Pretty Poison Pandemic | ナノ





サイタマ宅のドアは施錠されていなかったので、合鍵を使用する必要はなかった。三和土で踵の低いミュールを脱ぎながら、シキミは恐らくリビングにいるであろうサイタマに向かって、大声で帰宅した旨を報告する。

「先生! ただいま帰りました!」
「おー、早かったな。外で勉強してくるんじゃなかったのか?」
「図書館が混んでまして……落ち着かなかったので、早めに切り上げてしまいました」
「そりゃ残念だったな」

寝間着のまま床に寝転がって漫画を読んでいたサイタマが、がばっ、と体を起こして、頭髪のない頭をぼりぼりと掻いた。勉強道具の詰まったトートバッグを提げたシキミをさらりと一瞥して、それから壁掛け時計の針が昼飯時を指しているのを見て「もうこんな時間か……」と欠伸をひとつ零した。

「お前、メシは? 食ってきたの?」
「いいえ、まだです。先生は?」
「俺もまだ、なんにも」
「お腹すいてらっしゃるようでしたら、あたし、今からなにか作りますよ」
「いや、……どっか食いに行くか。たまには」
「わかりました。お供しますっ!」

びしっ、と気をつけの姿勢を取ってから、シキミはトートバッグから余所行き用のポシェットに財布とスマートフォンを移し替えにかかった。今時の女子はたかだか鞄にそこまで気を遣うのか、とぼんやり感心しながら、サイタマは脱衣場で服を着替える。どのみちよれよれのTシャツなのでお世辞にも洒落ているとは言い難かったが、幸か不幸か、シキミはそんなことを気にしていちいち指摘してくるような性格の持ち主ではなかった。

そんなこんなでZ市の中心──繁華街へ赴いて、二人は全国チェーンのレストランに入った。運よくひとつだけテーブルが空いていたので、待たされることなく中へ通された。ボックス席に向かい合って座り、メニューをぱらぱらとめくる。

「ヒズミはどうだった?」
「まだ面会謝絶です。あんまり……まだ、その……落ち着いていないみたいで」
「そうか。……なんとも難儀な話だな」
「……そうですね」

サイタマは日替わりランチ、シキミはハーフサイズのスパゲッティを注文した。お冷やで喉を潤しつつ、サイタマは魂の抜けたような顔で中空に視線を彷徨わせている。

「敵を倒せるだけじゃ、人は救えねーんだなあ……」
「それでも……あの宇宙人の親玉は、きっと先生にしか倒せなかったと思います。他のヒーローでは手に負えなかったでしょう。あのとき先生がいなかったら、もっと犠牲は大きかったはずです」
「ジェノスにも同じこと言われたな」
「二番煎じですみません。でも、事実ですから」

シキミの言葉にも、サイタマはリアクションを返さない。だらだらと水を飲みながら、一体どこを見ているんだかわからない表情のまま、ひたすらぼけーっとしている。

「……あの宇宙人のボスがさ」
「はい」
「どっかの星の占い師に言われたらしいんだ。10年だか20年だか前に。地球にはお前と対等に戦えるヤツがいるって」
「それは……予言、ですか」
「ああ。それで退屈してたそいつは地球に来た」
「本当に対等だったんですか? 先生と」
「……いや」

サイタマはゆるゆると首を横に振った。嘘をつかなかった。

「過去一番だったけどな」
「……そうですか」
「予言なんてもんは当てにならねーんだよ、結局」

投げやりなサイタマを、シキミは知らず知らずのうちに凝視していた。熱烈な視線にサイタマが「なんだよ」とたじろぐ声で、シキミは我に返ったらしかった。

「あ、すみません。ちょっと考えごとを……」
「考えごと?」
「……シババワ様の予言です」
「ああ、地球がヤバいっていうアレか」
「先生はあの予言を、どう思ってるんですか?」
「どうもこうも、あの宇宙人のことだったんじゃねーのか? だったらもう危機は去っただろ」

