Pretty Poison Pandemic | ナノ
泣き腫らして真っ赤になった眼の。
涙の海に沈んだ青い瞳がジェノスを映して揺れる。
「ひどい顔してる?」
「…………いや」
「気ィ遣わなくていいよ……わかってんだから」
濡れた白い睫毛を伏せて、ヒズミは自嘲的に笑った。
「本当みっともないよな。こんなふうに泣いてばっかりでさ……逃げないって決めたんだ、とか格好のいいことばっかり一丁前に言っときながら、実際びーびー泣いてばっかりで……ジェノスくんとか先生とかシキミちゃんは、自分の決めた覚悟で戦ってるっていうのにさ、私はこんな……弱くて。ひとりじゃなんにもできなくてさ。情けないよな……」
「……お前は情けなくなんかない」
「慰めてくれてんの?」
「本心だ。俺の」
「……そんな優しくすんなよ」
燃え尽きかけた煙草を灰皿に押しつけて、ヒズミは立ち上がった。よれたシャツの皺を適当に伸ばして、ジェノスに向き直る。その表情は普段と変わらない、へらへらと締まりのないものに戻っていた──それが逆にジェノスの心をちくりと刺した。
「夕飯だから呼びに来てくれたんでしょ? 先生んところ行こう。手伝わなきゃ」
ジェノスの横を足早に通り過ぎて廊下を抜け、さっさと三和土でサンダルをつっかけているヒズミの腕を、追いついてきたジェノスが後ろから掴んだ。
「ヒズミ」
「……早く行かねーと」
「お前は俺が知っている誰よりも純粋で、必死で、優しくて、一生懸命で……そのせいで傷ついても、誰にも助けを求めない。自分の弱さが罪だと思い込んで、ひた隠しにしているだろう。今だってそうだ。この先ずっとそうやって自分を殺して生きていくのか? そうやってなにもかも閉ざして孤独を選んで、寂しく生きていくのがいいのか?」
「……だって、それ以外に知らねーんだよ」
これまで──ずっとごまかしごまかし過ごしてきたのだ。
見たくないものにはすべて蓋をしてきた。
心が裂けて血が滲んでも、時間が経って塞がるまで──痛くなくなるまで、いつか忘れ去るまで待つしかなかった。
それはなんの解決にもなっていないと理解してはいても、たびたび古傷が開いてまた苦しみに苛まれるのを幾度となく繰り返しても。
それでもその痕からひたすら目を背けることしかできなかった。
それを今更どうしたらいいというのか。
「ジェノスくんが“ずっと私の隣にいてくれる”って言ってくれて、私それならいいやって思ったんだよ。それなら頑張れるって、頑張ろうって、自分のことくらい自分でなんとかできるようにしようって思ったんだよ。自分の決めたことくらい最後までやり遂げようって思ったんだよ。痛くても怖くても我慢できるって……耐えられるって思ったんだよ。だから──だからそんな、気持ちが揺らぐようなこと……甘えたくなっちゃうようなこと言わないで」
「……ヒズミ」
「これ以上、優しいこと言わないで」
そう呟くヒズミの声色は──どこまでも悲痛で。
悲嘆に暮れていて。
悲愴に震えていて。
ジェノスの内側でなにかの回路が切れる音がした。
昨夜と──同じような。
噴き上がる感情に突き動かされて、知性と理性が乖離して、自制が利かなくなって──
腕を掴んだまま、ジェノスはヒズミに一歩を踏み出した。咄嗟に離れようとしたヒズミの踵が玄関の壁にぶつかってバランスを崩し、そのまま背中でもたれかかるような姿勢になる。そこにジェノスが詰め寄って、驚愕に目を見開いているヒズミの顔の横に彼女の手首を有無を言わさず縫い留めて、身動きを封じてしまう。
「こ……これは俗にいう壁ドンというヤツですか」
「言ったはずだ。俺は──お前が傷つかなくてもいいように、孤独にならないように守ってみせると。我慢しなくていいと、お前の思うように生きていいと、怖がらなくていいと言ったはずだ」
「ジェノスく──」
