Pretty Poison Pandemic | ナノ





「めーでー、めーでー。応答せよ」

通路を風のように疾走していたシキミとサイタマの耳に、気の抜けた声が飛び込んできた。速度を緩めて辺りを見回すが、それらしい人影はない。二人が顔を見合わせて“?”マークを浮かべた、まさにその瞬間──シキミが首から下げていたペンダントが、ひとりでに踊り出した。

「うおおおっ!? なんだ!?」

仰天して、サイタマは腕いっぱいに抱えていたものを取り落しそうになった。

「おお、その声はサイタマ殿じゃな。儂じゃ、ヨーコじゃ」
「ヨ……ヨーコさん!? どこから……」
「こんなこともあろうかと、お主の首輪にあらかじめ“しるし”をつけておいたのじゃよ、シキミ」
「娘がお洒落でつけてるアクセサリーを首輪ってどうなんだよ。ネックレスとか言えよ」
「先生、突っ込むところはそこじゃないです」

鎖の先端についているチャームを引っ繰り返してみると、確かにそこにはヨーコの言うように“しるし”があった。独特な模様が浮かび上がって、ちかちかと明滅を繰り返している。

「閑話休題じゃ。そちらの戦果は如何かの。なにか進展はあったかえ」
「進展……かどうかはわかりませんが、アイデアがひとつ」
「ほう? 言うてみよ」

さっきサイタマに話した“打開策”を、シキミはヨーコにも一から懇切丁寧に説明した。それを聞いたヨーコがなにやら考え込む気配が伝わってきて、そして「ふうむ。よいのではないか」と返ってきた。

「儂はお主の提案を推すぞ」
「でも、確信がないんです……本当にこれで事態を解決できるのかどうか……。もし失敗に終われば、結果として罪のないお客さんたちを傷つけてしまうだけになりかねません」
「不可抗力なのではないか? そもそも観客席の民草は、どのみちもうだいぶ衰弱してしまっておるであろ。被害は大して変わらんと思うがの」

さらりととんでもないことを言うヨーコだった。二の句を継げずにシキミが口をもごもごさせていると、

「それに──どうも怪しいと思っておったのじゃ」
「怪しい? なにがですか?」
「この結界が、じゃよ。さっきから気の流れを探っておるのじゃが、どうにも不明瞭での。しっかりと掴むことができんのじゃ。仮にも儂が全力で追っておるというのに、こんなことは有り得ん……というほどではないけんども、普通の結界ではないことは確かじゃろうのう」

こんな超常現象に普通もへったくれもあったものか、と思わないでもなかったけれど、サイタマは黙ってヨーコの言葉に耳を傾けていた。

「というわけじゃ。お主は急いで作戦を実行しにゆくとよい」
「ヨーコさんは……」
「すまぬが、儂には儂の仕事があるでの。合流はできん」
「わかりました。それでは」
「うむ。健闘を祈る」

チャームの裏の奇妙な点滅が、まるで“通話終了”を示すかのように止んだ。シキミとサイタマは顔を見合わせてしばらくぽかんとしていたが、すぐに再び走り出した。通路を駆け抜けて、目的地──ステージへ辿り着いた。

舞台袖に撤収されたまま放置されていたアンプやドラムセットを押し退けながら檀上に登って、シキミは改めて観客席をぐるりと見渡した。地平まで続く人の波。昼間にここへ立った時とは明らかに異なる違和感がそこには蔓延していた。

誰もが揃って疲弊の色濃い虚ろな目をしているのに、それでも視線はステージに釘付けになっている。突如として現れたシキミとサイタマに、まるで“やっと次のライブが始まるのか”といわんばかりの、熱に浮かされた待望の眼差しを向けている。なにかに取り憑かれているかのような──その異様な執念に、シキミは足がすくんで動けなくなってしまう。

「大丈夫だって」

かたかた震えるシキミの肩を、サイタマが軽く叩いた。

「心配すんな。なんとかなる」
「先生……」
「きっちりヒーローの仕事しようぜ」
「……はいっ!」

力強く頷いたシキミに、サイタマは満足そうに口を斜めにして、抱えていた“それ”を──観覧ブロックに向けて構えた。

倉庫から持ち出してきた──バズーカを。

アイドルグループがパフォーマンスの一環として使っていた、レプリカながら相当の射出力を誇るその巨大な砲口から、ゴムのボールが撃ち放たれた。

それもアイドルグループがパフォーマンスの一環として使っていたものだった──が、それとは異なる点がひとつだけあった。フェスのロゴがプリントされている部分に、ガムテープが貼られていたのだ。なにかを隠すように──穴を塞ぐかのように。

