Pretty Poison Pandemic | ナノ





(ああ──始まったか)

ジェノスが河川敷の付近に到着したとき、ちょうど花火が上がり始めた。高層ビルやマンションの屋上などをショートカットして、急いでここまでやってきたのだが、やはり出遅れてしまったようだ。上空で花火が弾ける爆発音と、人々が盛り上がっている賑やかな喧騒が、遠く聞こえてくる。

ジェノスの現在地は、メインの会場からはやや外れた場所である。そこは堤防沿いの林になっていて、斜面に鬱蒼と背の高い木々や雑草が生い茂っていた。人の手は随分と長いあいだ加えられていないようで、荒れ放題になっている。ひどい有様だ。

しかしここからでも、この一大イベントに集まった人の多さは視認できた。うんざりするほど確認できた。ジェノスの視覚は常人のそれよりも遥かに高感度で、高性能で──ここから人ひとり探し出すのがどれほど困難なことなのかという現実を嫌というほど突きつけてくる。もう既にジェノスの心は折れかかっていた。

「……………………」

サイタマに焚きつけられてここまで来てしまったわけだけれど──全速力で飛んできてしまったわけだけれど。

もともとヒズミを誘おうとは思っていたし、僥倖といえなくもない展開ではある。しかしその試みは失敗に終わっているし、挙句に彼女はひとりでここを訪れているのだというし、誰にも邪魔されずにゆっくり花火を堪能したいと考えているのかも知れない。もしそうだとしたら自分はとんだ道化である。ひたすら右往左往した結果、ヒズミに鬱陶しそうに追い払われでもしたら立ち直れない。

(…………立ち直れない?)

それは──なぜ?

無様にあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた自分が情けなくて、不憫で、みっともないから?

(俺は──俺は一体、なにを考えている?)

生身の肉体を捨て、代わりに機械の肢体を手に入れて、隅々まで自在に制御できるようになった。それなのに──いま自分に起こっている明らかな“異常”を正しく把握することができない。ジェノスは混乱していた。混沌としていた。

とりあえず林を抜けて、道へ出よう。それから出店の並ぶメイン会場あたりへ向かって、生体反応センサーを頼りに、足を使って捜索するしかない。なんとも気の遠くなる話ではあったが、ここで諦めてすごすごと帰るよりは格好がつくだろう。ジェノスはそう自分を奮い立たせ、センサーの感知レベルを上昇させた。

三秒で引っかかった。

「……は!?」

思わず声が出てしまった。クセーノ博士に直々にリペアしてリメイクしてメンテナンスしてもらったばかりの、ほぼ新品同様のボディに内臓されている探知機能が故障しているとは思えない。ジェノスはゆっくりと、一般人のそれとは大幅に異なる高エネルギー反応があった方向を見た。

中空を──見上げた。

大きな麦わら帽子を被った人影が、そこにいた。アウトドア用の折り畳み椅子に腰かけ、悠然と宙に浮いている。まるで水中を漂うクラゲのように、ふわふわと上下に揺れながら、揺蕩っている。

「…………ヒズミ!」

名前を呼んでみた。しかし返事はない。相変わらず夜空にふよふよしている彼女にズームしてみると、団扇で顔のあたりを扇ぎながら、どうやらイヤホンを装着しているようだ。これでは声など届くはずもない。

埒が明かないので、近寄ってみることにした。ヒズミの真下あたりまで来たところで、彼女はようやくジェノスに気づいた。ぽかん、と口を大きく開けて、ゆっくりと高度を下げてきた。ジェノスと頭が並ぶくらいのところまで降りてきて、驚いた顔のままイヤホンを外して麦わら帽子を脱いだ。内側に押し込められていた白い髪が、はらり、と垂れ落ちる。

「なんでジェノスくんがここにいるの?」
「……別に」
「エリカ様かよ」
「シキミと先生から、お前を花火大会で見かけたという電話があった」
「ふーん。なるほろね」

得心いったように小さく首を縦に振って、ヒズミは団扇を握る右手の甲を左手の指先でさすった。彼女は上着のジャケットを腹に巻いて袖を結んで留めていて、半袖のTシャツ姿を晒している──右腕の傷跡が剥き出しになっている。だいぶ元通りになってきてはいるものの、それでもところどころ赤く爛れていて、ひどく痛々しい。子供が見たら泣くだろう。大人が見ても夢に出るかも知れない。

「どうやって浮いてるんだ、お前」
「地面に砂鉄まいた。ホームセンターで買ったヤツ。……それにしても……なんか意外だなあ」
「意外?」
「ジェノスくん、花火なんて興味ないって思ってたから」
「……取り立てて関心があるわけではないが、先生とシキミが来ているというし、お前もここにいると聞いたから」
「ついつい来ちゃった的なアレか」
「………………」
「なに? 一人で留守番するの寂しかったの?」

──寂しかった?

そんな馬鹿な、とジェノスは鼻で笑おうとして。

笑えなかった。

ひどく空虚だった。
胸に穴が空いてしまったような。

穴が空いて、欠けてしまった箇所をどうにかして埋めたくて、いたたまれなくて、ここに来た。

それは、とどのつまり。
──寂しかった?

