Pretty Poison Pandemic | ナノ





ライブ・ステージの裏側というのを今まで見たことがないわけではなかった。昼のワイドショーのアイドル密着取材とか、ドキュメンタリー番組の敏腕プロデューサー特集とか──娯楽として流されていた映像のなかではとても華やかで煌びやかに思えたその光景も、実際こうして立ち会ってみるとなかなかどうして殺伐としていた。大勢のスタッフがあちこち縦横無尽に走り回り、怒鳴ったり怒鳴られたりしながら、ひっきりなしに往来している。

そのうちにはシキミも含まれている。ステージに出て立ち位置の確認をしたり、台本を片手にマイクテストをしたり、数人のスタッフに囲まれて衣装のチェックをしたり、とにかく忙しそうだった。そんな働き者の彼女を観客席から眺めながら、サイタマは退屈そうにぽけーっと立っていた。

観客席──とはいっても、椅子などが用意されているわけではない。胸くらいまでの高さの、金網状の衝立によっていくつかのブロックに分けられているだけの、ただのスペースである。今のところはまだ閑散としているが、開場と同時にオーディエンスたちが流れ込んできて、あっという間に超満員になるのだろう。メイン・ステージであるこの“タイタン”は他のサブ・ステージより倍以上も広いのだという。そちらには行っていないのでどのくらいの規模なのかはわからないが、それでも大舞台であるのには変わりないのだろう。

「そこにおるのはサイタマ殿ではないかえ」

ふとかけられた声に振り向くと、そこにはヨーコがいた。まったく気がつかなかった。甚平に裾長の羽織という普段の格好とは大きく異なる、このイベントのためにヒーロー協会がデザインしたオリジナルTシャツに和柄のハーフパンツという極めてラフな服装だった。足元には淡い水色のビーチサンダル。腰にシザー・バッグを巻いていて、彼女がいつも携帯している喧嘩煙管の先端がにょっきりと飛び出ている。

「あ、ヨーコさん。どーも」
「うむ。お主も来ておったのじゃな」
「シキミにチケットもらったんで」
「そうかそうか。あの娘、どうやって師であるお主をフェスに誘おうかと気を揉んでおったでの……うまくやったようじゃな」

それは知らなかった。
サイタマは、はあ、と気のない返事をする。

「ヨーコさんもシキミの招待で?」
「いんや。儂はあくまで一般参加じゃよ」
「え? 開場時間まだなのに入っていいの?」
「なに、“隠密”の術を使っておるゆえ、心配は要らぬ」
「おんみつ……?」

訝しげに眉根を寄せるサイタマに、ヨーコは意味ありげに微笑んでみせた。バッグに差していた鉄扇を引き抜いて、ばっ、と広げる。その黒光りする扇面に、なにかが書かれていた──漢字のような外国語のような、いわく形容しがたい不思議な記号だった。

「なんすか? それ」
「ちょっとした咒いじゃよ。人目を除ける効果がある」
「はあ……」

などと言われても、よくわからない。
どう反応したものかとサイタマが逡巡していると、ステージの上から、

「おーい! そこの兄ちゃーん!」

と男性スタッフの大声が飛んできた。

「そっからこの映像って見えるー? 逆光で反射とかしてない?」

ステージ奥の壁に取りつけられたモニターのことを指しているらしかった。大丈夫だ、とサイタマが答えると、スタッフは謝辞の代わりに軽く手を振って舞台袖へフェードアウトしていった。彼は最後までヨーコの方を見ようともしなかった。まるでそこにはサイタマ一人しかいないふうに見えていたような──

「こういうことじゃよ。実際お主も儂がすぐ近くまで来ておったのに気づかんでおったろ」
「……マジで? どういう仕組み?」
「ふふふ、企業秘密じゃ」

言っていること自体はひどく胡散臭かったが、どうやらその効力は本物のようだと認めざるを得ない。得体の知れないミステリアス系カテゴリの女性に対しては教授の存在によって耐性がついたと思っていたのだが、このヨーコという謎の保護者もそういった意味では割合レベルが高い。

「シキミもあのように働いておるのかのう」
「なんかすげー慌ただしそうでしたよ」
「こういった催し物には儂は縁がなかったでの、ようわかっとらんのじゃが……なかなか楽しそうではないか。これからここで数十万もの人間が押し合い圧し合いするのじゃろう? さぞかし圧巻じゃろうなあ」
「俺はちょっと遠慮してーけどなあ」
「そう言わんと。シキミの晴れ舞台を見届けてやってくれんさい」
「あ、いや、それは勿論スけど」
「あの娘、いろいろと頑張っておるでの」
「? ああ、フェスの準備とか……」
「それだけではない」