勢いよく夜天の空を裂いていくボールに、今度はシキミが照準を合わせる。

ちょうどシャツの裾の陰、ベルトに差していた拳銃を素早く引き抜いて、そして引鉄を絞る──弾丸は寸分の狂いもなくボールに直撃し、空中で破裂させることに成功した。

そして割れたボールから、なにか液体のようなものがぶち撒かれた。無色透明の、傍目には水道水となんら変わりないそれはあっという間に霧散して、空気中に拡散して、地上にいるオーディエンスたちに、霧雨のように降り注いだ。何事かと頭上を見上げていた彼らは、なんの疑いもなくその液体を呼吸によって体内に取り入れて──ばたばたとその場に倒れていった。

最前ブロックにひしめいていた群衆は。
かくして全員、仲良く再起不能となった。

「マジか…………」

撃った張本人であるサイタマがドン引きするほどの“効力”であった。

「一瞬じゃねーか……」
「これでもだいぶ薄めたんですよ」

拳銃のスライドを引いて次弾の発射準備を淡々と整えながら、シキミが言う。

あのゴムボールに内包されていたのは、シキミが用意した“睡眠薬”だった。不眠症の患者に処方したり、手術の麻酔に適用するようなレヴェルのものではない。それより何百倍も効き目の強い劇薬である。それを観客たちに、強引に吸引させた──眠らせたのだ。

こんな恐ろしい薬品をいくつも持ち歩き、しかも移動しながらさっさと調合してしまうのだから、この女子高生──まったくもって、常識外れとしか言いようがない。

しかも彼女が現在その手に握っているのは、特別製の愛銃“ヴェノム”ではない。あれよりも一回り小さくはあるけれど、それでも華奢なシキミには不似合いな代物──旧時代の戦争中に開発されたダブル・アクションの、超速フルオート連射さえ可能とする“スチェッキン・マシン・ピストル”である。紛れもなく、持っているだけで法律に違反する本物の拳銃だ。余談ではあるが、無論A級ヒーローであるシキミには特例で銃火器の携行許可が下りている。

「今後コイツ怒らせないようにしよう……」
「先生、次、お願いします」

シキミに促され、サイタマは再度、ボールを打ち上げた。一発目よりも遠くへ──後列のブロックを狙って飛ばした。それにまたシキミが絶妙なタイミングとコントロールで穴を空ける。それを幾度も繰り返して、次々と観客たちを夢の中へ導いていく。

(この結界のエネルギー源が、他でもない“会場にいる観客やスタッフたちの生命力”なのだとしたら──強引に眠らせて、意識を途切れさせて、その供給を止めてしまえばいい!)

それがシキミの閃いた“打開策”だった。
果たして吉と出るか、凶と出るか。
つついた藪から現れるのは蛇か、鬼か、はたまた──



その一連の所業は、関係者席ブロックのジェノスにもよく見えていた。サイタマが撃って、シキミが更に撃って、人々がどんどん倒れていく。なんらかの薬品──催眠剤の類を撒いているのだということは、風に乗って流れてきた刺激臭でジェノスにもわかっていた。体がサイボーグでなかったら、自分も一瞬で“落ちて”いただろう。ヒズミの体内にその得体の知れない劇物が入らないよう、首に下げていたタオルを口元に巻いてやる。隣で寝ていたツルコとヒメノもちょうど同じタオルを持っていたので、同じようにした。

「……なにをしているんだ?」

この騒ぎにおいて、ジェノスは常に蚊帳の外だった──なにが起きているのか、皆目見当すらつかない。ヒズミがいきなり倒れたと思ったら“結界”とかいうわけのわからない現象のせいだと言われ、事態を飲み込めずにいるうちにサイタマとシキミとヨーコが果敢に危機へ立ち向かっていき、あれよあれよという間に自分は留守番役になっていた。

情けないS級ヒーローもいたものである。
つい自虐的になってしまう。

そんな韜晦に浸っているうちに、辺りを覆っていた“霧”に変化が顕れた。

向こう側が見渡せないほど濁っていた白色が、みるみる薄らいでいく。夜空を刳り抜いたように穴を空けている月が覗いて、瞬く星まで見えるようになって、ジェノスの携帯が鳴った。電波が復活していた。

「お、繋がった。成功したっぽいな」
「先生! これは一体──」
「詳しい説明はあとだ。電話が繋がってるっつーことは、たぶん外にも出られると思う。近くに教授いてくれてんだろ? ヒズミ連れていって、診てもらってこい」
「しかし──」
「いいからいいから。後始末は俺らでなんとかする。これからとりあえずそっち戻るから、そこで寝てる女子高生ふたりはそのまま置いといていいぞ」
「……すみません。感謝します」

通話を切って、ジェノスはヒズミをゆっくり抱き上げ、そして一目散に走り出した。相も変わらず状況は一から十まで、ピンからキリまで把握できていなかったけれど、納得できていなかったけれど──それでも霧は晴れたのだ。



こうして、真夏の一大祭典“ヒーローズ・ロック・フェスティバル”は、大混乱で大波乱で大狂乱のなか、ひっそりとその幕を下ろした。この事件は明日以降メディアによって「史上最大の集団ヒステリー」としてお茶の間やネット掲示板を騒がせることになるのだが、その真相を知る者はごくごく少数、限られた者のみなのだった。