Pretty Poison Pandemic | ナノ





ボウルと泡立て器のぶつかる、リズミカルな軽い音。
温かく包み込むような甘ったるい匂い。
若い女子ふたりの楽しげに弾む声。

それらの発信源はヒズミ宅のキッチンである。夏の昼下がり、家主であるヒズミが発案し、客人であるシキミが講師となって三時のおやつ製作に勤しんでいるのだった。

「これ、こんなもんでいいのかな」
「完璧です。それこっちのボウルにちょっとずつ入れながら混ぜてください」
「ちょっとずつ? 一気に入れたらあかんの?」
「はい。味が悪くなりますよ」
「へぇえ……。勉強になりますなあ」

卵と生クリームの化合物をシキミの指示通りゆっくり注いでいく。ボウルの中身はしっとりとした、肌理の細かい白い粉──市販のホットケーキミックスである。

「混ぜ終わったら牛乳とヨーグルトと白ワイン砂糖を加えて、さらに混ぜてください」
「日本酒でもいい?」
「駄目です」
「焼酎ならいい?」
「駄目です」
「ブランデーとか」
「駄目です」
「ウィス」
「駄目です」
「……最後まで言わせてよ」
「喋ってないで早くしないとですよ。先生もジェノスさんもお腹空かして待ってますから」

無駄口の多いヒズミを窘めつつ、シキミは自分の分担をてきぱきとこなしていた。キッチンペーパーに並べて水気を切っておいた缶詰の洋梨とダークチェリーを、薄くバターを塗った耐熱皿に移していく。

「それにしても、ヒズミさん」
「んあ? どうした?」
「なんで急に“簡単なのでいいからお菓子作りを教えてほしい”なんて? あたしは楽しいので全然いいんですけど」
「……ちょっと女子力を上げようかと思って」
「心境の変化でもあったんですか?」
「いや……まあ……ちょっと」

しどろもどろに言葉を濁しているヒズミに、シキミはぴーんと来て、悪戯っぽく歪んだ笑みを作った。

「ひょっとして、昨夜の花火大会でジェノスさんとなにかありました?」
「違う違う別になんにもないですなんにもなかったです違う違います許してくださいごめんなさい」

ジャブ一発でKOだった。
様子見のつもりが致命傷になった。

「お、落ち着いてくださいヒズミさん」
「ふええええええええええん!」

形容しがたい叫び声を上げながらヒズミは猛然とボウルを掻き混ぜている。いつものクールでアイロニーなヒズミからは想像もできないパニックっぷりだった。

「大丈夫ですか? 本当になにかあったんですか?」
「……うううううううう」
「あたしでよければ聞きますから」
「……シキミちゃあん……」

泡立て器を親の仇のように振り回していた手を止めて、ヒズミは今にも泣き出しそうな顔でシキミと視線を合わせた。唇がぷるぷると震えている。目元がほんのりと赤い。

「ジェノスくんが……ジェノスくんが……」
「ジェノスさんがどうしたんです?」
「昨日は人が多かったから……ちょっと離れた林みたいなところで一人で花火見てたんだけど……そこにジェノスくんが来てくれて……」
「はい」
「しばらく喋ってて……そしたら……急に……ジェノスくんが……ふええええええん」
「ジェノスさんが? ジェノスさんがどうしたんですか?」
「あ……あんな……いくら誰もいなかったからって……人気がなかったからって……あんなことを……無理矢理……」

誰もいないところで?
人気のないところで?

あんなこと?

を──無理矢理?

「私びっくりして……まさかジェノスくんがあんなことするなんて思わなかったし……もう私どうしたらいいのか……」
「まさかヒズミさん……ジェノスさんに……」
「私……その……は……初めてだったから……怖くて……」

シキミからさあっと血の気が引いた。
彼女の脳裏に再生されていたのは、それはそれは悍ましい光景だった。人の通らない暗がりで、金髪のサイボーグ青年が嫌がるヒズミを強引に──ヒズミの汚れない純潔な体を欲望のままに食いものに──

しかしシキミが蒼白になって呆然としていたのは一瞬だけだった。
次いで湧き上がってきたのは──猛烈な怒りだった。



どたどたどた、と激しい足音がしたかと思うと、ものすごい勢いでドアが開けられた。リビングで寝転がって漫画を読みふけっていたサイタマが驚いて飛び上がる。行儀よく正座して日記をつけていたジェノスもノートから顔を上げて音のした方を──鬼のような形相でこちらを睨んでいるシキミを見遣った。

「び、びびった……どうしたんだよシキミ」
「もう少し静かに入ってこれないのか。調理はどうなったんだ。ヒズミはどうし──」
「ジェノスさん!! あたし見損ないました!!」

あのジェノスでさえ怯むほどの剣幕だった。サイタマは“どうやらシキミがジェノスに大層ご立腹でいらっしゃるらしい”ということしか飲みこめず、ぽかーんと口を開けている。

