Pretty Poison Pandemic | ナノ





夕飯を終え、ひとっ風呂ゆったりと浴びてからリビングに戻ったサイタマを待っていたのは、なにやら小洒落たスイーツだった。ワイングラスを平たくした形状の容器に薄いピンクのムースのようなものが盛られ、その上に小粒の苺が乗っている。

ヒズミとジェノスは無心でぱくぱくとそれを頬張っていて、シキミはキッチンで手際よく洗い物をこなしている。サイタマがバスルームから出てきたのに気づいてシキミは作業の手を止め、にっこりと屈託のない笑顔を浮かべた。

「お湯加減いかがでしたか?」
「え? ああ、よかったよ……ていうか、なにこのオシャンティなの」
「フール、っていうんだって。超おいしいよ」
「シキミが作ったの?」
「はい。差し出がましいかとは思ったのですが……」

シキミの説明によると、生クリームとバニラエッセンスとマスカルポーネチーズを加えたものに、苺と砂糖とレモン汁のピューレを混ぜた欧州のデザートらしい。お嫌いでなければどうぞお召し上がりください、と勧められたので、サイタマはテーブルについてスプーンで一口──二口、三口、もう止まらなかった。

「なにこれ超うめえ」
「だろ? 最高。チーズの風味がいいよね」
「マジでこれ作ったの? ケーキ屋で買ったとかじゃなくて?」
「違います、先生。俺がしっかり見ていました」
「はあ……大したもんだな……」
「私これからシキミちゃんのこと師匠って呼ぶわ」
「え、そんな、やめてくださいよう」
「やめませんよう。さあさあ師匠、あとはわたくしめが片付けますので。師匠はどうぞあちらでテレビでも見ながらごゆっくりなさってくださいまし。ちょうど嵐が出ておりまし。松潤がイケメンでございまし。師匠は誰がお好みでございまし?」
「はあ……あたしは翔くんが好きです……」
「なるほど、知的な殿方がいいのでございましね。先生ちゃんと聞いてた?」
「だからなんで俺に振るんだよ! お前といい教授といい!」

空になったグラスをシンクへ持っていくついでに、ヒズミが強引にシキミから仕事を奪ってしまった。仕方なくリビングに腰を落ち着けてみたのだが、ジェノスがテレビの画面を親の仇のように睨みながら「どいつだ……マツジュンというのはどの男だ……」とぶつぶつ呟いているのが普通に怖い。サイタマは見て見ぬ振りをしている。大人の対応だった。

(……あたし、ここでやっていけるかなあ……)

どこまでも先行き不安な、蝉の鳴く声が遠く聞こえる夏の日の夜。



その翌日。

ジェノスはクセーノ博士の秘密研究所を訪れていた。ロックフェスに潜入(という表現はやや大袈裟に過ぎる気もするが、本人はそれくらいの心持ちだった)するために装備していた擬態用の義肢から前のボディに交換した、その最終チェックの依頼である。大方の作業はベルティーユとその子供ふたりによって済んでいるのだが、ベルティーユ本人から「一応クセーノ博士にも確認を頼んであるから、なるべく早めに見てもらうように」とのお達しが出ていたので、こうして足を運んだ次第なのだった。

都会のオフィス・ビルのようにごちゃごちゃと機械のひしめく密度の高い空間で、クセーノ博士は手元の資料をぱらぱらとめくりながら、ふむふむ、と小さく繰り返し頷いている。

「今のところ問題は見当たらんのう。バッテリーの回路、コアの電圧負荷、焼却砲のエネルギー制御……どれも正常じゃ。大丈夫じゃろう」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
「礼には及ばん。オヌシも久々に大衆娯楽に触れることができて、よい息抜きになったのではないか?」
「……そうですね」
「あの白い髪のお嬢さんと一緒だったんじゃろ?」
「はい」
「どうじゃった」
「どう、……とは?」
「とぼけるでないわい。なんかあったじゃろ、なんか一個くらい」

茶化されているのだ──と思い至って、ジェノスが眉の間に深い縦皺を作った。

「そう怒らんでもいいじゃろ。ほんの興味じゃ」
「別に怒っているわけではありません」
「そうかいそうかい。……それで、真面目な話じゃが、丸一日ボディを別のものとトレードしてみて、なにか今後の改造に活かせそうなヒントなどは得られなかったか? ここをこうすればもっと性能が上がるのでは、というような」
「いえ、これといって、…………あ」

