Pretty Poison Pandemic | ナノ





……誰かが呼んでいる気がする。
徐々に感覚が戻ってくる。
悪夢が薄らいでいく。

冷え切った肉体に温かいものが流れ込んでくるような、弱々しい反復運動を繰り返していた心臓が拍動を再開したような、奥底から満たされる安心を促すような──声が聞こえる。

「……い、おい、大丈夫か、生きてるか」

ゆっくりと瞼を持ち上げる。短く刈り込まれた黒い髪に、鮮烈な赤い瞳。どこかで見たことのある、会ったことのある顔だった。完全な覚醒には至っていない、朦朧と漂う意識で、ヒズミは彼の名を絞り出す。

「…………ぞんびまん……さん……?」
「ああ、生きてるな。よかった。さっさと離脱してきて正解だったみてーだな」
「わたし……わた……」
「喋らなくていい。すぐ協会に連れてってやるから」
「……みんな……みんな……こわれて……なくなって……いなくて……し……しんじゃったの……わたし……わた……あ……ああああああああああああ……」
「落ち着け。いいから落ち着け」

ゾンビマンは半狂乱で暴れるヒズミを抱きすくめて、その背中をあやすように撫でる。

「やだ、やだ、やだ、やだ、なんで、なんで、わたしがわるいの、わるいの、ごめんなさい、なんでわたしだけ、なんで、なんで、わたしだけいきてるの、なんで、わたしがわるいの、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、いたいの、いたい、いたい、いたい、こわい、こわい、こわいの、こわいよ、なんで、やだ、こわいのに、わたし、いたいのに」
「そりゃそんな血だらけだったら痛てーわな」
「いたいの、こわい、こわいの……」
「あーよしよし。怖かったな、よしよし」

血に染まって赤くなったヒズミの髪は、乾きかけてぱさぱさになっていた。それを手櫛で適当に梳いてやり、ゾンビマンは震えているヒズミを担ぎ上げた。彼女は抵抗しようとない。されるがまま──どころか、ゾンビマンの首にしっかりとしがみついて、離さないでくれと全身で訴えているようだった。

「ごめんなさい……わたし……ごめんなさ……」
「もういいから黙ってろ。ちゃんと助けてやるから」
「……ごめんなさい」

そしてゾンビマンは、なにもかもが灰燼と帰した荒涼たる廃墟を、本部に向かって歩いていく──二重の意味での“生存者”を救うために、ヒーローは確かな足取りで歩いていく。



──この日、A市は地図からなくなった。

宇宙人襲来、A市消滅は歴史的大事件として連日報道されたが、しばらくすると報道は収まり、誰も消えた都市の話題はしなくなった。宇宙船はメタルナイトが回収し、どこかへ移動させた。

その後ヒーロー協会本部はさらに建物の強化改築を行い、鉄壁の要塞を作り上げた。新しく道路を作り、協会本部から伸びる道路でどの街にも迅速に駆けつけることができるようになり、A級以上の希望したヒーローにはこの本部に移住する権利が与えられた。



というのが、事の顛末だった。
衝撃的な大虐殺から、人々は立ち直ろうとしていた。立て直そうとしていた。悲しみに暮れながらも、必死に生活を取り戻すべく足掻いていた──藻掻いていた。着実に、壊れたものは再建されつつあった。再興されつつあった。

しかし──
埋まらない溝というのも。
塞がらない傷というのも。
また確実に存在しているのだった。

協会本部にあるベルティーユの研究室を、今日もジェノスは訪れていた。特にアポイントメントを取っていたわけではないのだが、このところ毎日のことなので、彼女は別段びっくりしたふうでもなく、むしろ“やっと来たか”くらいの心持ちで彼を快く迎え入れた。

「ようこそ。お茶でも淹れよう」
「いえ。お構いなく」
「遠慮するな。君も疲れが溜まっているだろう」
「機械の体ですから、別に……」
「それでも心労は重なっていくだろう?」
「……………………」

案内された来客用のスペース──かのロックフェスが終わった翌日に一度だけ来たことのあるそこには、シキミが座っていた。砂糖とミルクのたっぷり入った甘いコーヒーを飲んでいた彼女はジェノスの来訪に気づくとカップを置いて腰を上げ、おはようございます、と一礼した。

「ジェノスさんも……、ヒズミさんの様子を見に?」
「お前もか」
「はい。……あの日、あたしがもっと早く気がついていれば……こんなことには……」
「お前が悪いんじゃない。気に病むな」
「それは君にも同じく言えることだと思うがね、ジェノス氏。自分だけが悪いと思い込むのは、自分の責任だと背負い込むのは、もっとも楽な思考放棄であり、逃避行為に他ならない」