「甘えたくなってしまう、と言ったな。それのなにが悪いんだ。いくらでも甘えればいいだろう。いくらでも──いくらでもだ。俺はそのためにお前の隣にいたいと決めたんだ。お前が自分を押し殺して、息を詰まらせているところをこれ以上ただ見ているくらいなら、迷惑くらい──面倒くらい俺が代わりに買ってやる」
「…………やめてよ」
「断る。もう俺の自己満足の領域なのかも知れないが──それでもいい。お前は俺が守りたいんだ。だから頼ってくれ。甘えてくれ。我儘でもなんでも言ってくれ。お前のためなら俺はなんでもできる。そのくらいの覚悟はとっくにできてるんだ。俺は──お前が」
ああ──そういえば。
昨晩はあんな大それた行為に及びかけておいて、肝心な一言を口に出していなかった。
まったくもって、自分は詰めが甘い。
油断が多い。
学習能力が欠落している。
剣呑剣呑。
くわばらくわばら。
情けないのはどちらの方だかわかったものではない。
なにはともあれ──改めて。
「お前が好きなんだ」
「……ひどい男だなあ」
「ひどい?」
「こんな状況でそんなこと言われちゃったらさ」
ヒズミはうっすらと微笑んだ。
泣き笑いで──唇を不格好に歪ませて。
「逃げらんねーじゃん」
言った。
「逃がすつもりなんて毛頭ないからな」
「おいおい強引だな」
「それで昨日は失敗したんだ。慎重にもなる」
「慎重? これで慎重?」
揶揄するヒズミの口振りは、もう普段のそれになっていた。
皮肉っぽく小首を傾げる彼女が誰より愛おしい。
「ああ──逃がさないようにな」
「悪い男だなあ、本当に」
「なんとでも言え。……ところで、ヒズミ」
「え?」
「これでも──“まだ早い”のか?」
ジェノスの言葉にヒズミは一瞬きょとんとして、巡らせた思考が思い当たる節に行き当たって、にわかに焦った表情になった。ずいっ、と顔を寄せてくるジェノスから退避しようと身を捩るヒズミだったが、彼と壁とに挟まれている上に手首を取られているこの状況下──逃げ道などなかった。
「え、えっと、それは」
「ヒズミ」
「ちょ、ちょっと待ってジェノスくん」
「もう待てない」
「おいおいおいおいお前キャラ変わってんぞ」
「好きだ」
「…………〜〜〜ッ」
ヒズミの喉から呻き声とも唸り声ともつかない奇妙な音が漏れた。しかし──しかし彼女はもう抵抗しようとはしなかった。逃げようとはしなかった。ついに観念したようだった。ジェノスの着ている白いシャツの裾を空いた右手で、きゅっ、と握っている。
それがなんともかわいらしくて、ジェノスはうっかり悪戯したい衝動に駆られてしまう──いろいろと。
「…………ふ、っ」
頬を上気させながら短く息を吐いたヒズミの薄い唇に、ジェノスがそっと口づけようと身を屈めて、ゆっくり鼻先が触れ合いそうなほど密着して──
「おーいジェノス、お前ヒズミ起こすのにいつまでかかっ」
ドアを開けて顔を出したサイタマに目撃された。
言い訳のしようもない決定的瞬間を。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「…………お邪魔しゃっしたー」
ばたん、とドアが閉められた。
耳に痛い静寂が訪れた──のも、束の間。
「……うわあああああああああああああああああ」
ヒズミの絶叫が劈いた。
前髪から火花が乱れ飛んでいる。あたふたと両手を振り回していたかと思うと、やがて頭を抱え込んでその場にしゃがみ込んだ。突然のサイタマの乱入に完全フリーズしているジェノスの足元に丸まりながら、もうやだ死にたい消えてなくなりたい、と呪詛めいた台詞を吐いている。完全にパニックに陥っていた。
なんとも──まあ。
格好のつかないオチがついてしまった。
しかしこれくらいが彼らにはちょうどいいのかも知れない。
ここに辿り着くまでに。
巡り合うまでに。
随分と──遠回りをしてきた彼らには。