Pretty Poison Pandemic | ナノ





「……えっ、本当ですか!?」

突如シキミが大きな声を出したので、サイタマは驚いて飛び上がりそうになった。彼女は現在スマートフォンでどこかのどなたかと通話している。その表情が明るく晴れやかな笑みの形を象っているのを見るに、どうやら悪報ではないらしい。通信が終了したのを見計らって、サイタマはシキミに問いかけた。

「なんだったの? 今の電話」
「ベルティーユ教授からです。ヒズミさんが目を覚まして……というか、まともに意思の疎通ができるところまで回復したそうです」
「おー! よかったよかった。もう退院できるの?」

厳密にいえばヒズミは医療施設に“入院”しているわけではなく、ベルティーユの管轄である研究室に収容されている立場なので“退院”なる表現が適切なのかどうかは怪しかったが、そんな重箱の隅をつつくような指摘は野暮といえよう。シキミも特に突っ込むことなく「はい。近いうちに戻ってこれるそうですよ」と破顔している。

「しかし急だな。昨日の時点でまだ面会謝絶だったのによ」
「なんか、ジェノスさんが……」
「ジェノスが? なんかしたのかアイツ」
「ヒズミさんが発作を起こして暴れてたところに乗り込んでいったそうです。無理矢理」
「なんじゃそりゃ」
「でもそれで結果として落ち着いたみたいです。ジェノスさんが押さえ込んで言葉をかけたら、一気におとなしくなったみたいで」
「傷ついた野生動物の保護みたいだな……」

サイタマが呆れたように眉を八の字にする。
いつもはジェノスばかりが一方的にヒズミを構っていると思っていたが、彼女の心にもジェノスの存在は大きかったのだろう──確固たる拠りどころとして成立していたのだろう。

厳しい現実から目を背けずに生きていくための支えとして。
なくてはならない、かけがえのないものなのだろう。

「まあ、これでひとまずは一件落着か」
「そうですね。……あ、それで、ジェノスさん今日は本部に泊まるそうですよ」
「あ、そう。じゃあ晩メシいらねーんだな」
「今日の買い出しは二人分だけで大丈夫そうですね」

時刻は午後四時二十三分。五時からタイムセールが始まるので、今から出発すればちょうどいい頃合だった。

「そんじゃ、スーパー行くか」
「はい! あたしもお供しますっ!」
「……前から思ってたんだけど、お供って言い方アレだからやめてくれる?」
「え? す、すみません……お気に召しませんか?」
「いや、なんか桃太郎みたいだから……」
「あたしは先生となら鬼退治でもついていきますが!」
「そういう意味じゃなくて……」

とことんズレているシキミにはもうなにを言っても無駄そうだったので、積極的に否定するのをサイタマは早々に諦めた。それに彼女なら本当に鬼ヶ島までついてきそうだ。どれほど危険で、命の保証がない場所でも、きっと振り返れば自分の三歩うしろにいるのだろう。満開の花めいた微笑みを湛え、ときには頬をぷーっと膨らませて安全を省みない無茶を叱責し、それでも呆れて見捨てることなく、疲れて見限ることなく、道を共にしてくれるのだろう──先日ファミレスで、彼女自身が力強くそう宣言したように。

──ふと。
そこで、はたり、と思考が止まる。

(……共にして“くれる”ってなんだよ)

完全に無意識だった。
これではまるで、彼女の存在を認めているようではないか。それどころか──甘んじて受け入れて、ありがたがってすらいるようではないか。

ジェノスがいきなり転がり込んできて、ヒズミというわけありの隣人も増えて、にわかに騒がしくなった日常。さらにそこへ若く姦しいシキミが加わったことで、それまでの静かで気ままだった独り暮らし生活が脆くも瓦解して、内心では辟易していたはずなのに──これでは。

これでは──まるで。

「先生? どうかしましたか?」

急に道端で立ち止まったサイタマに、シキミが小首を傾げていた。サイタマはその声ではっと我に返る。数メートル離れた位置で、きつい西日に照らされながら、こちらを見つめているシキミ。逆光で表情は見えなかったが、先に行こうとはしない。サイタマが来るのを待っている。