カウチ・ソファに腰を落ち着けて、ベルティーユは組んだ脚の、膝の上に両手を重ねて置いた。

「ジェノス氏も座りたまえ」
「……ヒズミのところに行きたいのですが」
「残念だが、今日も面会謝絶だ。まだ情緒不安定なのでね」

──情緒不安定。
ジェノスは無意識に奥歯を噛みしめた。

聞いた話によれば、あの日──宇宙人がA市を亡きものとした日、ヒズミは行きつけの喫茶店で休憩していたのだという。そして集中砲火を受け、建物の下敷きになり、大怪我を負った。強靭な肉体を持つヒズミといえど、ダメージの程度は深刻だったそうだ。それでも必死に瓦礫の中から這って出て、目撃した──街の惨状を。

いつか自分が遭遇した“爆発事故”と似た、凄惨で凄絶な光景を。

そのショックによって、当時の精神的外傷──いわゆるトラウマが呼び起こされてしまったらしい。悪辣なフラッシュバックに苛まれ、幻覚と幻聴によって取り乱し恐慌状態に陥り、やがて糸が切れたように眠りに落ちる。そのまま十数時間も目を覚まさない。まるで現実を拒絶するように。しかしフラッシュバックは夢の中にも顔を出す。悪夢に魘され飛び起きて、泣いて悲鳴を上げながら暴れるのだという。そしてまた、気絶するように浅い微睡みに溶けていく。ここ数日はずっと、その繰り返しなのだった。

「食事も碌に摂取できないんだ。幸い“充電”はできているようだから、栄養失調による衰弱死の心配は今のところないのだが……それもいつまで保つかわからない。体構造がまだ解析しきれていないのが痛いな。完全にヒズミの肉体を把握できていないがゆえに、有効な治療法が見つからない。もっとも、心というのは目に見えない器官であるから、どのみち特効薬などは存在しないのだけれどね……医者としては、泣きたくなるほど情けないよ」
「教授が寝る間も惜しんで手を尽くしてくださっているのは、あたしたちも重々に理解しています。どうかご無理なさらないよう」
「ありがたい言葉だ、シキミ。痛み入るよ。しかしそれでも、私は私の仕事を全うしなければならない」

沈痛な面持ちのシキミに、ベルティーユは口元を綻ばせる。

「時間が経てば、きっと落ち着くだろう。このパニック障害は恐らく一過性のものだ。時間は神のもたらす薬たりうる。いつかあのマンションに……彼女の帰るべき場所に戻って、また以前と同じ生活ができるようになるさ。その幸福な理想の実現をなるべく早くできるよう、私は命を懸ける」
「よろしくお願いします」
「……俺からも、頼みます。ヒズミを……あいつを、お願いします」
「合点承知。不肖ベルティーユ・Q・ラプラス、自分の患者は悪魔に魂を売ってでも救ってみせる」

ヒズミの件のみならず多忙な身であるベルティーユをこれ以上に亘って拘束するわけにはいかないので、二人は研究室をあとにした。シキミは“市営図書館に篭って課題を片づけます。夕飯までには帰ります”とのことだったので、本部のエントランスでそのまま別れた。ジェノスにはこれといって用事もないので、というよりヒズミのことで心を痛めるあまり用事を作れるほどの気力が残っていなかったので、もうすることがない。重い体と心を引きずって憔悴しながら、真っすぐサイタマの待つマンションへ帰宅しようかと考えていた──その視界を、一人の男が通りすぎた。

黒い短髪、同じ色のジャケット、ちらりと見えた瞳は赤。
血色の悪い痩躯の彼は──ゾンビマンだった。
反射的にジェノスは彼に駆け寄り、声をかけていた。

「ゾンビマン!」
「あ? ……ああ、お前か。元気してたか?」
「協会になにか用があるのか?」
「宇宙人が来たときに助けた、あの嬢ちゃんの見舞いにな。お前もだろ」
「……そうだ」
「そんで──面会謝絶だったから、諦めて帰るとこだろ」

図星を突かれて黙り込むジェノスに、ゾンビマンは嫌な感じに口を斜めにした。

「そんじゃ、どうせ俺が行ったって意味ねーな」
「お前がヒズミを発見して、本部まで運んだそうだな」
「ああ。たまたま見つけたから連れてった」
「……………………」
「なんかヤバそうだったからよ。怪我もそうだが、なんつーか、怖がり方が尋常じゃなかったな」
「……そうか」

俯いて、ジェノスは深い溜め息をついた。前に会ったときとは完膚なきまでに異なる、萎びて草臥れたジェノスの仕種に、ゾンビマンは片目を眇めた。

「……お前、これから暇か?」
「? 特に予定はないが……」
「よし。昼メシ付き合え。ラーメン食おう」
「は? どうして」
「細かいことは気にするな。行くぞ」

強引に話をまとめて、ゾンビマンはさっさと出口へ向かっていく。ジェノスは突然の誘いにしばし呆然と、憮然としていたが──断る理由もない。決して軽くはない足取りで、ゾンビマンの後ろについて協会本部を出た。遥か頭上の空が清々しい青に晴れ渡っているのが、なぜだかどうしようもなく憎らしかった。