Pretty Poison Pandemic | ナノ





この不可思議な霧からの“脱出”を一旦すっぱり諦めて、サイタマとシキミは関係者ブロックに戻ることにした。手を変え品を変え、何度トライしてみても、すべて無駄に終わってしまったのだ。これ以上どう足掻いても希望的な進展はなさそうであったし、一般人であるツルコとヒメノにも事態を説明して用心を促さねば──という判断だった。

しかし──その必要がないことを、すぐさま思い知ることになる。

白く霞がかったシキミの視界に飛び込んできたのは、ぐったりと地面に倒れて動かないツルコとヒメノの姿だったのだから。

「ツルコ!? ヒメノ!?」

血相を変えてシキミが二人のもとへ駆け寄る。
サイタマも慌ててそのあとに続いた。

「ちょ、ちょっと──やだ、なにが……なにがあったの!? ねえ! ツルコ! ヒメノ!」

抱き起こして激しく揺さぶってみても、反応は皆無だった。閉じた目が開くことはなく、苦悶のない穏やかな表情で、力なく腕を垂らして、口を半開きにして、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返していて──

「…………あれ?」

念のために二人の脈も計ってみたが、至って正常だった。異常は見られなかった。

どうやら。
ただ眠っているだけのようだ。

シキミは安堵にほっと胸を撫で下ろして、後ろに立って様子を窺っていたサイタマに向き直った。

「大丈夫です。寝てるだけみたいで……うえっ!?」
「え!? なに!? 今度はなに!?」
「ヨ……ヨーコさん!?」

予想だにしていなかった名前がシキミの口から飛び出てきた。サイタマも驚いて背後を振り返る。リハーサルのときに会ったのと同じラフな格好で、ヨーコがまるで幽霊のように至近距離に立っていた。

「どわあっ! びっくりした!」
「いや、相や暫く。ご無沙汰じゃの」
「なんであんたはいっつもそういうコソコソした登場しかできねーんだ! 勘弁してくれ! 心臓に悪い!」
「そうは言われてものう。儂はヨーコさんじゃから」
「はあ?」
「ヒトを脅かすのが性分であるゆえ」

しれっと言って、ヨーコは鉄扇をぱたぱたとはためかせている。反省も後悔も期待できない態度だった。

「そんなことよりも、サイタマ殿。そこで寝ておるお嬢さん方をどうにかしてやってくれんさい。若く美しい娘子が泥だらけではみっともないであろ。嫁入りもまだであるというに」
「……ていうか、こいつらなんでこんなところで爆睡してんだ?」
「儂の仕業じゃよ。ちと眠ってもらった」

自分がやったことに対して“仕業”というのは果たして正しい日本語の使い方なのだろうか、とサイタマは疑問だったが、そんな重箱の隅をつつくような真似をしている場合ではない。ツルコとヒメノの体を抱えて持ち上げて、シキミの手も借りながら椅子に座らせた。

「ヨーコさん、なんでこんな……」
「儂だって愛娘の学友にこのような狼藉を働くのは気が進まんかったが、厄介なことになりそうじゃったでの。贅沢は言っておれんかったのじゃ」
「厄介なこと……?」
「お主らも気づいておるじゃろ? この“霧”に」
「……はい」

シキミが眉根を寄せた。そしてヨーコに、先程ゲートから外に出ようとしたらいつの間にか元の場所に戻されていたこと、従って外に出られなくなってしまったこと──閉じ込められてしまったことを説明した。一通りの事情を聞いたヨーコは顎に手を当てて、ふうむ、と唸った。

「これは一体どういうことじゃろうかのう」
「こっちが聞きてースよ」
「まあ、大凡の予想はつくがの」
「え!? ヨーコさん、本当ですか!?」
「伊達に長生きはしておらん」

