Pretty Poison Pandemic | ナノ





ジェノスは性懲りもなく浮かれていた。

ヒズミの体調が全快とはいえないまでもある程度は戻って、話もできるようになって、傷も順調に回復しつつある。ベルティーユの見立てによれば「数日中にマンションに帰れる」とのことだった。早くあの部屋に二人で戻って、ヒズミがセレクトしたレンタルDVDでも見ながらのんびりと時間を過ごしたい。その幸福なひとときに思いを馳せ、ジェノスはいっそスキップでもしたいほど有頂天になっていた。傍から見ればいつもと変わらない仏頂面なのでわからないが、今のジェノスは気を抜けば鼻唄でも飛び出しそうな状態なのであった。

睡眠を摂るために借りていた協会本部のゲストルームを出て、ヒズミの病室──正確にはベルティーユの研究室の一画を急ごしらえに改造して設えたヒズミのための療養スペース──に向かう。まだ午前中なので彼女は眠っているだろうか、起こさないよう足音は控えなければならないだろうか、などと脳内をヒズミ一色に占領されながら扉の前に差しかかったジェノスの聴覚センサーが、向こう側で交わされているらしい会話を拾った。

声紋はふたつ。ヒズミと──できれば二度と顔を合わせたくなかった、あの男のものだった。

「これくらい構わないだろ」
「え、でも……」
「減るもんじゃない」
「それはそうですが……」
「なんだ、恥ずかしがってんのか?」
「……こういった経験がないもので」
「そうか。初心でかわいいな」
「かわ……っ、あの、からかわないでください」
「本心だよ。照れるなって」
「あ、えっと、いやでも」
「何事も思い切りが大事だぞ」
「そ……そういうものでしょうか」
「そういうもんだ。ほら、こっち向け。もっと近く来い」
「え、ちょ、ゾンビマンさん……」
「口もっと開けろ。……力抜け。舌ちょっと出せ」

瞬時に導き出された室内の状況にジェノスの自制心がブチ切れた。

「貴様ヒズミになにをしている!!!!!!」

物音を立てないように気をつけよう、などと殊勝な決意を秘めていたことも忘れ、ジェノスは勢いよくドアを開け放ち、外まで聞こえるのではないかという大音声で怒鳴っていた。

ベッドの上のヒズミと、その横でスツールに座り脚を組んでいたゾンビマンが揃ってジェノスを見た。下半身を布団の中に収めたまま上体だけ起こしているヒズミの口元に、ゾンビマンがスプーンを寄せていたポーズで、時間が停止したかのように固まっている。彼の左手にはヒズミの朝食らしき白粥の容器があった。

「……チッ。タイミングの悪い」
「ジェノスくん? ど、どうしたの血相変えて」
「…………………………」
「そんなとこ突っ立ってんなよ。入るなら入ってこい」
「……紛らわしい真似を……」

後ろ手にドアを閉めて、ジェノスは憎々しげに吐き捨てた。

「せっかくいいところだったのによ」
「い、いいところって」
「もうちょいイチャイチャしたかったな」
「うわあああああやめてください恥ずか死にます」
「純情でかわいいじゃねーか。なあ?」
「知らん! 俺に話しかけるな!」
「あーあ、嫌われちまった」
「貴様ちょっと来い。話がある」
「五秒前に話しかけるなって言わなかったかお前」
「いいから来い!!」

ぐいぐいとゾンビマンの首根っこを掴み、ジェノスは部屋を出た。状況が飲み込めずあたふたしているヒズミが視界に入って申し訳なさがちくりと胸を刺したが、それどころではない。廊下に人通りがなかったのが不幸中の幸いだった。ジェノスは怒髪天を突きそうな鬼の形相で、悪びれもせずしれっとしているゾンビマンに詰め寄る。

「ヒズミに手を出したら焼却すると言ったはずだが」
「別にお前のもんでもないだろうが。そんなこと命令される筋合いはねーな」
「俺のものとか誰のものとかそういうことでは……」
「だって付き合ってねーんだろ? ヒズミから聞いたぞ。好きだとは言われたけど恋人関係ではないって」
「……………………!!」
「だったら俺にもモーションかける権利はあるだろ」

痛いところを突かれて口をぱくぱくさせているジェノスに、ゾンビマンはにやりと嫌な感じの笑みを浮かべた。自分よりも稚拙で、アプローチの下手なジェノスを完全に玩具にしている。

