Pretty Poison Pandemic | ナノ





テレビの前に並べて置いたパイプ椅子に坐して、ヒズミとシキミとドロワットが仲良く号泣していた。

「う……ううう……千昭くん……」
「うわあああああんええ話やでえええ」

画面には映画のエンドロールが流れている。有名監督が手掛けた数年前のアニメーション作品で、公開当時そのストーリーと斬新な演出は海外でも高く評価されたのだという。数々の名誉ある賞を受賞した経歴もある名作で、それなりの月日が経過した現在も根強いファンは多い──らしい。

「未来で待ってる……か……」
「切ない……切なすぎます……」
「これ三回くらい見たはずなんだけどな……なんで毎回泣いちゃうんだろうな……」
「あたし初めて見ました。これは名作ですね……」

ハンカチで目頭を押さえつつ、シキミが唸る。ドロワットの仕立ての良さそうなゴシック風ドレスの袖は涙でぐっしょり濡れていた。ヒズミに至ってはその横で、あろうことかバスタオルで顔中を拭いている。なにか他になかったのか。ティッシュとかじゃ駄目だったのか。

とまあ──そんな余韻の只中であったので。
三人のうち誰も、サイタマとジェノスが室内に入ってきたのに気づいていなかった。

「なにしてんの、お前ら」
「! さ……サイタマ先生!」

声をかけられてやっと状況を察知したシキミが慌てて起立して、深々と頭を下げた。ドロワットはサイタマの存在を確認するなりぷいっと顔を逸らし、ぐしぐしと手の甲で目元をこすり、いつもの高飛車な薄笑いを作ってから振り返った。

「ノックくらいしなさいよね! 常識のない男だわ!」
「一応したけど……」
「え、あっ、あらそうなの」
「念のため言っといてやるけど目の周り真っ赤だからな。ごまかせてないからな」
「……ッッッうるさい! うるさーいっ! このハゲ!」
「ていうかお前、泣くんだな」
「ふんっ! 機械が泣いちゃいけない法律なんてないわ。今時はアンドロイドにだって涙腺くらいあるわよ。教授の技術力の賜物なんだからねっ!」

誇らしげに胸を張るドロワットであったが、泣き腫らした顔面で言われたところで迫力などは微塵もない。先ほどドロワット自身がそう述べたように、彼女はアンドロイドである。無機物によって構成された部品の集合体──人工知能によって思考し、駆動するロボットなのだ。そんな彼女もフィクションの映画に胸を打たれて涙を流すことができるのだと、サイタマはこのとき初めて知った。

「もう片方も泣いたりすんの?」
「お兄ちゃ……あ、違う、ゴーシュのこと? あの子が泣いてるとこは見たことないわね。なに考えてるか全然わかんないわ」
「ふーん」

適当に相槌を打って、サイタマはなんとなくジェノスを横目で見た。こいつには多分そういう機能はないんだろうな、男にとってもっとも重要な器官といっても過言ではないアレもばっさり捨てるヤツだもんな──と至極くだらないことを考えかけて、すぐに脳裏からデリートした。どうでもいいことだ。それで誰かが困っているわけでもない。

──今のところは。

「先生とジェノスくんも、暇なら一緒に映画鑑賞する?」
「ちょうど終わったとこなんじゃねーの?」
「まだあとDVD二枚あるんだよ」
「へー。ちなみにタイトルは?」
「サマーウォーズと、おおかみこどもの雨と雪」
「なに? 細田守特集?」
「ベルティーユ教授のセレクションだそうで……」

シキミの言葉に、なるほどな、とサイタマは頷いた。あのひと年甲斐もなくこういうポップカルチャー好きそうだもんな、と納得してしまう。

「まあ時間なら腐るほど余ってるから、別に付き合ってもいいんだけどよ」
「本当? やったー」
「俺もこれといって予定はないからいいんだが……大丈夫なのか? あまり大勢で騒いでいると疲れないか、ヒズミ」
「そんなことないよ。楽しいことするときは頭数が多い方が、寂しくなくていいだろ」

照れ臭そうに、にーっと白い歯を見せて笑うヒズミ。
ジェノスは脳天を鈍器で殴られた心地だった。

(天使か! こいつは天使なのか!)

などと叫び出したい衝動を抑えて、首肯するだけに留める。

「……そうか」
「教授に椅子借りてくる。ちょっと待ってて」
「俺が行ってくる」
「いいよ、そんな気ィ遣わなくても」
「気を遣っているわけじゃない。教授に挨拶するついでだ。今日はまだ顔を見せていない」
「そうなの?」
「仕事に追われているようだったからな」
「私が言うのもなんだけど、本当に忙しい人だな。今なにやってんの?」
「海人族の襲来のどさくさで逃げた凶悪犯の捜索チームのメンバーに組まれたのよ」

ヒズミの疑問に答えたのはドロワットだった。

「犯罪心理学にも造詣が深いから、潜伏場所の割り出しとか、行動パターンの予測とかの協力に駆り出されてるの。昔は海外の捜査機関に所属していたこともあるし。政府直属の秘密組織の諜報部員だったこともあるわ」

そう語るドロワットはどこか誇らしげだった。自らの母親の輝かしい経歴を友人たちに自慢する子供のようである。シキミは感心しきったふうに目を大きく丸くしている。

「諜報……ってことは、スパイ、ですか?」
「そうよ。007よ。ミッション・インポッシブルよ」
「つくづくなんでもアリだな、あの人……」

そんな滅茶苦茶な話を聞いてもまったく疑う気になれないというのだから、ベルティーユという女性の底知れない恐ろしさを改めて実感してしまうサイタマである。

「無理してないといいなあ……。いっちゃん迷惑かけてる私が言えた義理じゃねーんだけど」
「あなたがそんな心配する必要はないわ。どんと構えて、大船に乗った気持ちで療養してくれればいいの」
「優しいな、ドロワットちゃんは」
「当たり前じゃない。教授の娘だもの!」

