Pretty Poison Pandemic | ナノ





この国に広く浸透している“おやつ”という概念は、もともとは和時計における八つ時──今でいうところの午後二時頃に、農民が小腹を満たすために間食を摂取していたのが始まりである。当時は食事が朝と夕の一日二回というのが常識で、体力仕事に従事する人々には、なるほど重要な習慣だったといえよう。

生活パターンが大きく変わった現代においても、間食という行為はそれなりに重要視されている。空腹によるものではなく、趣味嗜好のひとつとしてという形ではあるけれど、日々の暮らしで蓄積したストレスを甘味で緩和したり、菓子をつつきながら親しい者同士でコミュニケーションを深めたり──それらのもたらす効果的メリットは、枚挙に暇がない。

今まさにヒズミとジェノスもまた、その恩恵に肖ろうとしていた。ヒズミの部屋にジェノスが招かれる形で、テーブルを囲んでいる。しかしなぜか二人とも正座しているので、和気藹々、意気揚々といった雰囲気ではなく、どこか緊張感の漂う一席になっていた。

「いただきます」
「おあがりください」

モノトーンのローテーブルの上には、食欲をそそる香りを振りまく焼きたてのスコーンが鎮座している。ハニーナッツとチョコチップが混ぜ込まれていて、大変おいしそうではあるのだが、少々ばかり形が歪である。なにせ料理初心者のヒズミの手作りなので仕方がない。それくらいは大目に見てほしいところだ。

ジェノスがそのうちひとつを手に取って、一口かじる。もくもくと咀嚼するジェノスを、ヒズミは不安の色濃い眼差しで注視していた。それが死刑の宣告を待つ囚人のような悲愴感あふれる表情だったので、あまりにもいたたまれず──ジェノスはスコーンを飲み込んで開口一番「おいしい」と言った。

途端にヒズミは相好を崩し、肩の力を抜いた。

「はー、よかった。自分ひとりで作ったの初めてだったから、ちゃんとできてるかどうか心配だったんだよ」
「もっと自信を持っていいと思うが」
「いやあ、私すぐ調子に乗るから。あんまり褒められすぎるとダメだ……あ、お茶淹れてくるわ」
「あ、俺が──」
「今日はジェノスくんはお客さんだから。ロックフェスで迷惑かけたお礼なんだし。どうぞ寛いでてください」

そう言って、ヒズミはキッチンへ入っていった。スコーンの残りを味わいながら、ジェノスは「迷惑なんかじゃないとあれだけ言ったのに……」と憮然としつつ、手持ち無沙汰に彼女のプライヴェート・ルームを改めて観察した。

彼女がここに越してきた当初よりも、かなり物量が増している。テレビ、家庭用ゲーム機、文庫本、週刊少年漫画雑誌、映画のブルーレイ・ディスク──生活感が出てきた、とでもいうのだろうか。現在ヒズミは実質的には無職なのだが、例の事故によって失った親族や家屋に対する保険金と、ヒーロー協会(というより、ほとんどベルティーユ個人)から支払われている“異能力開発実験研究協力謝礼金”が定期的に入ってくるので、食って煙草ふかして暇を潰して寝るだけの生活にはまったく不自由していないようだ。

壁に掛けられたコルクボードが目に入った。深海王が襲来してきたあの日、シキミと大型ショッピングモールに行った際に購入したものらしい。何枚かの写真と、絵葉書が留められている。生まれたばかりと思しき赤ん坊を抱いた四十代半ばらしい夫婦、ヒーロー試験の合格通知を高らかに掲げている金髪の若い男、シキミがいつも着ているのとは違う制服に身を包んだ女子高生たちのプリクラ──いかにも若者らしい丸文字で“私たちは元気です!”や“ありがとう!”と書いてある──その他にも、いろいろ。

(……どういう繋がりだ? 知り合いか?)

まったく関連性の見受けられないそれらを訝っていたジェノスの前に、ふくよかな湯気を立ち上らせる紅茶のカップが置かれた。粗茶ですが、と嘯いて、ヒズミはさっきまで座っていた席に戻った。自身の分の紅茶を含んで、フローリングの固い床を撫でる。

「座布団も買わねーとだな」
「ああ」
「私はともかく、こういう来客のときには必要だよなあ」
「俺は別に気にしないが」
「来るのはジェノスくんだけじゃないだろ」

そうか、そうだな、ここに自分以外の誰かが居座ることもあるのだな──と考えて、ジェノスは己の内にどろっと黒いものが渦を巻いたのを感じた。男の嫉妬は見苦しい、と心中で叱咤したが、それでもやはり面白くはない。