就活に失敗して、ひょんなことからヒーローになることを決意して、生活費も稼げない不器用な生き方を選び、自らの意思で真っ当な人生のレールから外れ、誰からも気に留められることなく、世間から置いていかれっぱなしだった自分を──待っている。

別に寂しいと思ったことはない。
別に侘しいと感じたことはない。

他人に感謝されたことだって結構ある。それなりの礼をもらったこともある。それだけでヒーロー冥利だ。圧倒的な力を手に入れて、強きを挫き、弱きを守るヒーローとしては、この上ないほど順調だっただろう。その代償として背負わされた疎外感も、物足りなさも、心の中で贅沢だと割り切っていた。見返りが欲しくて正義の味方になったわけじゃない。仲間が必要だと考えたこともない。ひとりで充分にやっていけるだけの実力は、不本意ながら備わっている。

そう──ひとりでも充分やってこられたのだ。
ずっとずっと、今までの数年間。

その前提が、急に覆されようとしている気がした。

足元が安定しない。危機が迫っているのを肌で察知する。しかし敵の姿は見えない。目の前にいるのは──出逢ってから一月弱、自分を先生と呼び慕い、カッコいいです憧れなんですと恥を忍ばず繰り返し、健気に家事まで手伝い、一片の汚れもない可憐な美貌でふわりと笑う、いまだ生い立ちに謎の多い女子高生のみである。

(……マジかよ)

歯車がおかしな方向に狂いつつあった。
頭髪とともに根こそぎ失いかけていたなにかが、永久凍土のように凝り固まりかけていたなにかが──ぎしぎしと音を立てて眠りから覚めようとしていた。それがどういうものなのかはサイタマ本人にもわからない。そいつの目がしかと開いて動き出すまでは、想像もつかない。

しかし──その瞬間が訪れたときにはもう。
果てしなく広がる夜の黒い海の、取り返しのつかないほど遥か沖まで流されたあとなのだろう。

「……あの、先生……? ご気分が優れないのですか? マンション戻りますか? 道は覚えてますから、買い出しはあたし一人でも行けますので……」

知らぬ間に、シキミがすぐ側までリターンしてきていた。不安そうにサイタマの顔色を窺っている。赤みがかった大きな瞳が、吸い込まれそうなほど澄んでいる。

「……シキミ」
「はい?」
「……なんでもない。大丈夫だ」

ゆるゆると頭を振って、懊悩を強引に吹き飛ばした。有無を言わさずスイッチをオフにする。シキミはサイタマの返答に安堵したようで、ほっと息をついた。

「早く行かねーと、タイムセール始まっちまう」
「そうですね」
「走るか」
「ええっ? は、走るんですか?」
「おう。競争しようぜ。負けた方の奢りな」
「ええええっ! 先生! ちょっと! 本気ですか!」
「これも修行だ。よーいドン!」

一方的に言い放って、サイタマはゴーストタウンの舗道を走り出した。シキミも慌てて後ろからついてくる。軽やかに走るサイタマに必死に食らいついてくる。置いていかれまいと、見失うまいと、スカートをひらひらなびかせながら──絶対に走りにくいはずのミュールに文句も言わず、大真面目な顔で追いかけてくる。いきなり素っ頓狂なことを言い出したサイタマを理不尽だと思ってすらいないのだろう。

「夕陽に向かって走れ若者よー! 三年B組ー!」
「き……金八先生ー!」

人がいないのをいいことに、二人は馬鹿げたことを大声で叫びながら走る。

夏の夕方の生温い風が全身を舐める。無心でアスファルトを蹴っているサイタマは知らない──強制終了したコンピュータが再起動したとき、その内臓データが破損して、修復も修繕もできず、手に負えないレベルまで壊れてしまうこともあるのだということを。

たったいま放棄した己の思考が、忘れた頃に再び表面に浮かび上がってきたとき、一体どういう形で現れるのか──サイタマは知らないのだった。