Pretty Poison Pandemic | ナノ





いまだ回復の兆しを見せないヒズミのもとを訪れた回数が両手の指でも足りなくなったその日、ジェノスは協会本部でばったりゾンビマンと遭遇した。

ベルティーユの研究室が九割を占めるフロアの、その一角にある休憩スペースで、ゾンビマンは備えつけのベンチに腰かけ無糖ブラックの缶コーヒーをちびちび飲んでいた。ジェノスはたまたま通りがかっただけで、わざわざ声をかける義理もなかったのだけれど、無視するわけにもいくまい──彼とは相応に、根深い因縁があるのだから。

無言のままつかつかと歩み寄ってきたジェノスに、ゾンビマンは片方の眉だけを上げて、わざとらしくおどけたような表情を作った。

「よう。しばらく」
「……暇なのか? お前」
「そのままそっくりお返しするぜ」
「………………」
「今日も面会謝絶だってよ。残念だったな」
「教授に会ったのか?」
「ああ。話せたのは五分くらいだが……なにやらゴスロリっぽいガキ二人と機械いじくって作業してたぜ。ありゃ何者だ? 教授の子供か?」
「あれは教授が製作したアンドロイドだ」
「……嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「本当に?」
「本当だ」
「マジで?」
「マジだ」

ゾンビマンは半信半疑のようだったが、しかしあの稀代の鬼才、ベルティーユならそれくらいのことは容易なのだろう──と、短い付き合いながら納得したらしかった。放心の面持ちで「なるほどな……」と何度も首を前後に動かしている。

休憩スペースには詰めれば五人くらい座れなくもないサイズのベンチが平行に並び、壁際には自動販売機がみっつ直立している。そのうち二個はミネラルウォーターやスポーツドリンク、そして栄養剤など、寝る間も惜しんで働く関係者たちに活力を与える飲料を扱うもので、残りひとつにはカップラーメンや菓子パン、簡易携帯食糧が各種、規則正しく並んでいた。ちょっとしたコンビニエンスストアくらいの品揃えはありそうだった。

「お前、これからどうするんだ」
「どうもこうも……ヒズミに会えないのなら、ここに用はない。教授も手隙でないんだろう? 帰るしかない」
「ま、そりゃそうだな。……俺も帰るか」

空になったコーヒーを、ゾンビマンは適当に放り投げた。おざなりな放物線を描いて宙を舞ったスチール缶は、数メートルの距離を飛行して見事にゴミ箱へホールインワンした。かこーん、と軽い音が周囲に響いた。

「しかし想い人が近くにいるのに会えないってのは、お互い、なかなか悲劇だな。……いや、喜劇というべきか? シェイクスピアが喜びそうな話だな」

ゾンビマンが冗談めかして口を斜めにした。
どちらにせよ──救いはない、とジェノスは思う。

同じ屋根の下の、同じ階の、壁をいくつか隔てただけのすぐ側で苦しんでいるヒズミに、手を差し伸べるだけのこともできない。胸の核を内側から炙られるような掻痒。どうして──どうして自分は今、こんなところでただ成り行きを見守っているのだろう。

どうしてなにもできずに立ち尽くしているのだろう。

そんな改まった自問自答をせずとも、ジェノスには重々わかっている──罪悪感があるのだ。お前は俺が守る、などと調子のいい誓いを立てておきながら、ヒズミの安否を省みず置き去りにして、戦地へ赴くことを迷わず選んだ自分の不甲斐なさに苛まれている。彼女に合わせる顔がないという自責に駆られている──怯えている。

なぜ助けに来てくれなかったのか、と罵られることを。
守ってくれるんじゃなかったのか、と糺されることを。
彼女に見放されてしまうことを──ただ怖がっている。

(……俺は、どうしたらいい)

ジェノスとゾンビマンのあいだに横たわっていた、重苦しく澱んだ息苦しい沈黙は、果たして唐突に破られた。



大音響の、警報にも似た絶叫によって。



なにか重いものが引っ繰り返ったような轟音と、喉を灼かんばかりに絞り出される悲鳴が、どこからか聞こえてくる。甲高く掠れた金切り声で、空間そのものを裂くように──

この悲痛な叫びに、ジェノスは聞き覚えがあった。
忘れるわけがない。忘れられるはずがない。

いつかも耳を、心を劈いた──臆病な彼女の救援信号。

「おい、これ、あの嬢ちゃんじゃねーのか」
「……ヒズミ!」

ゾンビマンが素早く立ち上がった。フィールドコートの裾が翻る。

「急いで教授を呼びに──って、おい!」

形振り構わず、ジェノスは走り出していた。背後から呼び止めるゾンビマンには一瞥もくれず、論理的な思考などすべて彼方へと放棄して、ヒズミのもとへ全力疾走していた。

ついさっきまで脳髄を支配していた不安など、とっくのとうに霧散していた。消散していた──現在ジェノスの内にあるのは、ひとりで泣いているヒズミの面影だけだった。一刻も早く、大丈夫だと──もう泣かなくてもいいと、涙を拭いてやりたいという衝動だけだった。

ヒズミの“病室”は、以前に教えられていたので知っていた。フロアの隅に特設された部屋──当然ながらスライド式の扉は施錠されていたが、ジェノスは力尽くでそれを破壊してしまう。ばきばきばき、と金属が歪んで使い物にならなくなる耳障りな音にも構わず抉じ開けて、室内へ押し入った。

