意しなければならない。やるべきことが山積みだ。ぼーっとしている暇はない。

他人を愛するとか。
愛されるとか。
そんなつまらないことを言っている余裕はないのだ。

どいつもこいつもくっだらねえ。
死ぬほど──どうでもいい。

(………………あれ?)

──あれ?

なにか──なにかが、おかしくないか?

頭の隅に引っ掛かっているものがあった。思い出せない。判然としない。どこまでも曖昧にぼやけている。夢の中にいるような不安定さに襲われる。足元がふわふわと覚束ない。ぐるりと周りを見渡す。小学校を卒業すると同時に宛がわれた、住み慣れた自分の部屋だ。勉強机は高校を自主退学したときからほとんど使用していないので、どこかひっそりと寂しそうに見える。

知らず知らず握りしめていた掌を開いた。
家の鍵が汗で湿って照明を反射している。

そうだ、早く行かなければ。
もうそこまでリミットが迫っている。

(なんの──時間なんだっけ)

そもそも、どこに行こうと──していたんだったか。

遠く聞こえる罵声。自分を蔑み、嘲り、厭い、疎み、嫌悪し憎悪し迫害し危害しようとする怒鳴り声。聞き慣れたフレーズ。何度も何度も繰り返されてきた、敵意に満ちた言葉の数々。麻痺した心に突き刺さる。渇いた地面のように割れたその表面に、どんどん罅が増えていく。

(私は──なにを、したかったんだっけ)

思い出せない。
思い出せない。
思い出せない。

思い出せない。

(──……あれ?)

おかしいな。
なにか、とても大事なことを忘れている気がするのだけれど。