Pretty Poison Pandemic | ナノ





振り上げた右脚を、そのまま切り裂くように横に薙ぐ。正確にシキミのこめかみを捉えた──と思われた鋭い回し蹴りだったが、シキミは少し上体を曲げただけで、難なくそれを躱してしまう。ヒズミの顔に驚愕と焦燥が如実に表れた。彼女が体勢を整え直すために一瞬だけ生まれた隙を、シキミは見逃さなかった。軸足に力が入った刹那を見計らい、突き出した脚を回転させるようにして、足払いを仕掛ける。

「──うわっ!」

面白いほど簡単にヒズミはバランスを崩した。その懐へ素早く潜り込んで、シキミはヒズミの胸元をがっしりと左手で掴む。後ろへ倒れ込みそうになっていたヒズミが踏ん張ろうとしたのを利用して、思いきり引っ張る──すると必然的に、勢い余って前のめりになる。

「うわっとっとっちょっとタンマちょっうわっ」

間抜けな悲鳴を上げているヒズミに容赦も躊躇もせず、シキミは彼女の背中側に回り、軽く押した──それだけで、ヒズミは地面に俯伏せにすっ転ばされてしまった。起き上がろうと手をついたヒズミの後頭部に、シキミが右手に構えていたヴェノムの銃口が押し当てられる。その感触に、ヒズミは──観念したように両手を耳の横へ挙げた。

「……ギブアップ」
「ありがとうございました」

ヒズミの降参宣言を聞いて、シキミはヴェノムを下ろした。ヒズミは「あー、くっそ、全然ダメだな」と悔しそうに呻いて、ごろん、と仰向けに、大の字になった。

「ヒズミさん戦い慣れしてないから、行動が読みやすいんですよ。ここでこういう攻撃が来るな、とか、目線がこっち向いてるから右を狙ってくるな、とか……スピードは確かにヒズミさんの方が圧倒的に上なんですけど、技術の面ではちょっと甘いですね」
「まだまだだね、ってか……青学の柱にはなれそうもねーな」
「力の使い方を覚えましょう。ヒズミさん、無駄な動きが多いです。もっと経験を積んで効果的な打撃法とか、先の先を読む洞察力を身につけるべきです。鍛錬あるのみですよ!」
「いやはや、手厳しい師匠だ……」
「これから鍛えればいいんです。ですよね──バングさん」

そう言って、シキミは振り返る。そこにはご指名のバングと、そしてサイタマとジェノスが立っていた。バングの一番弟子である青年もいたのだが、彼はシキミとヒズミの大立ち回りに唖然としていて、声も出ないようだった。

ちなみにここは、バングの開いている道場である。面白いものを見せてやるというバングの言葉に乗せられたサイタマが、ちょうど暇を持て余していたジェノスとシキミとヒズミを連れてやってきていたのだが──当の本人はバングの目的が勧誘だとわかった途端に興味を失ったようで、既に退屈そうに気の抜けた顔をしている。話の流れでシキミとヒズミが手合せするという運びになって、少しだけテンションが元に戻ったようではあったけれど。

「そうじゃのう。せっかくいいもん持っとるんじゃ。精進するといい」
「恐縮です」

よいしょと立ち上がり、乱れた蓬髪を適当に直して、ヒズミは頭を下げた。差し出されたシキミの手に快く応じて、握手を交わす。

「ジェノスくんに稽古つけてもらってた頃を思い出すな」
「そんな時期があったんですか?」
「事故に遭った直後にね。毎日ボコボコにされてた」
「ボコボコに……」
「あまりにも手加減なしだったんで、本当ジェノスくんのこと嫌いになりそうだったよ」

ジョークめかしてそんなことを口にするヒズミだったが、当のジェノスは真に受けてしまったようで、突然あたふたしはじめた。火を見るよりも明らかに取り乱していた。

「いや、あれはあのとき必要なことだったのであって……お前に白兵戦のノウハウを教えるためにだな……俺だって好きでお前を殴ったり蹴ったりしていたわけでは……」
「冗談だって。感謝してるよ」
「ヒズミ……」
「見せつけてくれるのう」

