Pretty Poison Pandemic | ナノ





「いやはや──私も長いこと地球上における生物のミステリと向き合って、その謎を解明するために腕と頭を酷使してきたけれど、今回のようなケースに直面したのは初めてだよ」

ベルティーユは苦笑混じりにそう言って、熱いマンデリンの入ったカップを傾けた。

アンティーク風のテーブルを囲むように四つ、一人掛け用のカウチ・ソファが置かれ、そこにそれぞれベルティーユ、サイタマ、ジェノス、そしてシキミが座している。

場所はヒーロー協会の本部、そのうち丸々ワンフロアを占領している彼女の研究室である。協会から宛がわれている、彼女個人のためのスペースだ。サイタマとシキミはその圧倒的な規模の大きさに面食らっていたようだったけれど、ジェノスは以前──ロックフェスに参加するにあたって“義肢”を借り受けるために、協会直属の病院内にある似たような部屋を訪れていたので、彼らほどの衝撃はないらしかった。それでもこんな最新鋭の機器が揃った実験施設を、雇用主である協会サイドにいくつも用意させてしまえるベルティーユの地位と名声には、改めて吃驚してしまう。

ちなみにジェノスのボディは、既に擬態用の義肢から普段の機械的なパーツに戻っている。交換作業が終わったのはつい先刻のことなのだが、やはりこちらの方が落ち着くな──と、内心ほっとしているのだった。

「警察や協会の発表によれば、今回の“ロックフェスで起こった集団昏睡騒動は、極度の興奮でトランス状態に陥った観客たちのヒステリーが連鎖したことによるもの”……とのことですが」
「そうとしか言いようがあるまい。君たちの論ずる“結界”とやらは、大衆向けに公開するにはややオカルト染みすぎている情報だからね。表沙汰になっているのは人々が昏倒したという件だけで、電波障害や空間の隔離、孤立については明るみに出ていないわけだから、不要な混乱を招いてしまうだけだろう。実際のところ、私も信じられないのだし」
「でも、本当なんです。嘘じゃありません」

言い募ろうとするシキミを、ベルティーユは軽く手を挙げて制した。疑っているわけじゃないのだよ、と前置きして、中指で眼鏡のブリッジに触れる。

「私は今回ずっと蚊帳の外だったからね……現場を目撃していないから、迂闊に肯定することができないのさ。医者であり学者であり研究者である立場の私としては、自分の目で観測した現象しか信用できない。それにその“結界”が本当に存在するのだとして、それでどうする? 今回の昏睡事件は結界という非現実的な技術によって引き起こされたもので、その詳細は協会の科学力では解明できないので今後の対策も練りようがありません、各自で気をつけてください、とでも報道するのかい? 世間を揺るがす大パニックと、ヒーローたちへの不信感を誘発するだけだと思うがね」
「それは、……そうですね」
「自然的な力学を超越した能力を持つ怪人の出現も確認されている昨今、既存の常識に捉われているようでは問題なのかも知れないがね……君たちの証言は相応に重く受け止めさせてもらうよ。ああ、そうそう──シキミがオーディエンスたちを眠らせて事態を収拾させたという事実については、協会は肯定的に受理している。大事になる前に片をつけて、その後の始末に手を出さず、主催者側に任せたということも含めて、的確な判断と処置だった──とね」
「ありがとうございます」
「下手に引っ掻き回されて痕跡を残されてしまっては、市民を納得させるための情報操作もしづらいからね。ブラックな裏事情さ。シキミ氏が“眠らせる”という行動に出たのも、そういった意味では功を奏したと言っていいだろう」

コーヒーで唇を湿らせて、ベルティーユは続ける。

「夢と現の境目を曖昧にして、事件そのものの記憶を──印象を希薄にできる。今回のトラブルのアンノウンでアンタッチャブルな部分を秘密裏に調査したい協会には好都合なはずだ。なんらかの次元干渉能力、もしくは心身操作能力を保持する怪人の仕業ではないかという見方が今のところは有力らしいが──まあ、それは我々の管轄外だ。差し当たっては、こういった怪奇的事案に明るいらしい“ヨーコさん”にお話を伺いたいところではあるのだが……連絡が取れないのだろう?」
「……はい」

そうなのだ──そうなのである。

あのロックフェスから一晩が明けて、現在ヨーコは行方不明になっているのだった。音沙汰がないのだった。サイタマと別れて、電車で自宅アパートまで帰って、眠って起きて朝になっても、ヨーコは戻ってきていなかった。どうにかまたヨーコと通信できないだろうかとペンダントのチャームをいじくってみたりもしたのだが、うんともすんとも言わなかった。

「一体どこでなにをしているのか……」
「心当たりはないのかい?」
「皆目見当もつきません。もともと放浪癖のある人で……ふらっといなくなったと思ったら、三日後くらいに手土産を持って帰ってきたりとか、しょっちゅうですし」
「そうかい。この私が言うのもなんだが、ヨーコさんもなかなか一風変わった御仁であったからね……彼女と連絡がついたら、不肖ベルティーユが“畏れながらご足労を平身低頭お願い致します”と申し上げていたと言伝を頼みたい」
「わかりました。伝えます」
「しかし、本当にどこでなにやってんだかな、あの人……謎が多すぎだろ」

