Pretty Poison Pandemic | ナノ





この騒動の後始末はヒーロー協会の人間に一任しよう、というのが、サイタマとシキミが出した結論だった。正確にいうならサイタマがそう言い出して、シキミは「このまま放って帰るわけにはいかない」と返したのだが、残ったところで事態をうまく説明できるとは思えなかったので──結界などというトンデモ現象を信じてもらえるとは考え難かったので、シキミも渋々ながら撤退を了承したという形だった。

そういうわけで二人は会場の外でライブ帰りの客待ちをしていたタクシーを拾って、既にZ市へ戻ってきていた。シキミは電車で帰らなければならないので駅を目指していたのだが、道が混雑していたため、適当に近くで降ろしてもらっていた。

どうでもいい捕捉をすると、サイタマの手持ちでは運賃が足りなかったため、支払いはシキミが行った。ヒーロー協会の名前で領収書を切ったので、決してシキミの懐が痛んだわけではないのだけれど、それでも大人の男としてはなんとも情けない顛末であった。

「……本当によかったんでしょうか」
「あ? なにが?」
「お客さんたちをあのままにしてきてしまって……」

駅へ向かって大通りを歩きながら、シキミはまだ釈然としない様子だった。形のいい眉を八の字にして、気持ち肩もがっくりと落ちている。

「寝てるだけだし、なんとかなるって。後遺症も残らねーんだろ?」
「そういう調合にしましたから、それはそうなんですが……」
「だったらいいじゃねーか。俺らは俺らの仕事をきっちりしたわけだし、あとのことは然るべきところに任せとけばいいよ。ジェノスには勢いで“俺らがなんとかする”って言っちまったけど、まあ仕方ねーよな」
「……そうですね」
「お前の力がなきゃあんなことできなかったんだし。お前のお陰で事件は無事に解決したんだぜ? もっと堂々としとけよ」

無事に解決──したのかどうかは現時点ではまだ確定していないのだけれど、尊敬する“先生”にそんなありがたい言葉を直に賜って、嬉しくない道理がない。まったく単純だなあ、とシキミは自分自身にほとほと呆れてしまった。

そうこうしているうちに、二人は駅に到着した。終電までにはまだ時間があるので、比較的ターミナルは空いていた。

「それでは、私はこれで……ありがとうございました」
「おう。気をつけてな」
「先生も、お気をつけて」
「俺は別に気をつけることなんてねーけどな」

そんな冗談を言って、サイタマは笑った。しかしシキミは「ダメですよう」と口を尖らせて、

「確かに先生はお強くていらっしゃいますけど、どこに危険があるかわからないんですからねっ!」
「あー、はいはい。そうですね」
「物騒な世の中なんですからねっ!」
「そうですね」
「ヒーローは油断しちゃいけないんですっ!」
「そうですね」
「もー! いいともじゃないんですから!」

ぷーっと頬を膨らませて憤るシキミ。あざとい。あざとすぎる。なんかもうギャルゲーやってるみたいな気分になってくる。そのうち彼女の胸元あたりに“このまま見送る”と“うまく言いくるめて連れて帰る”の選択肢テロップが出てくるんじゃないだろうか。後者を選ばない自信がない。うっかりバーチャルにかまけて過ちを犯してしまいそうになる。

これは現実なのでそんなことは有り得ないのだけれど、そもそもさすがに女子高生に本気になってはいないのだけれど、こうも純真にひっつかれては、なんというか、こう……とかなんとか煩悩と必死に戦っているサイタマを後目に、シキミは駅の構内の雑踏へ紛れていった。

「……お前がいっちゃん強敵だよ」

誰にともなく溜息混じりに呟いて。
サイタマもまた、夜半の帰路についたのだった。



……猛烈に頭が痛い。

悪い夢を見ている。
いつも繰り返し苛まれている、悪い夢。
瓦礫の山の中を、必死に逃げていた。なにが追ってきているのかもわからず、ただ恐怖に駆られて闇雲に走っていた。すぐ背後まで迫っている、恐ろしい気配。

いやだ、やめて。
こっちに来ないで。
ここから出して。

叫びたいのに、恐怖のあまりそれもできない。

走って、走って、出口を探しても見つからない。

どうして。
ああ、誰か。
誰かいないのか。

誰か、誰か、誰か、誰か──
誰か──助けて!

