Pretty Poison Pandemic | ナノ





海浜自然公園という名がつけられてはいるものの、その敷地内に自然のまま残されているゾーンはほとんどない。広大な砂地は均され、人の手によって舗装され、補強され、芝生が植えられ、綺麗に整備されている。時折思い出したように吹きつけてくる風に微かに混じる潮の香りだけが、ここが海に囲まれた特殊な土地であることを物語っていた。

ジェノスとヒズミが並んで歩いているのは、そんな風変わりな場所の、お祭り騒ぎに浮かれている空間の、その一部だった。

「ジェノスくん、本当に大丈夫?」
「ああ。もう平気だ」
「無理して倒れたりすんなよ」
「重々わかってる。心配は不要だ」

ジェノスの宣言は力強かったが、しかしヒズミは不安だった。現在進行形でジェノスは汗だくである。長らく人間的な感覚から離れていた彼がこの猛暑を無事に乗り切れるのか、果たしてヒズミには自信が持てなかった。

「お前こそ大丈夫なのか」
「いやあ、もうさっきから頭が蒸れてしゃーないよ。髪があれだからどうしようもねーんだけど……いっそ切っちゃいたいね。ばっさりと」
「教授に止められているんだろう?」
「うん。例の“指環”がなくなったことでどういう変化が起きたのかまだ完全に解析できてないから、なるべく自然のままにしておくようにって言いつけられてる。調子こいて大怪我してバイク壊してその挙句に髪の毛も切っちゃいました、なんて洒落になんねーよ」
「……ジェリコで蜂の巣にされそうだな」
「教授ならやりかねないな……まあ、実際もう慣れてきてるし、そこまでしんどくはないから」
「そうか。疲れたら言うんだぞ」
「そっちこそ無理すんなよ」

シキミからもらった招待チケットを持っているので、混雑する一般席とは別の関係者用ブロックでライブをゆっくり観賞できる形にはなるのだが、それでも熱気はすさまじいものがあるだろう。基本的な運動機能は削っていないらしいので体力的な懸念はしなくていいとしても、精神的にはかなり負担になってしまうのではないだろうか──と、ヒズミは気が気でなかった。

「……なんか、ごめんね」
「? どうした」
「私の我儘に付き合わせちゃってさ」

俯きがちにそんなことを言うヒズミをジェノスはちらりと横目に見下ろして、ゆっくりと右手を持ち上げて──彼女にでこぴんをぶちかました。

「ふぐっ!」
「いちいち謝るな」
「いってええええええええ」
「同じことを何回も言わせるな」
「あ? 同じこと?」
「いくらでも甘えればいい」
「ああ……、うん、そうだったな」

額をさすりながら、そういえばそんなことを言われたこともあったな──口説かれたこともあったな、と思い返す。同時にあの“こっ恥ずかしい失態”の記憶も芋蔓式にじわじわと脳裏に蘇ってきて、ヒズミの目尻が朱に染まった。

あれも結局サイタマの乱入によって、花火大会の夜と同じく未遂に終わったわけだけれど。

それからというもの、ジェノスの自分に対する接し方が明らかに変化を見せている。やたら買い物に一緒に行きたがったり、テレビを見ていたらいつの間にか隣に座っていたり、ついでに髪を撫でられたり、そういった類のスキンシップの枚挙に暇がない。

ジェノスがどういうつもりでそういった行動に出ているのかなど考えるまでもないのに、そういうアクションを起こされる度そそくさと逃げてしまう自分はひどくかわいげがない女なのだろうな──と、実のところヒズミはやや自己嫌悪に陥っているのだった。

(……そのうち愛想尽かされそうだな)

もっと素直に振る舞えたら。
彼の好意を受け入れられたらいいのに──と。
思ってはいるのだ。
心の底から。

「ぼーっとするな。はぐれるぞ」

ジェノスがヒズミの右手を不意に掴んだ。思案に耽っていたヒズミは突然の接触に飛び上がるほど驚いて、思わず握られた箇所に意識を集中してしまう──ばちっ、と火花を飛ばしてしまう。

「いっ」

ジェノスが顔を歪めて、手を引っ込めた。
それを見て、ヒズミは思い至る。そういえば今の彼には、通常の肉体に極限まで近づけられた触覚が備わっているのだった──ということは、人並みの痛覚も──

「あ──ごめんなさ……」
「謝るな」
「でも」
「これくらい大丈夫だ」

そう言って、ジェノスは怯むことなく再びヒズミの手を取った。さっき手痛い一撃をもらったことなど意にも介さず、今度は離さない──とでもいうように、しっかりと繋いでいる。