「シキミちゃん、保護者さんと連絡つくまでしばらくこっちに泊まることになったんだろ? まさかサイタマ先生の家で寝させるわけにはいかねーし」
「……そうだな、それもそうだ」
「布団は私が前に先生んちで匿ってもらってたときに使ってたヤツがあるからいいとして……あとなんか必要なものあんのかな。オンナノコの必需品ってのがよくわからん」
「お前も女の子だろう」
「こんな化粧っ気のない干物と花の女子高生を一緒にしてやるなよ」

そう笑って、ヒズミはスコーンに手を伸ばした。満足そうに頷いている。

「うん、なかなかうまい。次回はもっと形を綺麗にできるように頑張ろう」
「それにしても、なぜ急に菓子作りなんか? ロックフェスの前に、シキミに教えてほしいと頼んだそうだが」
「あー、それは、なんつーか……」

項の辺りを掻いて、ジェノスから目を逸らすヒズミ。

「……この子といろいろあって女子力を上げようと思ったってのは、嘘じゃねーんだよな……」
「? なんだって?」
「なんでもねーよ。ただの気紛れ」

会話を打ち切って、ヒズミはスコーンを口に押し込んだ。紅茶で流し込んで、ふう、と息をつく。

「夕飯の買い出しも含めて、デパート行こうかな」
「そうか。俺も行く」
「……S級ヒーローって暇なの?」
「警察と医者とヒーローは暇な方がいいだろう」
「そりゃそうだ。ごもっとも」

一本取られた、というふうに、ヒズミは快活に笑った。ジェノスも少しだけ口元を綻ばせた。それは彼にしては珍しい、他意のない純粋な笑みだった。



そんなヒズミとジェノスがおやつを平らげ、デパートへ連れ立って出掛けていったのとすれ違いのタイミングで──シキミとサイタマはマンションへ帰還していた。これから不定期の宿泊をするにあたって、必要な荷物をシキミ宅へ取りに行っていたのだった。シキミはキャリーバッグを引いて転がし、サイタマは両手にそれぞれ中身の詰まったトートバッグと紙袋を提げている。

「すみません、持たせてしまって……」
「いいよ、気にすんな。でも結構これ重いな。なに入ってんの?」
「教科書とか、問題集とか、いろいろです」
「はあん。真面目だな」
「学校側からは“ヒーロー業があるだろうから夏期休暇の課題は免除してもいい”と言われていたんですけれど、学生の本分は勉強ですから、疎かにはできません」
「訂正。お前はクソ真面目だ」

ヒズミの部屋に寝泊りさせてもらう予定だったのだが、家主が不在だったため、一旦それらの荷物はサイタマの狭いリビングに運び込まれることになった。

「失礼しますっ!」
「しょっちゅう来てんだから、そんな挨拶いいよ」
「とんでもないです。礼儀は大事ですから」

本当にクソ真面目だな──と息を洩らして、サイタマはカバンその辺に置いといていいぞ、と適当に言った。シキミは「わかりました」と頷いて、キャリーバッグの車輪についた汚れを丁寧に落とし、邪魔にならないようリビングの隅に並べた。

「さて、ジェノスとヒズミは夕飯の買い出しに行ってんだろうから、メシの心配はいらないとして……どうすっかな」
「よろしければ、先生にいろいろとお話を……」
「お話?」
「強さの秘訣とかですっ!」

そういえばコイツも“弟子”なんだった──と、サイタマは今更そんなことを思い出した。ジェノスに指導をせっつかれていた頃の記憶が蘇る。手合せでも頼まれたらどうしようか。ジェノスはサイボーグなので、いくらこてんぱんにしてもパーツの換装が利くけれど、生身の──しかも女の子に、実戦訓練とはいえ拳を繰り出す気には到底なれない。

「あー、その前にだな、アレだよ」
「アレ……とは?」
「課題だよ課題。学生の本分は勉強なんだろ? ではまずその義務を果たしてからトレーニングのことを考えたまえ。ヒーローには知力も欠かせないのだよ」

苦し紛れにもっともらしいことを言ってみたら、シキミは引くほど素直に納得してくれた。テーブルお借りします! と一礼して、猛然と問題集にシャーペンを走らせ始める。

山ほど詰まれた課題の数々も、三日とかからず片付いてしまうのではなかろうか──というほどの勢いだった。

(……ジェノス、ヒズミ、頼む早く帰ってきてくれ)

祈るような気持ちでサイタマは腕を組み、眉間に皺を寄せて天井を仰ぐのだった。