「…………………………」

そして目が覚めた。
心臓が狂ったように早鐘を打っていて、呼吸が苦しい。息ができない。しかしこの感覚にも慣れてしまった──ああ、いつもの発作だ、とパニックに陥った脳でもすぐに判断できるくらいに。

焼かれるような恐怖を抑え込んで、神経を研ぎ澄ませて、肉体のコントロールを正常に戻そうと試みる。自分しかいない。自分しかいないのだから、自分がなんとかしなければ、そう、ここには自分しかいないのだから──

「ヒズミ、どうした、大丈夫か」

すぐ側から声がした。驚いて振り返る。ジェノスがいた。

どうして──と混乱するヒズミを余所に、ジェノスはあらかじめ用意してあったらしい紙袋を彼女の口元へ持っていった。腕が痙攣を起こしてうまく紙袋を固定できずにいるヒズミの代わりに右手で支えてやる。後ろから抱きすくめるようにして、空いた左手で背中をさすりながら、ヒズミの過呼吸が収まるのを待った。

「は、っあ、うあ……ぐ、ぅ」

腹の底からせり上がる嘔吐感に体を曲げる。どうにか堪えようとしたが間に合わず、紙袋のなかに胃の中身を戻してしまった。逆流する酸で喉が焼ける。この不快感にもすっかり慣れてしまった。何度となく噎せ返りながら、ひとしきり吐いたヒズミが前のめりに倒れ込みそうになるのを押さえて、ジェノスが口を開いた。

「……ヒズミ」
「は、っあ、ジェノスく……」

紙袋の口を縛ってから脇のダスト・ボックスに放って、ヒズミをゆっくりベッドに寝かせる。冷えたミネラルウォーターでも飲ませて落ち着かせよう、確か冷蔵庫に入っていたはずだ、と腰を上げかけたジェノスの手首を、ヒズミの腕が持ち上がって弱々しく握った。縋りつくように。

離れないで、と不安がる幼い子供のように。

「ジェノスくん、ジェノスくん、ジェノスくん……」
「大丈夫だ、冷蔵庫に水を──」
「やだ、いやだ、いらないから、大丈夫だから、行かないで、ジェノスくん、ここにいて、行かないで、お願い、行かないで……」
「ヒズミ」

そのままヒズミは意識を失ったようだった。あの奇怪な“結界”の影響なのだろうか、衰弱が激しい。

ヒズミをここ──ロックフェス会場から近いベルティーユの別宅に急いで連れてきて、待機していた彼女に診察してもらったのだが、いわく“極限の疲労状態にあるだけだから、眠って体力を回復すれば治る”とのことだったので、こうしてそのまま部屋を借りて泊まらせてもらっている。ベルティーユ本人は多忙の身なので、一件の落着を見届けてから自身の研究室へ帰っていった。

「……大丈夫だ」

生気のない顔色で眠るヒズミの額を撫でる。人肌を模した指先で、優しく前髪を払う。どこまでも作り物で、紛い物の温もりだけれど──その奥底にある想いに嘘偽りはない。

「ここにいる」

この情は彼女にちゃんと伝わっているだろうか。

滔々と、更けていく夜。
ジェノスは目を閉じて、いまだ自分の腕を掴んで離さないヒズミの手に自らのそれをそっと重ねた。



そこは露ほどの灯りもない、まさに暗黒の空間だった。

一縷の光もなければ、一切の音もないその闇の中に、融け込むようにして──ヨーコはひとり佇んでいる。

「どうやら、愛娘はうまくやったようじゃのう」

誰にともなく呟いた声。
当然ながら、返ってくる言葉はない。

彼女の足元の床には、一枚の紙が落ちている──という表現は正確でないだろう。無造作に打ち捨てられているのではなく、そこを定位置として、固定されていたのだから。

その紙は縦長の長方形で、まるで札のようで、表面にはびっしりと解読の困難な記号が書き込まれている。ヨーコが己の鉄扇や煙管、はたまたパイプ椅子やパンフレットの余白に記したのと似た、文字とも文様ともつかない、得てして不可思議な図式が著されている。

「小癪な真似をしてくれる」

その札を、ヨーコはビーチサンダルで踏みつけた。踏み躙った。すると唐突に──札が一気に燃え上がった。

純度が高いことを示す青い炎が勢いよく噴き出して、黒一色だった世界に明度をもたらした。その炎はヨーコにも床にも燃え移ることなく、札だけを灰にして、跡形もなくこの世から消滅させて──そして消えた。

「……貴様らに、あの子は渡さんよ」

再びヨーコは独白する。
返ってくる言葉はない。

「あの子は儂が守らなければならぬ。そういう“約束”じゃからの」

しかし──耳に痛いほどの、この静寂は。

それを聞く者がいないという事実とイコールではないのだった。

「邪魔立てするなら、容赦はせん。闇討でも戦争でも、好きに仕掛けてくるがよい。そのときは──」

返ってくる言葉はない。
しかし構わず、ヨーコは続ける。

「一族郎党、残らず儂が祟ってくれようぞ」