「……………………」

ごめんなさい、と発しかけた唇を、ヒズミは少し噛んで。
そして、その代わりに──

「ありがと」

ジェノスがこちらを向いたのがわかったが、頭を上げることができなかった。恐らく真っ赤になっているであろうみっともない顔面を彼に晒すのは羞恥の極致だった。それでも手を振り払わず、ささやかながらも自分から指を絡めることができたのは、ほとんど意地だった。

そのまましばらく歩いて、ふたりはとある一画に差し掛かった。なにやら人集りができている。その中心には、それなりに大きい建造物が聳えていた。外壁は黒一色で、白い装束を纏って恐ろしい形相をした女や、青白い人魂などのリアルなイラストが描かれた看板が高々と飾られている──そこには血液をイメージしているらしき赤色の、おどろおどろしいフォントで「HORROR HOUSE」と綴られていた。

「幽霊屋敷みたいなものか」
「……………………」
「こんなアトラクションまで出ているのか。繁盛しているようだな……物好きが多いらしい」
「興味あるの?」
「いや。こんなもの子供騙しだろう」
「よしオーケイ興味ないならあっち行こうジェノスくん」
「ん? どうした、ヒズミ」
「いいから早くあっち行こうジェノスくん早くさあ早くジェノスくんハリーアップ」

口早にまくしたてながら、ぐいぐいと手を引いてその場を離れようとするヒズミに──ジェノスはぴんと来た。その口角がじわりと吊り上がる。それはかつて彼がヒズミに見せたことのない、無邪気な悪意に満ちた笑みだった。

いじめっ子が格好の標的を見つけたときのような。
本能的な嗜虐心が浮き彫りになった笑みだった。

そんなふうに底意地悪く頬を歪めるジェノスをヒズミは見ていない。その目は明後日の方向を彷徨っている。眼前に存在するものを視界に入れることすら拒絶するかのように。

「お前──ひょっとして、怖いのか?」
「いや別にそんなことはないですけど別に怖いとかそんな」
「それなら並んでみるか。せっかく来たんだし」
「ひぎっ!?」

妙な悲鳴を漏らして、ヒズミが“なに言ってんだコイツ落ち着け深呼吸して考え直せ”とでもいいたげな愕然とした表情でジェノスを見上げた。ジェノスの中で疑念が確信に変わった。

「えっちょっ待ってジェノスくん興味ないって」
「興味がないとは言ってない。たまにはこういう子供騙しに付き合ってみるのも一興だろう」
「いやいやいやいやどうせがっかりするってどうせしょぼいってやめとこうやめといて物販でも見に行こうオリジナルTシャツとかあるらしいから絶対そっちのが楽しいから」
「……こんな体になってから、こういった娯楽とは縁がなくなっていた。子供の頃には何度か来たことがあったが……だから少し懐かしいんだ。故郷を思い出す、とでもいうのか……」

殊勝さを装って、ジェノスがしんみりとそんな台詞を吐いた。強く押されると嫌とは言えないタチのヒズミである──研ぎ澄まされた言葉のナイフが突き刺さらないはずがない。

「しかしお前が怖いというなら諦めよう。いつかまたチャンスがあれば、そのときでいい。どれくらい先のことになるかはわからないが、お前が嫌がることを無理強いはできないからな」
「……………………」
「昔は家族や友人と遊びに行ったこともあった……今となっては薄れてしまいかけた思い出だが……戦いの日々で人間らしい心すら失いつつあるのかも知れない。そうならないよう、たまにはこういう馬鹿馬鹿しいことに身を投じるのも大事かと思ったんだが……しかしお前が怖いというなら」
「だああああああクソが!! 行けばいいんだろ!! わーったよ!! 行けばいいんだろクソが!!」

ついにヒズミが切れた。
マジギレだった。

「ちくしょう!! この野郎!! 行けばいいんだろ行けば!! いいよ!! オッケーだよ!! ダイスケ的にもオールオッケーだよ!! YO! SAY! 夏が胸を刺激する! 生足魅惑のマーメイドだよクソが!! こんなお化け屋敷なんてなァ!! うっかりタカノリの期待の楽園なんだよ!! どこ並べばいいんだよオラァ!! 何分待ちだよゴルァ!!」

強い口調で怒鳴っているものの内容が支離滅裂なうえに涙目である。迫力など微塵もない。
列の最後尾を目指しずんずんと大股で進んでいくヒズミの背中を眺めながら、ジェノスは──してやったり、とばかりにますます笑みを深くしている。

どうにも──この男。
なかなかいい性格をしているようだ。