白い壁と天井、横倒しになったベッド、落ちた布団、転がる点滴スタンド、その傍らで中身をぶちまけている合成樹脂の薬剤バッグ、そこから伸びて床をうねるチュープ、異常を伝える電子音をひっきりなしに鳴らしている医療機器、

片隅に蹲って、頭を抱えながら震えているヒズミ。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
「ヒズミ! ヒズミ……ヒズミ!」
「やだ、こないで、こないで、こないで、あっちいって、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、こないで、やだ、やだ、あっちいって」
「落ち着け、俺だ、ヒズミ」

肩を掴んで揺さぶる──のは得策でない、むしろ逆効果だというのはジェノスにも直感的に、否──これまでの“経験則”で理解していたので、膝をついて声をかけるだけに留めた。届いているのかはわからないが、それでもやめるつもりはなかった。

「ヒズミ」
「やだ、やだ、やだ、やだ……」
「大丈夫だ。ヒズミ」
「だれ、だれなの、やだ、あっちいって、こないで」
「俺だ。──ジェノスだ、ヒズミ」

おそるおそる、ヒズミが頭を上げた。

乱れて垂れた白い髪の隙間から、恐怖に濁ったコバルト・ブルーの瞳が覗く──ジェノスの顔を捉えて揺れた。

「あ、あ、あ、あ……っ」
「もう大丈夫だ」
「う、あ……あ……」

恐慌に染まっていたヒズミの表情が色を変えた。
くしゃくしゃと歪んで、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「そう、そうだ、ジェノスくん……ジェノスくんだ……」
「……ああ、俺だ、ヒズミ」
「ジェノスくんだ……そうだ……そうだった……なんで……なんでわかんなかったのかな、わたし、ごめんね、なんで……なんでわすれて……ジェノスくんは、ジェノスくんで、ジェノスくんなのに、なんで、わたし……ごめんね……わたし……なんで」

どうやら錯乱状態から正気に戻りつつあるらしいと察して、ジェノスはヒズミの頬に触れた。白い肌を滑り落ちていく涙を指ですくって、それでも止まらない。顔中が雨に打たれているかのように濡れていく。狂ったように泣きながら、ヒズミはジェノスから目を逸らさない。ジェノスも彼女の視線を真正面から受け止めている。

「ジェノスくん、ねえ、ジェノスくん、は、」
「どうした?」
「けが、してない、の?」
「けが……? ああ、怪我、か? どうして」
「だって、だって、ぜんぶ、こわれちゃって、みんなしんじゃったんでしょ、わたしが、わたしばっかりいきてたって、しかたないのに、わたしがいきてたって、意味なんてないのに、私だけが……ひとりで生きてたって……ジェノスくんが……いなかったら、もう……」
「ヒズミ……」
「……ぶじでよかった」

くらり、と、眩暈がした。
こんな状況下で、俺の身を案じているのか──と。
ジェノスは打ちのめされた気分だった。

どんなに強い怪人の一撃より重い。

くだらない自尊心で、しょうもない自己愛で、みっともない自己陶酔でヒズミに合わせる顔がないなどとのたまっていた己の浅ましさに吐き気がした。

「……すまなかった」
「どうして? どうして謝るの? わたしが、私が弱いからいけなかったのに、わたしが……私はいつも、ジェノスくんに、助けてもらってばっかりで」
「もっと早くこうしてやればよかったんだ」
「ジェノスくん、」

ヒズミのやつれ細った背中に腕を回して、力を込める。
ぎゅっ──と、抱擁する。

お願い、行かないで、ここにいて。
あのお祭騒ぎの夜、彼女が絞り出した懇願を思い出す。

恐怖に喘いでいた彼女に、ここにいる、と言ったのは誰だ。

それなのに──容易く置いていったのは誰だ。

盆に返らぬ覆水が、喉の奥につかえて息が苦しい。
ヒズミはこんなにも、こんなにも──優しいのに。

「遅くなって、すまない」
「……う、……っふ、く……」

熱を含んだ嗚咽が、ジェノスの耳殻をくすぐる。声を殺して泣くヒズミを、さらに強く抱きしめた。ヒズミの指先が、小刻みに痙攣しながらジェノスのパーカーの裾を握っている。

「あのとき、私、頭が真っ白になって、全部わかんなくなって、ジェノスくんのことも、もうなんにもわかんなくなっちゃって、ジェノスくんはいつも一緒にいてくれたのに、私、勝手にひとりだって思い込んで、怖くて、忘れちゃって、わかんなくなって、ずっと会いたかったのに、思い出せなくって、ひとりで勝手に怖がって、バカみたいでさ、鬱陶しいよな、ごめんなさい、ごめん、私こんな、情けなくて」
「もういい。もういいんだ」
「ごめんなさい、……ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「すまなかった……」

遅れて飛び込んできたゾンビマンと、彼に呼ばれて駆けつけたベルティーユが抱き合っている二人を見て、顔を見合わせた。ゾンビマンは苦虫を噛み潰したような表情で頭を掻き、ベルティーユは眉間に皺を寄せながらも、やれやれといった様子で肩をすくめている。

そんな瑣事には構わず、ジェノスとヒズミは長いあいだずっとそうしていた──この充足が色褪せることのないように、もう二度と離れることのないように、祈りながら。