Pretty Poison Pandemic | ナノ





日が傾いて暮れてきた現在も、ヒーローズ・ロック・フェスティバルは続いていた。

「よし、そろそろ移動しよう。次はエウロパで……時間ギリギリだな。急がねーと始まっちゃう」
「…………まだあるのか」
「あと一時間半エウロパで、その次にダッシュでカリスト行ってワンステージ見て、あとはラストまでタイタン。フェスの締めに参加アーティスト全員が集まってパフォーマンスするんだよ。内容はまだ公開されてないんだけど、すげーんだろうなー。圧巻だろうなー。楽しみだなー」
「……………………」

ジェノスにはもうなにも言えない。

かれこれ数時間もヒズミについて広い敷地内を行ったり来たりして、大勢のオーディエンスが踊り狂う中に放り込まれ(ヒズミは帽子を脱げないのでずっと最後列ブロックだったのだが、それでも熱気は凄まじかった)ジェノスの精神は限界に達しつつあった。生身のヒズミがぴんぴんしているのが信じられなかった。

ボディの勝手が普段と違って不慣れであるというのも大きな要因なのだろうが、それだけではないのも確かだった。
要するに、覚悟が足りなかったのだ。
判断を誤っていたのだ。

野外ロックフェスという大祭典が一体どういう混沌の世界なのか──数年ものあいだ俗世と離れ、戦うことしか頭になかったこの男、やや甘く見すぎていたのだ。

(帰りたい……)

ジェノスの脳内にはそれしかなかった。早く教授のもとに戻ってこの忌々しい人工皮膚を脱いで、義肢をすべて外して、元のパーツに取り換えて睡眠を摂って脳を休息させたい、その一心だった。

しかし。
目の前で無邪気にはしゃいでいるヒズミを眺めていると──それだけで。
なんだかどうでもよくなってしまう。
こんなにも楽しそうなヒズミを見るのは初めてだった。あの“事故”から数ヶ月、彼女に深く根づいている精神的外傷が癒えつつある証拠といえよう。いい傾向だとジェノスは思う。

「……ノスくん? ジェノスくんってば」
「! なんだ、どうした」 
「それはこっちの台詞だけど……なんかぼーっとしてたからさ。疲れた? タイタン戻る? あそこなら座れるし」
「いや、大丈夫だ。時間がないんだろう? 早く行こう」

そう言って、ジェノスはヒズミの手を取って歩きはじめる。もうヒズミはそれに驚くことも、怯えることもない。多少の照れ臭さはあっても、振り払ってしまったりはしない。おずおずと指を絡めて、人混みのあいだを縫うように目的地へと足を進めていった。

サブ・ステージである“エウロパ”と“カリスト”は、シキミたちがトークショーを行っていたメイン・ステージ“タイタン”とは比べるべくもないほど小規模ではあったが、それでもかなり広かった。常に客が出たり入ったりを繰り返しているので正確な収容人数は把握できていないものの、一般的な学校の体育館くらいの面積はあるので、数百人は容易に収まってしまうだろうとジェノスは想定している。

二人が“エウロパ”に到着したときには既にライブが始まっていて、爆音が一帯に響き渡っていた。人垣の隙間からちらほらと覗けるステージ上では四人の若い男がそれぞれスタンドマイクとギターとベースとドラムを操って、情熱的なパフォーマンスを繰り広げていた。ハード・ロックというやつらしい。ジェノスの耳には喧しいだけの、これが音楽だとはとてもじゃないが認めたくないその演奏が、ここにいる人々にはなによりも素晴らしいサウンドだと感じられている──不思議な話だった。

観覧スペースを横に三分割した仕切りの最後列に位置するブロックの、更にその一番後ろの柵にもたれかかって、ヒズミも目を細めて聴き入っている。ジェノスにとっては彼女のその表情の方が何倍も魅力的だった。

チューニングのための小休止を挟んでから流れ出した激しいイントロに、観客たちが一段とボルテージを上げた。ヒズミも柵から背中を離してにわかに浮き足立った。興奮したような面持ちで「お気に入りなんだ、この曲」とジェノスに笑いかける。評判のいい過去のアルバムに収録されているリード曲とのことだ。

そんな情報を受け取ってしまっては、ジェノスも真面目に聴くしかない。相手の好きなものを知るというのは、結果として相手を理解することに繋がる。掻き鳴らされるマイナー・コードのギターの音色は、キャッチーなメロディでありながらどこか物悲しく、笑顔の裏に底の見えない悲嘆を隠すヒズミにどことなく似ているな──という感想を持った。