飄々と嘯いて、ヨーコは腰に巻いているポーチからなにかを取り出した。

それは筆ペンだった。百均やコンビニで売られている、なんの変哲もない量産品の筆記用具──そのキャップを外して、傍らに鎮座していたパイプ椅子になにやら書き込み始める。じっくり三十秒ほどかけて複雑な模様を描いて、立派な芸術作品に仕上がったところで、異変が起きた。

椅子がひとりでに動き出したのである。
誰も手を触れていないのに、がたがたと揺れ出した。

「えええ!?」

驚愕しているサイタマを後目に、そのポルターガイスト現象は大きくなっていく。金属同士がぶつかるような音を立てながら、まるで羽ばたくように開閉を繰り返したかと思うと──実際に、ふわり、と宙に浮き上がったのだ。

「えええええええええっ!?」

サイタマの叫び声など意にも介さず、椅子は直角に上昇していく。ぐんぐん高度を増していって、空を覆う霧のなかへフェードアウトしていって、そして唐突に燃え上がった。不透明な白の中に鮮烈な赤が一瞬だけ浮かんで、そして消えた。刹那のうちに灰になって、かつてパイプ椅子だった残骸の屑がぱらぱらと地上に降ってきた。

「な、なんだ今の……」
「ふうむ──やはり急拵えの式神ではこんなものか」
「しきがみ? え? なにそれ?」
「どうやらこの霧は“結界”のようじゃ」

疑問符を浮かべまくっているサイタマを鮮やかにスルーして、ヨーコはそう述べた。シキミが小首を傾げて訊ねる。

「結界……、ですか?」
「うむ。言葉を聞いたことくらいはあるであろ? 領域を区分けして内と外を──聖と俗を切り離す概念のことじゃ。端境と呼ぶこともある」
「包囲! 定礎! 結! 滅! っていうアレのこと?」
「そういえば、そんな漫画もあったのう。サイタマ殿は漫画が好きか。儂も好きじゃよ。あれは少年ジャンプであったか? いや、他の週刊誌であったかな……まあよい。認識として間違ってはおらん。ああいった、空間を限定して操る能力……というよりは、技術じゃな。現代においては、それらを総合して“結界”という」

広義的にいうならば、飲食店の軒先に掲げられた暖簾なども“結界”の一種である。往来と店内を仕切り、区切り、境界を示して別世界を作り上げる──

「その“結界”が、この霧ってことか」
「然様。そう考えるのが妥当であろうな……外界との断絶。式神に対する拒絶の強さを見るに、相当の通力が込められたものであるはずじゃ。恐らく電波なども通らんじゃろ」

シキミがポケットにしまっていた自前のスマートフォンを祈るような気持ちで確認した。圏外だった。

「日常生活に於いても、結界が自然に発生することはある。たまにおるじゃろ、妙に近寄りがたいというか、見えない壁を感じさせる者が。あれも小規模ではあるが結界の一種じゃ。心から生じた拒絶反応が、本人すら与り知らぬうちに不可視の防御陣を形成してしまっておるのじゃよ」
「……それにしても、これは……」
「ああ──これはその範疇を完全に超えてしまっておる。この霧は明らかに誰かが、なんらかの意図でもって、人為的に発生させている結界じゃ。術者が個人なのか集団なのか、どういうつもりでやっとるのかもわからんがの」
「解除はできねーのか?」

サイタマの問いに、ヨーコは人差し指と中指を立てて突きつけた。陽気にVサイン──というわけでは、勿論ない。

「方法はふたつある。ひとつは“結界の心臓部である核を壊す”こと。これだけの結界じゃ。どこかにそのエネルギー源──通力を供給している媒体がどこかにあると見て間違いない。それを潰せば結界は自ずと消滅する。もうひとつは“術者を結界が維持できなくなる状態にする”こと。話し合って和解して平和的に止めさせるもよし、直接的な手段で再起不能にするもよし……前者はまあ期待できんであろうから、この選択肢を選ぶのであれば、必然的に後者になるかの」
「要するに犯人を見つけ出してボコボコにしてやめさせりゃいいんだな?」
「それができるのであれば、の話じゃがの」

