Pretty Poison Pandemic | ナノ





それからの変化は劇的だった。
まるで坂を転がる石のように。

観衆たちの中に、遂に力尽きてその場に座り込んでしまう者が現れたのだ。慌てて駆けつけたスタッフがその対応に追われている。マニュアル通りにてきぱきと処置を施そうとするが、なにせ数が多すぎる──サイタマの素人目に見ても、まったく間に合っていなかった。確か救護室はエリアの外にあったので、そこへ運び込むこともできないはずだ。恐らく関係者のうちの何人かは既に勘付いているのだろう──自分たちが外へ出られなくなっているという現状に。

小規模なパニックが起きつつあった。
騒ぎが拡大する前に、なんとかしなければ──

「いよいよまずいことになったな」
「先生……どうしましょう」
「……どうしましょうつったってな……」

訳知りらしいヨーコが言うには、打開策はふたつ。

結界の心臓部である核を破壊するか。
術者を再起不能状態にするか。

言葉にしてしまえばそれはひどく単純明快で簡単なことのように思えるが、これだけ広大な土地で、しかも容疑者は何万という人数である。この中から犯人をあっさり見つけ出せるとは思えない。

「それにじゃな」
「それに?」
「核にしても術者にしても、おいそれと結界の内側にあるとは限らん。すべて外側から支配されておるのだとしたら、閉じ込められておる我々はもうお手上げじゃ」
「そんな……!」

シキミが絶望に染まった目を瞠る。
そこへ──ヒズミを抱えたジェノスが走ってきた。相当に焦っているらしいことが表情から読み取れた。冷静さを失った、切羽詰まった様子で、サイタマたちのもとへ駆け寄ってくる。

「先生……ご無事で! シキミも」
「おう。お前も大丈夫そうだな」
「あたしも平気ですが……ヒズミさん、まさか──」
「急に倒れたんだ。スタッフは他の急病人で手一杯らしく捕まらなかったから、教授に連絡を取って迎えを呼ぼうかと思ったのだが、携帯が繋がらなくなっていた」

空いていた椅子を集めてくっつけて、そこにヒズミを寝かせた。もうほとんど意識がないようで、薄く目が開いてはいるものの焦点はどこにも合っていない。この状況下では変装もへったくれもないので、ジェノスは彼女の帽子をそっと脱がせた。汗ばんだ額に前髪が張りついていて、事態の深刻さを否が応にも突きつけてくる。

「……これ、やばいんじゃねーの?」
「俺が外まで走って、教授を直接呼んできます。念のために会場の近くの別宅で待機してくれているそうですので──」
「それは無理じゃ」
「なに? どういう意味だ」

謎めいた黒髪の、初対面であるはずなのに妙にふてぶてしく接してくる女性に、ジェノスは険しい視線を刺した。シキミがそこに割って入って、ジェノスに詳しく説明する──彼女が自分の保護者で、サイタマとはもともと面識があったこと。この霧は結界と呼ばれる妖術で、その常軌を逸した力によって外に出られないこと。それを破壊する術がふたつだけ存在すること。しかしそれは現状ほぼ不可能に近いこと。しかし早急に手を打たねば、大勢の一般市民の生命が失われるかも知れないこと。

「……それでつまり、俺たちはどうすればいいんだ」
「今のところは、打つ手なしです」
「そんな──なにか方法はないのか! このままではヒズミが……」
「落ち着け、ジェノス。シキミに怒鳴ったって仕方ねーだろ」
「……すみません」

サイタマに咎められ、ジェノスは俯いて唇を噛んだ。

「怪人とか悪の組織とかとは数えきれねーほど戦ってきたけど、こういうオカルトには遭ったことねーからなあ……ただぶん殴って済むだけの話なら、どうにでもできんだけど」
「……あたし、裏方を覗いてきます」

シキミがそう進言した。

「もし結界の核が内側にあるんだとしたら、犯人はそれを隠そうとするはずです。人目につかないところに、一般客が立ち入れないようなところに置いて、見つからないようにするはずです。それなら限られた人間しか出入りできない場所……ステージ裏が都合いいと思うんです」
「ふうむ。それは一理あるのう」
「犯人がその核を持ち歩いているという可能性は?」
「それはないじゃろう」

ジェノスの指摘を、ヨーコがしれっと一蹴する。

「これだけの規模の結界じゃ。術者が何人であろうと、どれほど優れておろうと、結界を構成する心臓部を無闇に動かすような真似をしては、通力の流れが“ブレる”のじゃ。それは結界の効果が弱まることを意味する。そんな馬鹿なことを、儂ならば絶対にせんぞ」
「その核とやらはどういう形状をしているんだ? それとわかる特徴はあるのか?」
「いんや、術式は無限にあるでの……格闘技の流派のように、こういった妖術の法も無数に枝分かれしておるのじゃ。わかりやすく魔方陣の描かれた札が貼ってあるやも知れぬし、なんの変哲もない機材にほんのわずか細工がしてある程度やも知れぬ」
「わかりました。怪しいものは片っ端からぶっ壊しますっ!」
「……我が娘ながら、なかなかどうして“ばいおれんす”じゃのう」

しかし、それしか方法はないかの──と言って、ヨーコは喧嘩煙管をくわえた。

「儂も動くとしよう」
「俺も行くぞ」
「では、サイタマ殿はシキミについてやってくれんさい」
「ヨーコさん、あんたは……」
「儂の場合は一人の方が動きやすいでの。心配は要らぬ」
「先生、俺も一緒に」
「いやお前はヒズミの側にいてやれよ。置いてく気かよ」
「……わかりました」

