Pretty Poison Pandemic | ナノ
文字通り分刻みのスケジュールだった観劇行脚を無事に終えて、ジェノスとヒズミはタイタン・ステージに戻ってきていた。席の用意されている関係者ブロック──ではなく、一般客用の観覧スペースの、例によって最後列である。座って見るなんてまったくロックじゃない、というヒズミのよくわからない主張にジェノスが押し切られた形だった。
現在ライブを行っているのは、テレビコマーシャルのタイアップやドラマの主題歌などに何度も起用されている有名ロックバンドである。実際いま彼らが演奏しているのは、その手の事情に疎いジェノスですらいつかどこかで小耳に挟んだことのある曲だった。
彼らが実質、今回のフェスのトリを務めるアーティストである。ラストは出演者が全員集まってステージに立つ予定ではあるが、いわばボーナス・トラックのようなものだ。それを楽しみにしている参加客も少なくはないだろうが、それとこれとはまた話が別といえよう。
「はー、なんか“終わっちゃうなー”って感じ」
「まだ暴れ足りないか?」
「そんなことない。むしろ久々に長時間ずっと外で動いてたから、ちーとばかし疲れたかも」
ヒズミの台詞に、ジェノスの顔色が変わった。言われてみれば確かに血色が悪く、呼吸も浅い。日中よりだいぶ気温が下がっているのに汗も引いていない。より詳細に生体反応を数値として探ってみれば、弱っているのは一目瞭然だった。
「そんなじっと見ないでよ」
「どうしてもっと早く言わなかったんだ」
「大丈夫だよ。もう終了間際なんだしさ」
「しかしだな」
「ジェノスくんこそ大丈夫? 朝ぐったりしてたのに」
「俺のことはいい。問題はお前の……」
「平気だって。マジで無理だと思ったらちゃんと言うし」
「……約束だぞ」
「うん。頼りにしてんだから」
ばきゅん、と。
胸のド真ん中を撃ち抜かれた気分だった。
「それにしても、あっという間の一日だったなあ……すげー名残惜しい。ずっと今日が終わんなきゃいいのに」
「そんな体調でよく言うな」
「楽しかったから」
「……そうか」
それなら──なにも言うことはない。
ジェノスは頷いて、遥か前方のステージに目を移した。
このとき二人の疲労感はピークに達していて、お互いのことを気遣うのでいっぱいいっぱいで──現在まさに起こりはじめている“異変”に気づくことができなかった。仮に万全の状態であったなら、少なくともジェノスはそれを察知していたであろう──ステージから立ち上るスモークが、いささか濃すぎるのではないかということに。
得体の知れない白い靄が、広場全体を包みつつあることに。
それは異変というには、異常というには瑣末な出来事だったけれど、しかしその違和感に勘付いている者もいた。一際ステージに近い場所──関係者席の、その一角で。
「……先生」
「おう。どうした」
「ちょっと、おかしくないですか?」
「……やっぱり、お前もそう思うか」
サイタマの苦々しげな言葉に、自分の直感が間違いでないことをシキミは確信した。
「周りが海だし、霧でも出てきたのかと思ったんだけど……それにしては不自然だよな」
舌打ち混じりにサイタマが呟いて、空を見上げる。黒々と広がる夜の帳は白い煙のようなものに覆い隠されてしまっていて、浮かぶ月すらはっきりと目視することができなくなっていた。観覧スペースを含むタイタン・ステージ全体の周囲をぐるりと取り囲むように煙が流れていて、十メートル先すら見通せない有様だった。
「どういう現象でしょうか?」
「わからん。演出……にしてはやりすぎだよな」
客席を窺ってみるが、誰もこの異変に気がついている気配はない。騒ぎ立てる者はなく、皆がライブに夢中になっている──熱中している。それがなんとなく不気味で、シキミは少しだけ背筋が寒くなった。
「……外に出てみませんか?」
「そうだな……しっかり様子を見た方がよさそうだ」
サイタマとシキミは同時に立ち上がって、タイタン・ステージとフリーエリアを繋ぐゲートに向かった。ヒーローズ・ロック・フェスティバルと大々的に銘打たれた看板を備えた、巨大なアーチが聳えているのが遠目に見えた。立ち込める乳白色の霧によって、だいぶ霞んではいたけれど。
「すげーな。ステージから離れれば離れるほど濃くなってくような気がする」
「こんなホラゲーありましたね」
「あー、静岡なー。ゲート潜ったら裏世界とかマジ勘弁してほしいな。クリーチャーとか出てきたりしてな」
「……先生なら三角さんも倒せそうですけどね」
ゲートの正面までやってきたときには、もうほとんどなにも見えないような状態だった。常人よりも優れた視力を持つシキミですら、すぐ隣にいるはずのサイタマがぼんやりとしか視認できない。明らかに常軌を逸している──改めて、シキミは不安に駆られてしまう。
「……なんなの、これ……」
サイタマは怯むことなくアーチを通って、ステージの外へ出ていった。慌てて後を追おうとするが、視界が真っ白で、どこまでも不明瞭で、つい足が止まってしまう。そうこうしているうちに、サイタマの姿が消えた。背後から聞こえてくるライブの音楽だけがいやに耳障りで、ぞっとして──シキミは思わず大声を上げていた。
「先生! せんせー! どこですか!」
「ここだよ、こっちこっち」
すぐに返答が来たことで安堵したのも束の間。
シキミは硬直することになる。
(え? ど──どうして……)
なぜ。
どうして。
たった今まっすぐ前に歩いていったはずのサイタマの声が。
足音が。
(あたしの“後ろ”から……?)
どくどくと、ばくばくと早鐘を打つ鼓動を必死に抑えながら、シキミは振り向いた。
サイタマがそこに平然と立っている。
「……あれ? なんでお前がそこにいるの?」
「先生……こそ……なんで後ろに……」
「いや、俺は普通に歩いてただけで……あれ? なんで?」
確かに自分が通りすぎたはずのゲートが目の前にあるという事実に、さすがのサイタマも目を丸くしている。
これは──
これは一体──
「どういう……こと、なんでしょう?」
「俺に聞かれてもな……」
それから数度ふたりは外に出ようと試みたが、すべて失敗に終わった。サイタマも、シキミも、ふたり揃って同時に足を踏み出してみても結果は同じだった。全速力で走ったりもしてみたけれど無意味だった。謎の霧によって目の前が真っ白になって、気がつくとゲートの前に立っている。
「……先生……なにが起きて……」
「よくわかんねーけど、ひとつだけ判明したな」
「え? なにがですか?」
理解を超えた展開に冷や汗を流しながら、シキミがサイタマに縋るような視線を送った。彼は不安そうなシキミではなく、ただ霧の向こう側を鋭く抉るように見つめている。
いつもの気の抜けた彼はどこにもいない。
それは“敵”を目の前にしたときの、きりきりと絞られ、張り詰める弦のような眼光で。
「俺たちはもうここから出られない──閉じ込められちまったってことだ」