「ていうか、お前、さっき“なにをしている!”ってすげー剣幕で飛び込んできたな。紛らわしい真似を……とかなんとか。なにしてると思ったんだよ」
「そ、それは……」
「大方“もっと近く来い”とか“口開けろ”とか“舌ちょっと出せ”とかであらぬ想像したんだろ」
「うっ」
「おいおい、とんだ助平サイボーグだな」
「うるさい黙れ! 貴様の素行が悪いからだろ!」
「若いから仕方ないとは思うけどよ、やらしーことばっかり考えてると女の子は逃げてくぜ。ちゃんと優しくシてやれよ」
「片仮名にするな! いかがわしい! 恥を知れ!」
「恥ずかしがってるだけじゃ進展は望めないんだぜ、青年」

気障ったらしく人差し指を振って、ゾンビマンはジェノスに背中を向けた。

「待て、どこへ行く」
「お邪魔虫は帰ってやるんだよ。どうぞごゆっくり」
「まだ話は終わってない」
「悪いが、俺も暇じゃねーんでな」
「ふん。都合のいい……」
「ヒズミに“また来る”って伝えといてくれ」
「二度と来るな!!」

暇じゃねーとかほざいてたのはどこの誰だ、と罵倒してやりたいところだったが、ゾンビマンはすたすたと振り返りもせず歩き去ってエレベーターへ乗り込んでしまった。ぽつんと取り残され、なんとも言えないバツの悪さを抱えたまま、ジェノスは部屋に戻った。ヒズミが不安で死にそうな顔をしている。ゾンビマンが使っていた椅子を、ジェノスはそのまま再利用することにした。

「あ、あの、ゾンビマンさんは」
「帰った」
「あ、そう……」
「俺も暇じゃねーんでな、だそうだ」
「そっか……忙しい中わざわざお見舞いに来てくれたのに、お礼も言えなかったな……」

しゅんとしているヒズミの姿を見て、どうしようもなく苛立ちが募る。ヒズミに対して──では、勿論ない。標的はあの煮ても焼いても食えそうにない飄々とした男である。

「あんな軽薄なヤツに、礼などしなくていい」
「いや、そうもいかねーよ。実際問題、助けてくれたのはゾンビマンさんなわけだし……改めてきっちり頭は下げとくべきだろ。一応ちゃんとしたオトナとしてはさ」

以前の彼女と同じ蓮っ葉な物言いに、ジェノスはどこか安心していた。小さい子供のように泣いて喚いて取り乱していたあの面影はどこにもない。すべて夢だったのではないかと思ってしまうくらいだ。しかし彼女の腕や頭部に巻かれた包帯が現実を突きつけてくる。A市を襲った悪夢のような大虐殺を、否応にもありありと蘇らせる。

「……つらい思いをさせたな」
「えっ?」
「なんでもない。それより、食べないのか」

ベッドにくっついているボードの上に乗った盆には、さっきゾンビマンが持っていた白粥とは別に、サラダやカットフルーツも並んでいた。消化のよさそうな、いかにも病人食といった趣きの献立である。

「あんまり食欲なくて」
「無理して食べろとは言わないが、少しくらいは胃に入れておけ」
「……うん」

気乗りしない様子ながらヒズミはフォークで一口サイズのパイナップルを刺して、もたもたと口に運び、もそもそと緩慢なスピードで咀嚼する。

「おいしい」
「それはよかった」

しっかり噛んで飲み込んで、二つ目のパイナップルに伸ばしかけたフォークを──ぽとり、とヒズミはシーツの上に落とした。急に項垂れた彼女の瞼は下りていて、半開きの口からは規則正しい呼吸の音がしている──寝息を立てている。

「……………………」

ナルコレプシー、という脳疾患がある。

視床下部から分泌される神経伝達物質“オレキシン”が欠乏し、前触れなく耐え難い眠気に襲われる睡眠発作や入眠時の幻覚、いわゆる金縛りと呼ばれる睡眠麻痺などを引き起こす障害。それに似た症状が現在のヒズミに表れているのだという。原因はベルティーユが目下調査中とのことだが、命に別状はないらしい。それ自体に危険性はないが、発作が思わぬ事故に繋がる可能性もあるから注意は怠らないように──と、ジェノスは前もってベルティーユに言いつけられていた。

つい先刻まで食事をしながら歓談していたとは思えないほど、ヒズミは深く泥のように寝入っている。彼女は今どんな夢を見ているのだろう。鮮やかな色彩に溢れた、幸福に満ち足りた夢であればいいのにとジェノスは思う。

(……おやすみ)

枕の位置を正して、そこにヒズミの頭をゆっくりと横たえる。肩まで布団をかけてやり、彼女が目覚めるそのときを待った。ずっと待っていた。ずっとずっと──なにも言わずに待っていた。