渋々ながら首を縦に振ったジェノスに背を向けて、サイタマとジェノスはステージ裏へ走った。ラスト・ライブが終了してからもう十分が経過しようとしているが、壇上に誰かが上がってくる気配はない。予定では出演者たちが全員集合してなんらかのパフォーマンスを行う手筈だったらしいのだが、その前触れもない。これまでアーティストの紹介や演目の案内を流していたステージ脇の巨大モニターにも変化は見られず、ただ延々とロックフェスのアイキャッチを映しているばかりで、すっかり沈黙している。

「……ふうむ、それにしても、お主」
「? 俺がなにか?」

ヒズミの傍らに膝をついていたジェノスと目線を合わせるように、ヨーコが屈み込んだ。じっと真っすぐに、いっそ無遠慮なほど顔をしげしげと見つめられ、さすがのジェノスもたじろいでしまう。

「お主の“気”は、どうにも妙じゃのう」
「気……?」
「現代風に言い換えるならば“オーラ”といったところか。生き物には皆そういった、生命力の波動のようなものがあるのじゃ。肉体の持つ潜在能力とでもいうのかの。お主のそれが、少しばかり不可思議でのう。明らかに人間のものではないし、かといって怪人と呼ばれる類の異形のものでもないし、儂が今までに見たことのない色をしておる」
「……俺がサイボーグだからだろう」
「さいぼーぐ?」

目を丸くしたヨーコに、ジェノスはTシャツを捲って見せた。胸のあたりまでは肌色の人工皮膚が覆っているが、その下から腹部にかけては黒光りする金属のボディが剥き出しになっていた。

「人体改造をしたんだ。もとは普通の人間だったが、現在この体の大部分は機械で構成されている」
「ほう、なるほどなるほど。合点が行った」

感心したように腕をこまねくヨーコに、しかしジェノスは懐疑的な姿勢を崩さない。偽装用のパーツを纏っている自分の正体を見抜いたのも、どうしても胡散臭かった。サイタマかシキミが事前にサイボーグであることを伝えていた可能性もある。

それに──

「……妙だというなら、お前の生体反応もだ」
「はてさて?」
「俺の体内には、生物の体温や体積、内臓エネルギー指数に反応するセンサーが埋め込まれている。怪人が人間や無機物などに擬態していても、すぐわかるようになっている」
「……ほう」
「敵意は感じないし、先生もお前を信頼しているようだから、手荒な真似はしないが……お前の生体反応は普通じゃない。一体お前は何者なんだ?」

ジェノスのド直球な追及に。
ヨーコは、にやり、と口角を吊り上げた。

「儂はしがないヨーコさんじゃよ」
「とぼけるつもりか?」
「悪いヨーコさんではないゆえ。堪忍してくれんか、絡繰りの少年よ」
「……少年というような年齢じゃない」
「おお、それは悪うござんした。儂のような年長者からすれば、シキミもお主もサイタマ殿もそちらに寝ておるお嬢さんも、似たように稚児みたいなものであるからして──」

言葉が途中で止まった。ヒズミに視線を移しかけたヨーコの顔つきが、それまでの牧歌的だった雰囲気から一変して、厳しく硬いものになった。

「……これはちとまずいのう」
「なに? ヒズミがどうかしたのか?」
「気が弱まっておる。どうやら彼女は瘴気に対して耐性が薄いようじゃ」

ジェノスもヒズミを窺って、その容体が先ほどよりもずっと悪くなっていることに気づく。土気色の顔に生気は欠片も感じられない。薄く開いた唇は異様なほどの紫に変わりつつあった。

「なっ──ヒズミ!? しっかりしろ、ヒズミ!」
「落ち着きんさい。大声は出さん方がよろしい」
「そんな悠長に構えている場合じゃないだろう!」
「絡繰りの少年よ、お主、なにか紙を持っておらんか」
「は?」
「文字を書けるものなら、なんでもよい。手元にないか」

少年という呼称を訂正する余裕もなく、ジェノスはポケットに捻じ込んでいたパンフレットを取り出した。無理矢理に捻じ込んでいたせいでくちゃくちゃに折れ曲がってしまっていたが、ヨーコはそれを受け取って、余白に筆ペンでなにやら奇怪な記号をすらすらと記していく。

それをヒズミの額に、ぺちん、と押しつけた。

「即席の“札”じゃが、これで当分は保つじゃろう」
「な……お前、どういう──」
「ともあれ、お主の言う通り、悠長に構えている場合ではないな。儂も腰を上げるとしよう……蛇の道は蛇じゃ。サイタマ殿とシキミばかりに任せておくわけにはゆかぬ。では絡繰りの少年よ、このお嬢さんをよろしく頼むぞえ」

ヨーコが今なにをしたのかちっとも理解が及ばず、ジェノスはひたすら混乱している。しかしどういう理屈なのか、ヒズミの顔にみるみる赤みが戻っていくのを確かに見て──ぎょっとした。
苦悶が薄らいで、呼吸も穏やかになっていく。

(これは──この“札”が……?)

ジェノスが驚いて頭を上げたときには、既にヨーコの姿は消えていた。跡形もなく、さっきまでそこに人がいたとは信じられないほどの唐突さで、忽然といなくなっていた。乳白色に濁った霧だけが、周囲をゆっくりと流れていくばかりで──ジェノスは狐につままれたような気分で、しばらくの間ただ呆然とするほかなかった。