Pretty Poison Pandemic | ナノ





些細なすれ違いから勃発した大騒ぎから三十分後。

焼きたてのクラフティを囲んで、四人はサイタマ宅で団欒していた。それはとても微笑ましく、心が洗われるような光景のはずなのだけれど──ついさっきの一悶着の余波で、どこか気まずい空気が流れていた。ヒズミに至ってはもはやお通夜である。自分の不用意な、不充分な発言のせいで混乱を招いてしまったから──というよりは、昨晩の出来事をいまだに引き摺ってめそめそしていたのがジェノスにばれてしまったのがかなりショックらしい。

小心者のくせに、気を遣うポイントが妙にズレている彼女のことである。おおかた気にしていない振りをして、時間の力を借りて水に流してしまって、なかったことにしてしまおうとしていたのだろう。

「お、おいしいですねっ!」
「……そうだね……おいしいね……」
「ヒズミさんが一生懸命作ってくれたからっ!」
「……ありがとう」
「ホットケーキミックスがあれば大抵なんでもできちゃうんですよっ!」
「そうなの?」
「そ、そうなんですよ先生! スフレとかマフィンとかクッキーとか、アレンジ次第でなんにでも化けるんですよっ!」
「へぇえ。便利なもんだな」
「今度またなにか作りますねっ! ねっ! ヒズミさん!」
「…………うん」

シキミがどうにか間を取り持とうと明るく喋り続けているのが逆にヒズミの涙を誘う。なんとも健気だった。こんなにも素直で、明朗で、優しく思いやりのあるいい子なのだからさぞかしモテるのであろう。卑屈で臆病で根暗な自分とは、なにからなにまで大違いだ。

「……どうせなら私みたいな面倒くさいのじゃなくて、こういう子にしといたらいいのに」
「? なにか言ったか?」
「言ってません」

ヒズミはもうジェノスの顔を見ようともしない──否、見ることもできない。直視できない。露骨に避けていた。近づきすぎてしまった距離をどうにかニュートラルに戻そうと、パーソナル・サークルの外側へ押し返そうとしていた。

「……………………」

そんなヒズミを──それでも、とジェノスは思う。

なにせ気づいてしまったのだ。思い知ってしまったのだ──彼女のことが唯一無二で、代わりなどいなくて、ずっと側で見ていたくて、誰の目にも触れないところに隠してしまいたいような、けれど誰もかもに自分だけが知っている彼女の素晴らしさを見せびらかしたいような、そこはかとなく矛盾した心情を。

逃げないでほしい。
斬って捨てられるならそれでもいいのだ。
いや──よくはないけれど。
できることなら受け止めてもらいたいけれど。

ただ。
逃げないでほしい。

彼女の心を覆う過剰に積み上げられたバリケードの、きっと自分でも解体できなくなってしまった大きな壁の、その向こうでひとりぼっちになっている彼女の手を取ってやりたい。

それだけなのだ──今の自分には。

「ところでさ」

深い思索に耽っていたジェノスの意識を、サイタマの声が引っ張り上げた。彼はもう既に皿を空にしていて、糖分の摂取によって乾いた喉を麦茶で潤している。

「今日の晩メシどうする? シキミも食ってくのか?」
「あ、いえ。あたしは夕方から仕事がありますので」
「仕事? ヒーロー協会の?」
「そうです。今度の“ロックフェス”の打ち合わせで」
「ロックフェス?」

ロックフェス──とは、その名の通りロック・ミュージックのフェスティバルである。複数のバンドが出演する大規模のコンサートで、主に野外──市街地から離れた空き地で行われることが多い。著名なアーティストが参加するものとなると、その総客数は優に十数万を超えることもある。

「ヒーロー協会とロックフェスってのが、俺いまいち結びつかねーんだけど」
「えっとですね……こないだ海人族が襲ってきましたよね。そのせいで海水浴に来る観光客が激減してるそうなんです。これは忌々しき事態だということで、J市議会とヒーロー協会が協力して、協賛して、急遽イベントを開催しようという流れになったんです」
「それでロックフェス?」
「はい。J市の浜には大きい砂州があって」
「さすって?」
「水流によって砂とか石が堆積して陸地になっている箇所のことです。そこが広場になってるんですよ。舗装工事されて公園みたいになってるんです。自然発生した砂州としては世界的に最大級の面積で、これまでもライブとかに利用されたことが何度かあるんですよ」
「よく知ってんな、お前」
「流行に乗って生きる女子高生ですからっ!」