つまらなさそうにサイタマは言う。
心底から──退屈そうに。

「宇宙一のエイリアンより怖いものなんてねーだろ。強いヤツなんていねーだろ」
「……先生は、期待、してたでしょう?」
「期待?」
「あの緊急集会のとき、先生は予言を聞いて、笑ってました。自分よりも強い相手が現れるんじゃないかと、期待したんじゃないですか」
「……そうかもな」

宇宙という果てしなく広大な世界で、互角に戦えるものもなく、渡り合えるものもなく、やがて刃向かうものもなくなって、ヒエラルキーの頂点に立ってしまった空虚と孤独。

あの一つ目の化け物が抱えていた欲求不満。

それは──今サイタマが内に秘めている疎外感と。
なにが違うというのだろう?
どこが異なるというのだろうか?

「俺もひとつ間違ったら、退屈しのぎに他の惑星を侵略しに行ったりしちまうのかなあ」
「……先生」
「そんなこと考えちまう時点で、ヒーロー失格なのかもな。ヒズミは大変なことになってるっつーのによ……結局、俺は自分のことしか考えてねークズなのかもしれない」

自虐的に頬を歪めて、サイタマは椅子の背もたれに体重を預けた。
天井を仰いで、意味もなくオレンジ色の照明を睨む。

「先生、最近ちょっと元気がなかったのは、そのせいですか?」
「元気なかった? 俺が?」
「はい」
「女子高生に心配されてちゃ、ますますヒーローの肩書きが泣くな」
「先生はヒーローです。誰がなんと言おうと、先生自身がどう思っていようと、ヒーローです。少なくともあたしにとっては、憧れの──スーパーヒーローなんです」
「……シキミ」

両の瞳を潤ませて、シキミは震える声を絞り出す。

「あたしは絶対に先生についていきます。なにがあっても。だから」
「…………………………」
「先生の悩みは、あたしには絶対わからない、共有はできないものですけど……もしも先生が道を踏み外しそうなときは、あたしが止めます。ぶん殴ってでも連れ戻します。先生にはジェノスさんも、ヒズミさんもいます。だから……えっと、その、……えっと」
「全部まとめてから喋れよ」
「す、すみません……えっと、とにかく、あたしは先生を尊敬しています。先生の強さだけじゃなくて、A市が攻撃されたって聞いたときに一番に外へ出て行った勇敢さとか、ヒーローとしての気概っていうか、本当かっこいいですし、あたしもそういうふうになりたいっていうか……ずっとお側にいたいと思ってるんです。先生からしたらあたしみたいのなんて鬱陶しいだけかもしれないですけど、世間知らずの妄言だと思われても仕方ないんですけど、それでもあたしは……先生を先生だと決めたんです。先生がどんなひとでも、道をともにする覚悟はできてるんです」

とんだ告白だった。
よくもまあ、そんなことを面と向かって言葉に出せるものだ。

自分にはない素直さである。
愚直さといっても差し支えないかもしれない。

しかし──それは揺るぎなく。
サイタマにとってなによりも心強い励ましなのだった。

「ぶん殴られるのはちょっと怖いな」
「あっ、ご、ごめんなさいっ! 先生を殴るなんて、あたしとんでもないことを……!」
「いや、……なんか目ェ覚めたわ」
「そ、そうですか……」
「ありがとな」
「ももも勿体ないお言葉ですっ! そんなっ!」

料理が運ばれてきて、会話はそこで自然と打ち切りになった。目の前でもそもそと小動物のようにカルボナーラを食んでいるシキミは、ずっと自分についてきてくれると、こうして一緒にのんびり安いメシに付き合ってくれるのだという──ロックフェスのときにも堂々と宣言されたことではあったけれど、その目に見えない許容は、かつて受けたことのない包容は、サイタマ自身も知らないうちに彼の芯へじわじわと染み渡っていくのだった。まるで神経を蝕む遅効性の毒のように。

ようやく気がついたときには。
きっと──もう、手遅れなのだろう。