「おーよちよち。ジェノスくんは甘えたさんでちゅねー」

思いっきり悪意のある口調で嘯いて、ヒズミはジェノスの頭を撫でくり回した。しかしジェノスはそれを制止せず、振り払うこともせず、黙ってヒズミの掌を受け入れている。てっきり怒られるだろうと思っていたヒズミの方が予想外の展開に狼狽して、手を引っ込めた。

「なんか言ってよ! 調子狂うだろ!」
「……別に」
「だからエリカ様かって」
「別に、嫌じゃなかったからな」

嫌じゃなかった。
むしろ。
心地よくて──満たされたような。

どこまでも想定外の反応を返してくるジェノスに、ヒズミは金魚のように口をぱくぱくさせている。焦っているのがよくわかった。おどけてふざけて妙な真似をするくせに、すぐいっぱいいっぱいになって、小動物のように慌てふためいて、とてもかわいらしい──と思った。

思ってしまった。

「今日はどこに行ってたんだ」
「……ちょっと、人と会う約束してて」
「目の下にまた隈ができかけている」
「え? あ、……うん」
「また眠れなくなっているのか」
「……ちょっとね。でも大丈夫だから」
「そうやってお前はいつも大事なことをはぐらかす。隠そうとする。そんなに──そんなに俺は信用できないか」
「ジェノスくん……」

ジェノスの真剣な双眸に釘付けにされる。
目を逸らすことができない。

「俺はそんなに頼りないのか? 俺は──俺ではお前の拠りどころになれないのか」
「そうじゃなくて……その……要らない心配かけたくねーし」
「俺に心配すらさせてくれないのか」
「……迷惑かけたくねーんだよ。これ以上」

散々ごたごたに巻き込んで、傷つけてしまって、それでも助けてくれたのだから。
これ以上──優しい彼を煩わせたくない。

傷つけて、煩わせて、振り回して。
見限られてしまうのが。
いつか見放されてしまうのが──怖い。

ヒズミのコバルト・ブルーの瞳が、物言わぬ青色が、なにより雄弁にそう語っている。

どこまでも不安で。
不安定で。
今にも崩れ落ちてしまいそうで。

そんな彼女に、ジェノスは胸が締めつけられるような思いがした。

「俺は……お前を見捨てたりしない。絶対に」

憐憫した──のではない。
同情した──のとも違う。
責任感──ではない。
使命感──とも違う。

「俺は」

なによりも彼女が特殊で、特例で、特別なのだと。

「俺の意思で、お前の側にいたいんだ」

理解してしまった。
思い知ってしまった。

ようやく。
気がついてしまったのだ。



この異常の正解に。
この感情の──正体に。



「あのときも言っただろう──“俺がお前をひとりにしない”と。嬉しかったと、俺がいるなら生きていけると、お前は言ってくれた。それなら俺は、ずっとお前の隣にいたい」
「ずっと……」
「そうだ、この先ずっと──お前だけだ」
「………………ばか」
「口が悪いのは嫌いなんじゃなかったのか?」
「うるさい。ばか。あほ。とんちんかん。サイボーグ。男前。イケメン」
「後半のは褒め言葉と受け取っていいんだな?」
「ちくしょー。ばーか。お前かっこいいよ。ばーか」

椅子の上で膝を抱えて体を丸めるヒズミ。俯いてしまっているので、彼女が今どんな顔をしているのかわからない。ただの好奇心で、ジェノスはヒズミの表情をしっかり見たいと思った。見たくて見たくてたまらないと思った。

「ヒズミ」
「……………………」
「ヒズミ。こっちを向け」
「………………なんだよ」

ヒズミが頭を持ち上げて、ジェノスと視線を合わせる。
口を引き結んでへの字に曲げて、困り果てたように眉根も寄せて、耳までまるで林檎のように赤くして、ほんのり眦に涙を滲ませてジェノスを見つめる。

──吸い込まれた。

ヒズミの頬に手を添えて、ジェノスは自分の顔をぐっと寄せた。驚いているヒズミの、その薄い唇に自らのそれを重ねようと距離を詰めて──薄い壁に遮られた。

身を引くと、そこにはヒズミが手にしていた団扇があった。

「それは! まだ! 早い!」
「………………」
「大胆すぎるだろお前! ばか! ばーか!」

そう怒鳴るヒズミの声は悲鳴に近かった。上擦っている。今しがたのジェノスの行動は、彼女の脳味噌のキャパシティを超えてしまったようだった。こんなふうにむきになって、躍起になって、必死になって、恥も外聞もなく取り乱すヒズミを見るのは初めてだった。ひたすらジェノスを罵っているのは照れ隠しのつもりなのだろうが、完全に裏目に出ている。

「…………すまない」
「ばーか! ジェノスくんのばか! …………ばか」

ジェノスは口元を押さえて斜め下に視線を落としている。どうやら自分が今しようとしたことに、自分で困惑しているらしい。当惑しているらしい。完全に無意識だったようだ──とさすがのヒズミも彼の猛省を察して、怒濤の罵倒はみるみる萎れていった。重すぎる沈黙が落ちて、沈んで、吹き溜まって──やがて耐え切れなくなったジェノスが口を開いた。

「すまない。俺は……その……すまない」
「……もういいよ」
「いや、しかし……いきなりあんな」
「いいってば。恥ずかしいからもう勘弁して」

ぴしゃりと遮って、ヒズミは上空へ舞い戻っていった。逃げた。もう逃げないと決めたはずの彼女は、この決定的な状況からあっさりと、はっきりと、きっぱりと逃走した──逃亡した。これがドラマのワンシーンであったなら、白けた視聴者たちから苦情の嵐が殺到することだろう。

しかしこれはドラマなどではない。
演じているものではない。
筋書きなんてどこにもない。

本人たちにしてみれば──これが目一杯で精一杯なのだ。

もしもこの茶番劇を俯瞰している誰かが、客観している何者かが存在するというのならば。
平身低頭してお願いしたいところだ。

諸賢、どうか寛大な心で見守ってやってほしい──と。