冬の風のように乾いた、この寂しい曲に、かつて彼女はどんな心で同調していたのだろう。
こんな旋律が今も彼女の中に吹き荒んでいるのだろうか。

そんなことばかりを考えてしまって、結局ジェノスは最後まで集中することができなかった。爆音に晒されて疲労が膨らんだのみだったが、満足そうに目を輝かせているヒズミをただ見ているだけで──

(…………まあ、いいか……)

先述の通り。
この有様である。

なんとも締まりのない流れではあったものの、これはこれで、二人にとっては紛れもなく幸せな時間なのだった。



そして夜がやってきて、フェスは終盤に差しかかっていた。タイタン・ステージは今回の目玉のひとつでもある、人気アイドル・グループによる歌とダンスで大盛り上がりだった。リハーサルのときに見た美少女たちが、かわいらしい笑顔を振りまいて熱唱しながら踊っている。

「やばいマジかわいい……やばい……」
「だからツルコ、あんたにはやばい以外の語彙がないの?」
「だってあれはやばいっしょ。かわいすぎるっしょ。やばかわいすぎるっしょ」
「変な日本語作らないでよ、もう」
「いやでも私もやばかわいいってのには同意だわ。同じ生き物とは思えないね。細すぎ。顔ちっちゃすぎ」
「ヒメノまで……」

関係者席のパイプ椅子に一列に並んで腰かけ、ひっきりなしに喋っている女子高生三人組という姦しい光景にも、サイタマはもう慣れてしまった。このエネルギーをなにか別のことに有効活用できればいいのにな、それで発電とかできたら電気代も浮くのにな、まあでも発電ならヒズミがいるからそっちの方が効率はいいんだろーけど、などと心底どうでもいいことを考えながら、屋台で買い込んだ軽食をひたすら咀嚼していた。塩胡椒で味つけされた牛串が大変うまい。

「シキミもあんな感じの衣装だったよねー」
「うん。なにせフェス開催が決まってから当日まで時間がなかったから、アレンジして使い回したんだと思う」
「ちょー似合ってた。さすが毒殺天使」
「やめてよ、恥ずかしい」
「事実だからやめませーん。ねー、先生!」

急に話を振られて、サイタマは口いっぱいに肉を含んだまま、反射的に頷いてしまった。シキミの顔面が、ぼんっ、と音がしそうなほど一気に赤くなる。開演前に“かわいい”と直に褒めてはいたけれど、こうして改めて露骨に照れられるとこちらまでいたたまれなくなってしまう。

「せ、せんせ……そんな……」
「ヒューヒュー! あっちーあっちー!」
「フゥー! フゥ〜〜〜」
「あーもーうるっさいなーもー! やめてってば! いい加減にしないと溶かすよ!」
「こわっ! 毒殺天使マジこわっ!」

けたけたと腹を抱えてツルコとヒメノが笑い転げているなか、舞台の上では少女たちがなにやら物騒なものを持ち出してきた。それは黒光りする巨大な筒に、グリップとトリガーが付随した──バズーカのような形状をしていた。その砲口を観客席に向けて、そして撃った。

派手な破裂音とともに飛び出してきたのはビビッドな色合いのゴムボールのようなものだった。その表面にロックフェスのロゴがプリントされているのが、この夜闇のなかでもシキミには視認できた。

ボールは暗澹とした色の空にゆるやかな放物線を描いて飛んでいく。バズーカの威力はなかなか強いようで、もっともステージから遠いブロックにもしっかりボールは届いていた。プレミア的な価値のあるその記念品を手中に収めようと、落下地点の側では観客たちが争奪戦を始めていることだろう。

(よくやるもんだな、どいつもこいつも)

サイタマは欠伸をひとつ零して、食べ終わった串を折った。足元に置いているゴミ袋にその残骸を捨てて、そして──はたり、と気づく。ステージの周囲に、白い靄のようなものがまとわりついているのが見えたのだ。

ヒズミがいつも吸っている煙草の煙のように、潮風に揺蕩って尾を引いて、ゆっくりと流れていく。

「……スモークでも焚いてんのかな」

これだけ大掛かりな舞台なのだから、そういう演出もあるのだろう、と──パフォーマンスの一環なのだろうとサイタマは思った。随分と金が掛かっているなと、その程度の認識でしかなかった。

それが過ちだったことに彼が気づくのは。
まだもう少し後のことである。