サイタマが嘆息混じりに口を挟んできた。彼もまた、今回の事件でヨーコに振り回された一人である──無理もない。

「それにしても、シキミ。君は保護者不在で大丈夫なのかい?」
「え? ええ、普段から家事は自分でやってましたから、困ることはないですよ」
「しかしうら若き女子高生が誰もいないアパートにひとりぼっち、というのは倫理上よろしくないのではないかね。そうは思わないか? “先生”よ」
「あ? なんで俺に振るんだよ」
「いやだってサイタマ氏、いつぞや私が“自分は性癖に偏見のない人間である”と言ったとき、赤裸々に告白してくれたじゃないか──背が小さくて細すぎない肉付きで髪の黒い清楚系女子高生と住みたい、と。しばらく置いてあげればいいじゃないか」
「なんで一言一句たりとも間違えずに覚えてんだよ!!」
「ふっふっふ。天才を舐めてもらっては困る」

きらん、と眼鏡を光らせて、ベルティーユがにやりと笑う。

「せ、先生……そうだったんですか……」
「違う! そうじゃない! そういうアレじゃない! 断じて違う!」
「先生が望むなら……あたし……その……先生を満足させられるかどうかはわかりませんが……」
「うおおおおい待て待て待て飛躍しすぎだ!!」
「セーラー服をー! 脱ーがーさーないで! いやよだーめーよ! 我慢でーきーない!」
「オイやめろ歌うなエロ医者!!」
「ひ……貧相な体ですが……あの……あたし……先生が脱がしたいと仰るなら……あっ、でもうちの学校ブレザーです……セーラーじゃないです……先生がセーラー服お好きなら用意しますが……」
「お願いだからやめてえええええええええええ」

山の神を鎮めるための生贄に捧げられた村娘みたいな顔をしているシキミと、上擦った悲鳴を迸らせてのた打ち回るサイタマを、ベルティーユはさも愉快そうに、まるで必死に滑車を回しているのにちっとも前に進まず混乱しているハムスターを観察するような目で眺めている。

そこへ──ひょっこりと。

「なんか面白そうなことになってんじゃねーか」

眠そうな、気怠そうな顔でヒズミが顔を出した。

「ヒズミ」

真っ先に反応したのはジェノスだった。飼い主の帰宅を今か今かと待っていた室内犬のようだな、とベルティーユはますます口角を上げた。ぴんと耳を立てて、尻尾をぶんぶん振り回しているのが見えるようだ──と、まさか言葉には出さないけれど。

「おやおや、ヒズミ。もう検査はすべて終わったのかい? ご機嫌いかがかな」
「お陰様で異常なし、全快っス。お世話かけました」
「夜中に過換気症候群の発作が出たと聞いて気を揉んでいたのだが、その調子だと心配なさそうだね」
「すみませんでした。いろいろとご迷惑を……」
「とんでもない。君は私の患者だ。いつでも頼ってくれ」

力強くそう宣言するベルティーユに、シキミは神々しさのようなものすら感じた。セクハラめいた冗談ばかりを立て続けに連発されてイメージがやや悪い方向へ傾きかけていたのだが、それを一息に払拭してしまうほど、ヒズミに対するベルティーユの態度は真摯だった。

「ところで、今回は発作が収まるのがいつもより早かったようだが」
「え? ああ、ジェノスくんが介抱してくれたんで……」
「なるほどね。具体的には、どんな?」
「具体的に?」
「今後の治療の参考になるかも知れないからね」
「……こう……後ろから腕を回してもらって……落ち着くまで背中さすってくれて……そんで寝るまで手を握ってて……くれて……」

だんだんとヒズミの語尾が小さくなっていく。

「ほう? ベッドの上で後ろから抱きしめられて背中を撫でられて手を繋ぎながら一緒に寝たと」
「……その言い方には語弊があるような気が」
「そうなのかい? ジェノス氏」
「いえ、訂正すべき箇所は特にありません」

さらりと発言したジェノスを、ヒズミが驚きに目を見開いて凝視する。口がぱくぱくと動いて、どうやら“てめーなに言ってやがんだこの野郎”と声にならない罵倒を浴びせたらしかった。しかしジェノスはそんな彼女をきょとんと見つめている。

「? どうした、ヒズミ」
「いやお前どうしたじゃねーだろクソなにを馬鹿正直に」
「今後の診察の参考にしなければならないのに、嘘をついてどうする」
「いい子か!! お前いい子か!!」
「なにを馬鹿正直に──ということは、やはり私の言に間違いはなかったようだね、ヒズミ。いやあ、仲良きことは美しきかな。はっはっは」
「ううっ……」
「ふふふ、墓穴を掘ってしまったな」
「ホラもうこのひと墓穴とか言ってんじゃねーか! ハメる気満々じゃねーか!」
「おやおや、ハメるとかハメられるとか、とんだ下ネタが飛び出したね。私は顔から火が出そうだよ」

……シキミは既に“ベルティーユに神々しさすら感じた”という前言を撤回したい気持ちでいっぱいだった。

それでも、まあ、これは平和といえるのだろう。
ロックフェスも相当の乱痴気だったけれど、彼ら彼女らの織り成すこの日常もまた騒々しくて──とても穏やかに過ごせそうにはないな、とシキミは苦笑を漏らした。