相変わらず仲がいいようでなによりじゃ、とバングはニヤニヤしている。

「いい機会じゃ。おぬしここの門下生になって、流水岩砕拳、やってみる気はないか?」
「そうですね……前向きに検討してみます」
「今なら月謝もちょっと負けてやるぞ」
「天下のシルバーファングが、弟子の地位を安売りしないでくださいよ」
「世知辛い世の中じゃからのう。それともなにか、おぬしもサイタマ君に師事しておるのか? 彼を先生、と呼んでおるし」
「そういうわけじゃないですよ。呼びやすいから呼んでるだけで。それに私は生来の根性なしですからね──誰かに教えを乞うような殊勝な性格してないです。それにさっき仰ってた、他の門下生を再起不能にして破門されたっていうファンキーボーイも、……ちょっと怖いですし。えーと、誰さんでしたっけ?」

ヒズミの問いに、バングが答える。

「ガロウじゃよ」
「パチンコ打ちたくなる名前ですね」
「ヒズミ、お前、ギャンブルもするのか」
「何回か行ったことあるだけ。好き好んで行こうとは思わねーよ。耳がおかしくなる……あ、でも、今ならスロットの目押しでかなり稼げそうだな」
「ヒズミさん、ああいうのはどうやっても胴元が儲かるようにできてるんですよ。やめといた方がいいです」
「シキミの言う通りだ。それにあんな不健全な場所……柄の悪い客ばかりだろう。変な男に絡まれでもしたらどうするんだ」
「シキミちゃんもジェノスくんも厳しいな……」
「ジェノス君のは毛色がやや違うようじゃがのう」

そんなふうに、のんびりと談笑していた一同のもとへ──ばたばたと、慌ただしい足音が近づいてきた。ばん! と大きな音を立てて、外から扉が開かれる──乱れたスーツに身を包んだ男が、息を切らしながら汗だくになっている。切り立った崖の頂上にあるこの道場まで階段を上るのに相当の苦労をしたようだ。

「シルバーファング様! ヒーロー協会の者です!」

男は開口一番、そう叫んだ。

「この度──S級ヒーローに非常招集がかけられました! 協会本部まで御足労を願います!」

ぜえぜえと肩を揺らしながら、彼は奥にいたジェノスにも気がついて、ひときわ声を大きくした。

「やや! そこにいるのはジェノス様ですね!? S級は全員集合せよとのことですのでジェノス様にも来ていただきます!」
「レベル竜が来たか?」
「……やれやれ」

蓄えた白髭の下でぼやいて、バングは踵を返した。一番弟子の青年──チャランコに背中を見せたまま、

「チャランコ、留守を頼むぞ」

と一言。チャランコは「お気をつけて!」と気合いの入った返事をした。

「S級が呼ばれるということは先生の力も必要になるかもしれない。一緒に来てくれますか?」
「いいぜ暇だから」
「ものすげー安請け合いだな」
「うるせーよヒズミ。緊急事態なら戦える頭数は多い方がいいだろ」
「平和のために体を張ってくださるんですね! 先生さすがですっ!」
「おお──A級の毒殺天使様もいらっしゃったのですか! あなたもS級への昇格が期待されているトップ・ヒーローです。あなたも来てください」
「え? あ、はい……わかりました」
「それから──ヒズミ様にも」
「んあ? 私?」

まさか自分にまで矛先が向くとは思っていなかったヒズミが、驚いて目を瞠る。

「協会はあなたの能力を高く評価しています。正式なヒーロー登録はお断りになられたそうですが、力を貸していただきたいのです」
「……まあ、私にできる範囲のことなら」
「ヒーロー登録の話なんてあったのか?」
「うん。前にちょっとな」
「聞いてない」
「言ってないから……ごめんって。そんな怖い顔すんなよ」

一気に機嫌が悪くなったジェノスを宥めて、ヒズミは頭を掻いた。

そんなこんなで五人はヒーロー協会本部へ向かうことになったのだった。黒塗りの高級車に乗り込んで、一路A市へ──そこにどんな危機が待ち受けているのかも知らないまま。