ヨーコはおどけるように肩をすくめてみせた。

「ここにはどれだけの人間がおる? 客は数万を超えておるのじゃろ? それだけではない。この祭りを取り仕切るスタッフ、参加アーティスト……それら全員ひとりひとりと接触して術者を探すのか? 何人おるのかも定かでないのに? 気の遠くなる話じゃな。夜が明けてしまうぞえ」
「それはそうだけどよ……」
「でも、それ以外に方法はないんでしょう!? この事態がバレたらパニックが起きます! それも時間の問題です! 一般人に危害が及ぶ前になんとかしないと──」

言い募りながらシキミは観覧スペースに意識を移して、そこにいる観客たちの様子がややおかしいのに気がついた。老若男女を問わず皆が揃って顔面蒼白で、脂汗を流し、荒い息をつきながら、それでも目だけが爛々と輝いてステージを見つめている。明らかに衰弱しているのに、誰もそれを気に留めている様子がない。とても正気の沙汰とは思えない──背中を氷の掌に撫で上げられるような悪寒がシキミの脊髄を駆け上がった。

「それに関してはもう手遅れかも知れんのう」
「て──手遅れって……」
「これだけ強力な結界の影響を、なんの訓練もしておらん有象無象が受けずにおれるはずがない。儂らはともかくとして、普通人である参加者やスタッフやその他大勢がこのまま結界の──霧の瘴気に中てられ続けておったら、魂が濁って形を失って、戻ってこれんようになる」
「ヨーコさん、二十文字以内で簡潔に」

いつになく真剣なサイタマの要求に、ヨーコも猛禽のように鋭い双眸を更に細める。

「このままでは、全員、生命が危ない」



なにかが変だ、これはおかしい──とようやくジェノスも察知したものの、頃合としては少し遅すぎるくらいだった。慣れないボディを制御するのにどうしても気を取られ、注意力が散漫になってしまっていた──結果として致命的な油断を生んでしまった。

(オーディエンスたちの生体反応が乱れている……極度の興奮状態のせいか? それとも単に体力を酷使して消耗しているのか? ……いや、そうではない。それだけではない……)

不可視の何某かが、彼らの生命力を蝕んでいるような──そんな印象を受けた。
ここからすぐに離れるべきかも知れない、とジェノスが判じたのは、ほとんど勘だった。隣に立っているヒズミにそう伝えようとして、しかし先に口を開いたのは彼女の方だった。

「……ジェノスくん」
「! どうした、ヒズミ」
「私……やっぱり……駄目かも……」

消え入りそうな声とともに、ヒズミの膝が、がくりと折れた。
そのまま地面に跪くような格好になる。慌ててジェノスが倒れかけたヒズミを支えるが、彼女の全身はまるで極寒に凍えるかのように小刻みに震えていた。

「どうした! おい、しっかりしろ!」
「なんか……さっきから、急に……体が……」
「すぐ医務室に──スタッフを呼んで──」
「やっべえ、……寒みい……」

歯の根が合わずにかちかちと鳴っていた。寒いと言いながらヒズミは顔中に汗を滲ませていて、呼吸のリズムも正常時とは大きく異なっている。痙攣する瞼を持ち上げるだけのことさえままならないようだった。

(くそっ──どうなってるんだ!)

心中で毒づいて、ジェノスはヒズミの矮躯を抱えて走り出した。どこかに観覧スペースを見回っているスタッフか警備員がいるはずだ。探し出して事情を説明して、彼女を早く医務室へ運ばなければならなかった。ひょっとしたら教授による“処置”が必要なレヴェルの容体かも知れない。どちらにせよ、事態は間違いなく一刻を争っている。

このとき──いまだ彼は知らずにいた。

カウントダウンは、とっくのとうに始まっているということを。