腰に手を当て、満足そうにふんぞり返るドロワットに──シキミはくすりと息を漏らした。ヒズミもおかしそうに肩を震わせ、サイタマも“お前もまだまだガキだなあ”と言わんばかりにニヤニヤしている。その反応に気がついたドロワットは途端に顔を赤くして、気恥ずかしさを悟られないようにそっぽを向いた。その仕種がまたかわいらしくて、一同は心を和ませたのだった。



……そこまでの記憶はある。

それから自分がどうしてどうなったのか、よく覚えていない。ヒズミは軋む全身の筋肉を奮い立たせて上体を起こし、鈍い痛みを訴える頭を落ち着かせようと額を押さえた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

ドロワットも、シキミも、ジェノスもサイタマも──誰もいない。もう帰ってしまったのだろうか。照明の落とされた薄暗い室内に、暮れかかった空の、朱に染まった陽光が射し込んでいるのみである。別室から運び込んでいたテレビも既に撤去済だった。

(どれくらい寝てたんだろ……)

時計を確認しようとしたが、視界が霞んでよく見えない。目をこらそうとしても、脳をゆるく締め上げられるのに似た不快感が襲って、うまくいかなかった。胃が中身を逆流させようとしている。朝からろくになにも食べていないのに、詰まった異物を吐き出せと暴れている。

(……気持ち悪い……)

口元を手で覆い、背中を丸めて嘔吐感を堪えていたヒズミのもとへ、ジェノスがやってきた。静かに扉を開いて、彼女の苦しげな様子を確認し、瞬時に顔色を変える。

「ヒズミ、どうしたんだ」
「……ジェノスくん」
「気分が悪いのか? 教授を呼んで……」
「平気。大したことない」

ジェノスは納得いっていないようだったが、実際ヒズミの異常は潮が引くようにするすると治まっていった。まるでジェノスが表れたことで化学反応が起きたようですらある。その場にいた誰もその些細な変化には気づいていなかったが、別にそれで問題が大きくなるわけでもない。

と──そこへ、ジェノスの後ろについてきていた“もうひとり”が、心配そうに口を開いた。

「……調子が悪いようであれば、改めますが」

女性の声だった。インテリジェンスに抑制された、聞き覚えのあるその声に、ヒズミは顔を上げる。室内には足を踏み入れず、廊下の際で遠慮がちに立っていたのは、ニーナだった。

「ニーナさん。ご無沙汰してます」
「お久し振りです」
「お前に話があるらしい」
「話?」
「大事な話、だそうだ」

じっとヒズミの青い双眸から目を逸らさず、ジェノスは言う。真剣な表情の彼と、手を体の前で組んで佇んでいるニーナを交互に見比べて、ヒズミは「わかりました」と首を縦に振った。

「お聞きします……場所を変えましょう」
「すみません。感謝します」
「俺も同行させてもらいたいんだが」

巨大海人族との戦闘を無断で撮影されていた件や、S級ヒーロー登録への勧誘についてヒズミに話をしていたのは他ならぬこのニーナなのだという事実を、彼女自身からジェノスは聞いていた。今回もそういった類の会談であるのならば、みすみす看過するわけにはいかない。なにせニーナはかつてヒズミの命を狙い、引き裂いて亡きものにしようとした“怨敵”である──信用するに値しない、とジェノスは考えている。

そんな彼の思惑を見透かしているのかいないのか、ヒズミは曖昧に微笑んだ。

「心配しないで。悪い人じゃないから」
「しかし」
「知らなきゃいけないことを、教えてもらうだけだから。そうですよね、ニーナさん」

ニーナは戸惑いながらもしっかりと頷いた。それを見て、ジェノスは渋々ながら諦めたらしい。肩を落として深く溜め息をつく。

「俺は心配なんだ」
「わかってる」
「またお前が泣くのかも知れないと思うと」
「ちゃんとわかってるよ」
「……俺にできることはないのか」

言葉尻は疑問の形を取ってはいたものの、ジェノスは駄目元のつもりだった。根が頑固で融通の利かない不器用な彼女のことだ──また“なんでもない”とはぐらかされてしまうのだろうと、頼りない自分は除け者にされてしまうのだろうと思っていた。

しかしヒズミから返ってきたのは、

「大丈夫じゃないかも知れないから、待っててほしいな」
「……え」
「耐えられそうになかったら、甘えてもいい?」

予想外の台詞だった。

「ああ、当然だ、……ここにいる」
「本当に?」
「ここで待ってる。お前が戻ってくるまで」
「……ありがとう」

かくしてニーナとヒズミが部屋をあとにして、ジェノスはひとり、ベッドサイドに座っている。

手持ち無沙汰に乱れたシーツの皺を伸ばして、ずれた枕を直して──その中心がわずかに濡れているのに気づいた。注意して見なければわからない程度の染みだったが、確かに湿っている。

「…………………………」

その箇所を優しく指で撫でながら、早くヒズミがここへ帰ってくるようにジェノスは祈った。神の存在など四年前の惨劇からずっと信じてはいなかったけれど──それでも。
無力な自分には縋るものが他にない。

──どうか、彼女に御加護がありますように、と。