「……俺が? 俺がなにかしたか?」
「とぼけないでください!!」
「話が見えないんだが」
「昨日! 花火大会で──ヒズミさんにしたことを忘れたとは言わせませんよ!」

ジェノスの鉄面皮が色を変えた。

「な──なぜお前がそれを」
「ヒズミさんから聞きました。話してくれました。口に出すのもつらかったと思います……まさか命の恩人に、合意の上でなく貞操を奪われるなんて……」
「は!? マジで!?」

ぎょっと目を剥いてサイタマがジェノスを振り返った。

「お前マジで!? そこまでやっちゃったの!? お前それ犯罪だぞ!?」
「ま、待て。待ってくれ。俺は──」
「待ちませんっ! 問答無用! あたしは──あたしはヒーローとして! 女の敵であるあなたを警察に突き出しますっ! 覚悟ーっ!」
「落ち着けシキミ! 暴れんな! 家が壊れる!」
「やめてください! 離してください先生っ! あたしはこれからあのサイボーグ野郎を去勢してやるんですっ! 引きちぎって犬に食わせてやるー! きえーっ!」
「それはやめたげて! 俺の股間も今ヒュンってしたから! やめたげて!」

ヴェノムを構えて戦闘態勢に入っていたシキミを後ろからサイタマが羽交い絞めにした。ジェノスはらしくもなく切羽詰まって中腰の姿勢でおろおろしている。

「誤解だ! お前はなにか重大な勘違いをしている!」
「なにをどう誤解してるっていうんですかーっ!」
「今の俺にそういった機能はない!」
「どういう意味ですかーっ! むきーっ!」
「だから──この体に生殖能力はないと言っている!」

サイタマに押さえこまれながらも闇雲に藻掻いていたシキミが、ぴたり、と静止した。

「………………えっ?」
「……戦闘に必要のない体機能はすべて除外している。肉体を強化するためにサイボーグになったのに、むざむざ急所だけ残しておく理由などないだろう。だから──その、…………俺に性交渉は不可能なんだ」

どうしてこんな告白をしなければならないんだ、とばかりにジェノスの表情は憮然としていたが、語尾の弱々しさを鑑みるに、相応の羞恥心は隠しきれなかったようだった。シキミは予想だにしていなかった展開に目を白黒させている。

「だ、だって、ヒズミさんが……“人気がなかったからって”とか“無理矢理あんなこと”とか“初めてだったから怖かった”とか……」
「……なに? お前らなにがあったの昨日?」

師であるサイタマにまで説明を求められてしまっては、虚言でごまかすこともできない。ジェノスは自身の引き出しから必死に当たり障りのない表現を模索しつつ、

「ヒズミと話しているうちに、その、……こう……愛おしくなって……その……ヒズミの唇に……触れたくなったといいますか……無意識に……顔を……こう……近づけてしまってですね……」
「要するにムラッときてキスしちゃったってこと?」

なけなしのオブラートはサイタマのデリカシーのなさによって無惨にも破られた。もうジェノスには開き直ることしかできなかった。ほとんど自棄になって「そうです」とはっきり断言した。

「で? それからどうなったの」
「これといって別になにも」
「なにも? キスまでしちゃったのに?」
「……未遂に終わりましたので」
「なにそれダサっ」
「……逃げられたんです」
「なにそれうわっますますダサっ」

サイタマの追撃には容赦が一切なかった。
いっそひと思いに殺してほしいくらいだった。

「団扇で妨害されました……“それはまだ早い”と」
「まだ早い? って言ったの? ヒズミが?」
「……? はい、そうですが。それがなにか」
「いや……まだ早い、ってことは──もうちょい経ったら、心の準備ができたらしてもいいってことじゃねーの?」
「……は?」

彼女はジェノスに“まだ早い”と言った。
その言葉を安直に、額面通りに解釈するなら。

いずれそういう瞬間が来ても構わない、と──

そういうことなのではないのか?

「……その発想はなかった」

その場に崩れ落ちて、ジェノスはフローリングに膝をついた。すっかり大人しくなったシキミを解放して、今度はサイタマが額に青筋を立てる番だった。

「なんだよ結局ノロケなんじゃねーかよ! この野郎! 俺が去勢してやる!」
「すいません先生、先程も申し上げましたが、俺にはついていませんので」
「冷静に返してくんじゃねえ! クソが!」
「あ……あたしまた早とちりしてとんでもないことを……」
「いや、これはヒズミが紛らわしい言い方したのが悪いだろ……あの喪女め……」
「もじょ? もじょとはなんですか先生」
「喪女っていうのはネットスラングのひとつで──」
「いちいち親切に解説しなくていい!」
「す、すいません先生! あたし空気が読めなくてっ!」

三人の平穏な時間は、こうして順調にカオスと化していくのだった。
引っかき回している張本人の、与り知らぬところで。