にやり、とヨーコは悪戯っぽく口を斜めにした。

「このところ毎朝早く起きて、走っておるようなのじゃ」
「え」
「らんにんぐ、なんじゃと。それから腕立て伏せと腹筋も毎日欠かさず続けておる」
「………………あー」

思い当たる節があった。

「サイタマ先生から直々に賜った教えだそうじゃが」
「……まあ……その……そうスね」
「それは本当にシキミが強くなるために必要なことなのかの? んん?」

因縁をつけるヤクザのように身を屈め、サイタマの顔を覗き込むヨーコ。サイタマはだらだらと脂汗を流しながら目を逸らすことしかできない。この女性の威圧感には、なぜか逆らえないのだ。

「まあ、儂にはそういった鍛錬のことはよくわからんでの。お主に任せておけば安泰じゃろうて」

どうやら大船に乗った気分でいるらしいヨーコだが、その自信の根拠は一体どこにあるのか。信頼してくれているのはありがたいが──猜疑の目を向けられるよりは気が楽だが、こうも手放しに委ねられてしまうとそれはそれで不安だった。

いつの間にかヨーコが煙管を口にくわえていた。言うまでもなくステージ内は禁煙なのだが、誰もそれを止めようとしない。咎めようとしない。彼女が施しているらしい“隠密の術”が影響しているのだろうか──とサイタマは思った。彼女がふうっ、と吐いた煙が鼻先をかすめる。まるで香水のような甘ったるい匂いがした。

そのとき、ステージ上に新たな集団が現れた。十代半ばくらいの、まだ幼いといってもいい少女たちだった。そのうちの何人かには、サイタマも見覚えがあった。有名なアイドル・グループの、その中でも特に人気の高いメンバーだ。歌番組だけでなく、バラエティなどにも多数出演していたはずだ。そんな彼女たちが纏っているのはさっき楽屋で会ったシキミと似通った衣装だった。

「あ、シキミと同じ格好だな、あれ」
「ほほう、我が娘はあのように絢爛な出で立ちにて登場するのかえ。しかしいささか露出が多すぎやせんかのう」
「……あれ? そういえば、あんなヘソ出しではなかったような……」

シキミが着ていたのは、派手ではあれど形状そのものは普通のセーラー服と大差なかった。しかしステージでダンスの練習を始めた彼女たちの衣服は、上と下が完全にセパレートしている──海外の女学生チアリーディング・クラブのコスプレのようだった。

「ふうむ。主催側の配慮かのう」
「どういうこと?」
「まだ深海王とやらに痛めつけられた傷痕が残っておるのじゃ。腹部に大きな痣がある。痛みはだいぶ引いたらしいが、それでも見目はよくあるまい……隠したのじゃろ」

それも──知らなかった。
そんな体でシキミは舞台に立とうとしているのか。自分に鞭を打って、奮い立たせて、多くの人々が平和を求めて集まるこのイベントに協力しているのか。
市民のために。
ただそれだけのために。
見上げたプロ根性──プロヒーロー根性だった。

「……大丈夫かよ、あいつ」
「心配かえ? “先生”」
「そりゃそうだろ」
「本人は平気だと言っておったがの」
「口ではなんとでも言えんだろ。無茶しやがって……そこまでしなくたっていいんじゃねーのか。あいつまだ若いし、なにより女の子なのによ」
「ほう」
「あんだけかわいくて、気遣いもできて、料理もうまかったし……命を懸けて戦ったりなんかしないで、普通の嫁さんになって普通の家庭を築いて普通に生きていけばいいのに」
「ほうほう」
「大体あいつは危なっかしくて見てらんねーんだよ……無意識っつーか無防備っつーか……危機感がないっつーか……いや怪人に対してとかいうアレじゃなくて……俺のことまったく疑ってねーっつーか……、……………………ん?」

ひとりで喋っていたサイタマが、ふと我に返った。

「…………俺なに言ってた?」
「おや、もう切れてしまったのかえ。やはりお主、一筋縄ではいかんのう」

そんなことを嘯いたヨーコの手元──真鍮製の巨大な煙管の、その雁首の部分に、鉄扇に記されていたのと似た記号が記されていた。

「“暴露”の術じゃよ」
「ばく……っ」
「尋問や聴取などに使う術じゃ。それなりの通力を込めたんじゃが……この短時間で、しかも自力で払われてしまうとはの。いやはや恐れ入った」

要するに──奇妙な妖術の類に中てられて、いらぬことをべらべら喋らされたということか?

「……あんた一体……」
「ただのしがないヨーコさんじゃよ」

サイタマはもう呆然とするしかない。
なんなのだ──この女は。

煮え切らないものを腹の奥に渦巻かせながら、サイタマは果たして今しがた自分がなにを口走ったのか、不明瞭ではっきりとしない記憶の内から思い出そうと禿げ上がった頭を抱えた。