なにか引っ掛かかるものがあったらしいジェノスの思案顔に、博士は目を大きくした。

「どうしたジェノス? なにかあったのか?」
「戦闘と関係があることではないのですが……」
「なんじゃ? 言ってみなさい」
「この手でも楽器を演奏することは可能でしょうか」
「楽器!?」
「例えばエレキギターとか」
「エレキギター!?!?!?」

博士の素っ頓狂な声が、研究室に響き渡った。

「な、なんじゃどうしたオヌシ、生でライブ見てなにかに目覚めたのか? ロックか? ロックなハートに火がついたのか? 反社会精神か? 心をなくした現代人へのアンチテーゼか? ピアス増やして中指立ててモッシュの中にダイブでもキメるのか?」
「……すみません、忘れてください」

こんなふうに取り乱されては──おとなしかった我が子がグレてしまったのかと怯える親みたいに狼狽えられては、とても突っ込めない。ジェノスは深く溜め息をついて、無機質な金属によって構成された掌を見つめ、ステージ上で踊り狂いながらギターを掻き鳴らすバンドマンにうっとりと熱を帯びた視線を送っていたヒズミの横顔を脳裏に過ぎらせて──ぎゅっ、と拳を握り締めた。



「窓を拭くときは、まずはたきで埃を落とすんです。そのまま拭くと、ガラスに傷がついてしまいます。それからこのT字の水切りワイパーの、ゴム刃の部分にタオルを巻きつけて、ガラス用洗剤をスプレーで吹きつけてタオルに含ませて、まんべんなく洗剤をガラスに塗ってから、一気に拭くんですよ」
「一気に?」
「そうです。ゆっくり拭くとムラになります」

シキミの掃除講座は的確だった。ものの五分でベランダと室内を隔てる窓ガラスは美しく様変わりし、その鮮やかな技巧にヒズミは惜しみない拍手を送った。

「すげー。劇的ビフォーアフター」
「定期的にやるといいですよ。簡単ですし」
「さすが師匠。お見逸れいたしました」
「そんな……あたしもネットで調べただけですから」

謙遜するシキミに、ヒズミはいやいや、と首を横に振った。

「師匠がここにいてくれる間に、いろいろ生活の知恵を聞いとかねーとだな。師匠のしっかり具合を見てると、洗濯機を回すのにも四苦八苦してる自分が恥ずかしくなる」
「あたしも最初は全然でしたよ。必要に迫られれば、自然とできるようになります」
「そういうもんかな。私マジで生活力ゼロだからな……」

そう言って、くわえた煙草に着火しかけたヒズミが「あ」と間の抜けた声を上げた。

「そういえば、うちアレがねーんだ」
「アレ?」
「ほら、あの……月に一回やってくるオンナノコの……血祭りの……」
「……? ……ああ!」

血祭り──とは、なかなか言い得て妙だ。

「私この体質になってから、アレ来なくなったから」
「えっ……」
「そういうわけで生理用品いらなくなったから、常備してねーの」
「そう、だったん、ですか……あの、えっと、すみません、そんなつらい事実を……」
「いやいや、こっちこそ変な話でごめん……そういうわけだから、ちょっとドラッグストア行って……」
「あ、えっと、大丈夫です、よ」

どこか遠慮がちに言うシキミに、ヒズミは小首を傾ぎかけて──ああ、と得心いったように手を打った。

「ひょっとして準備してあるの?」
「え、あ、はい。そうです。なのでご心配なく」
「そっか。さすが師匠。急な外泊なのに抜け目がないね」
「……師匠はマジでやめてください……」

そんなこんなで、ガールズトークに花が咲いていた。
爛漫と咲き誇って、咲き乱れていた。

ロックフェスで発生した一連の騒動の真相、ヨーコの所在──気がかりなことは山積みだったが、取っ掛かりがなければ手の打ちようもない。会場は厳重に封鎖されているし、ヨーコは音信不通だしで八方塞がりだ。ヨーコが危険な目に遭っている可能性もなきにしもなのだが、彼女が窮地に立たされているところなど想像もつかない。不思議とそういった不安はないのだった。

となると──もう、開き直って新展開を待つくらいしかすることがない。
そんな気持ちでどっしりと構えていたシキミだったのだが、彼女はすぐに思い知ることになる──この時世、ヒーローには休息など存在しないのだということを。