シキミは誇らしげに胸を張った。

「それで、私にも出演依頼が来たんです。海人族を撃退したヒーローの一人としてステージに立ってほしいと」
「え? なんか歌うの?」
「歌いません。ゲストのタレントさんや他のヒーローたちとトークするだけです」
「ふーん……ジェノス知ってた?」
「はい。俺にも出演依頼が来ましたので」
「マジで!? 歌うの!?」
「いや歌いません。俺は断りました。見世物になるつもりはありませんので」
「俺なんにも言われてねーんだけど……」
「……俺もシキミも、一般市民が管理している非公式人気ランキングでは上位のようですから……そういった、集客力のあるヒーローに声をかけているのではないかと」

それは裏を返せば、知名度の低い、世間の心を掴んでいないヒーローに用はないということで。
大勢の前で自らヒールを演じるような言動をとったとはいえ──海人族の襲来において最も活躍したサイタマとしては、やっぱり面白くない。

「俺だって戦ったのに……」
「協会や民衆は先生の実力を正しく理解していません。先生ほど優れた人は他にいないのに」
「そうですっ! あたしもそう思います! ……そうだ、あたし協会にサイタマ先生もステージに立たせてもらえるよう関係者に直訴してきます! そしたらあたし先生の魅力について観客の前で語りますからっ!」
「やめてくれ恥ずかしいから」

サイタマは額を押さえて呻いた。

「なんつーか、大変だね、シキミちゃん。退院したのも昨日の今日だってのに」
「これもヒーローの仕事ですから。一刻も早く一般市民に安心を届けないと!」
「ヒズミは知ってたの? ロックフェスのこと」
「知ってたよ。チケットもう買ってある」
「えっ」

衝撃を受けて声をあげたのはサイタマでなくジェノスだった。

「行くのか? お前。ロックフェス」
「うん。もともとロック好きで、ライブとかしょっちゅう行ってたし……最近そういうチャンスなかったから、いい機会だと思って。推してるバンドも何組か来るらしいから」

そう言ってヒズミが指折り列挙したアーティストはどれもこれもマイナーなインディーズ・バンドで、ジェノスもサイタマも、シキミですら寡聞にして知らない名前ばかりだった。

「ごめん全然わかんねーわ」
「え? 失礼ですが先生はアホでいらっしゃいますか?」
「お前ディナーのあとでぶん殴るぞ」
「そんな大人数が集まるところには行くべきじゃないんじゃないのか? 腕はもうほとんど完治しているとはいえ……お前はとにかく目立つだろう。騒ぎになるぞ。確実に収拾がつかなくなる」

ジェノスの主張はもっともだった。ヒズミは拗ねた子供のように口を尖らせる。

「でも、花火大会でもばれなかったし」
「あれとはまた事情が違う。集まる人間の数が桁違いだ。それにロックフェスともなれば他の一般客と団子状態になるんだろう? もみくちゃの中で大きい帽子なんて被っていられないんじゃないのか。そもそもこの手の大きいイベントとなれば身体検査だってあるはずだ。どうやって紛れるつもりなんだ」
「…………気合いで」
「馬鹿を言うな」
「だって行きたいんだもん……」

しょぼん、とすっかり萎びてしまったヒズミの姿に胸が痛んだ。望まぬ変異に苛まれ、常に人目を気にしなければならない立場になり、おちおち気晴らしに出掛けることもできない──遊びたい盛りの若い女子としては苦痛だろう。自分の歳がそれよりも下であることなど忘れて、ジェノスは彼女をかわいそうだと感じてしまった。欲目も少なからずあったけれど、純粋に彼女のささやかな願望を叶えてやりたくなって──

「……わかった。俺も行く」

と。
つい宣言してしまった。
断言してしまった。