Pretty Poison Pandemic | ナノ
空の色合いは既に暗い。今頃──河川敷は多くの人で賑わっていることだろう。そろそろ花火が上がり始める時刻だ。先程サイタマに夕飯をどうするかと電話で尋ねたところ「シキミと花火大会に行くから今日はいらない。ヒズミと食っといて」とのことだったので、果たしてジェノスはめでたくもなくぼっちサイボーグと化したのだった。
一人分の食事の材料をスーパーで調達して、黙々と調理して、同じように黙々と口に入れる。いつもはサイタマやヒズミがいるので栄養が偏らないよう頭を使って献立を考えているのだが、今日はその必要がなかったので、つい簡単なもので済ませてしまった。どうにも弛んでいるな──とジェノスは己を叱咤しようとしたが、なぜだかすっかり意気消沈してしまって、とてもそんな気分にはなれなかった。
(少し前まではこれが日常だったのに──)
ひとりで食べて。
ひとりで眠って。
ひとりで起きて。
ひとりで戦って。
ひとりで──生きてきたのに。
それなのに。
なぜこうも空虚なのだろう。なぜこうも──胸の真ん中にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちになるのだろう。
空になった食器をシンクに置いて、さてさっさと洗って片付けてしまうかとゴム手袋を装着したところで、携帯電話が着信を告げた。シキミからだった。
「……もしもし?」
「こんばんは、ジェノスさん。お電話いいですか?」
「別に構わないが……」
「あれっ? そっち静かですね」
「? ……ああ、テレビも点けていないからな」
「花火大会にいらっしゃってないんですか?」
「……一人で行くものじゃないだろう」
「あ、いえ、そうではなくて。さっき出店を回っていたら、ヒズミさんとお会いしたので……てっきりジェノスさんと来ているのかと思いまして」
ジェノスの手から携帯が滑り落ちそうになった。
「ヒズミが? 行ってるのか? 花火大会に?」
「はい。歩きながら焼きイカ食べてました。おっきな麦わら帽子を被ってましたよ」
「麦わら帽子?」
「髪を隠すためだと思います。本人は“ひとつなぎの財宝を探しにグランドライン行こうと思って”とかなんとか言ってましたけど」
「ヒズミは今そこにいるのか?」
「いいえ。ありったけの夢をかき集め〜探しもの探しにゆくのさ〜って鼻唄うたいながら人混みに消えていきました」
「…………そうか」
ジェノスは無意識のうちに項垂れていた。
すると受話器の向こうからなにやら物音がして、次いで聞こえてきたのはサイタマの声だった。
「おー、ジェノス。元気か」
「先生……体調の方は」
「あんだけ寝りゃもう充分だよ。それよりお前いいのかよ」
「は? なんのことですか?」
「とぼけんなよ。お前ヒズミを一人でこんなところほっつき歩かせとく気かよって言ってんだ」
咎めるように言うサイタマに、ジェノスは息を詰まらせる。
「しかし……」
「しかしも案山子もあるかよバカ。あいつまだ完治はしてねーんだろ? 本調子じゃねーんだろ? 放っといていいのかよ」
「……それは……そうですが」
「まあ、お前がヒズミのことをそこまで大事にする気がねーっていうんなら、そんでも俺はいいんだけど」
「そんなことは断じてありません!」
つい大きい声が出てしまった。
しまった──とジェノスは慌てたが、彼が取り繕うより先にサイタマが畳みかけてきた。
「じゃあやるべきことは決まってるだろ。うだうだ言ってねーでさっさと来い。花火まだ始まってねーんだ。打ち上げる砲台かなんかの調子が悪くて、予定より遅れてんだってさ──今からダッシュで来れば、ヒズミと花火見れるかも知んねーぞ」
「先生、……俺は」
「俺はもうこれ以上なんにも言わねーからな。聞かねーからな。あとはお前の好きにしろ。じゃあな」
そして通話は一方的に切られた。つー、つー、と無機質な電子音を流す携帯を耳から離して、ジェノスはしばらく呆然と立ち尽くしていたが──腹を括ったのか、いつもより三割増しの険しい表情で弾かれたように走り出した。玄関を飛び出て、脇目も振らず目的地へと駆ける。
「……いいんですか?」
「あ? なにが?」
「ジェノスさんにあんなこと言っちゃって」
ばつ悪そうにしているシキミとは相反して、サイタマにはまったく悪びれる様子もない。気の抜けた顔で焼きそばをすすっている。ついさっき屋台で購入したものだ。
ちなみに二人は現在、川のほとりの土手に並んで立っている。近くには場所取りらしきブルーシートが敷かれていたり、花火が打ち上がり始めるのを今か今かと待っている人々がひしめいていたり、とにかく密度の高い空間になっていた。やや窮屈であるが、そんな贅沢を言っていられる状況でもない。
「いいんだよ。あれくらい言わねーと来ないだろ、あいつ」
「……そうですね」
「あいつまだまだガキだからな。こうやってオトナが背中を押してやらないと、惚れた女にちょっかいも出せやしねーんだ」
「惚れた女……ですか。ジェノスさんがそう言っていたんですか? その、ヒズミさんのことを……」
「あいつがそんなこと言うわけねーだろ」
「ですよね」
まだ付き合いは短いけれど、ジェノスがそんな軟派な男でないのはシキミにもわかっている。硬派──というよりは、ただ鈍感で意固地なだけというのに近いのも、わかっている。
「いやでも、正直さ。あいつら見てりゃ丸わかりだろ。ヒズミがどうなのかは知らねーけど……あいつ飄々としてやがるしさ。喋ることの半分はジョークだしさ。でもジェノスの方はもうゾッコンだろ、あれ」
「……なんというか、ヒズミさんのことがとても大切なんだなあ、とは感じましたが」
「あいつがヒズミとくっついて、ヒズミん家で一緒に暮らすとか言ってくれりゃあ最高なんだけどな。そしたらどこにも角が立たずに俺は気ままな一人暮らし生活に戻れんだし」
「なんだか──いいですね。そういうの」
シキミが遠い目をして、囁くようにそう漏らした。
「……お前は彼氏とかいないの?」
「いません。今はそのつもりもありません。ヒーローは忙しいんですよ。そんな暇があったら、怪人と戦って世界の平和を守らなきゃですよ!」
ガッツポーズで、冗談めかしてそんなことを言うシキミに──しかしサイタマは笑わなかった。じいっと凝視する眼差しは真剣で、思わずシキミがたじろぐほどだった。
「本当にそう思ってんのか」
「えっ?」
「……教授から、いろいろ聞いたんだよ」
シキミが驚いて目を瞠る。
「お前の体が、その、普通とは違うっていうか……海珍族? だっけ? あいつと戦ったときにお前が自分に撃ったっつーのがものすごい毒だったとかさ。教授から聞いたんだよ」
「……あ……え……っと……その」
「お前を人間って言っていいのかどうかも、教授はわからないって言ってた。なんか体に想像を絶するような変化があったんだろうってさ」
「…………せんせ……」
シキミの動転は火を見るより明らかだった。目を泳がせ、唇をわなわなと慄かせ、膝も笑い出している。
「お前──なにがあったの?」
サイタマの台詞がシキミの心臓に突き刺さる。呼吸がうまくできない。喉が痙攣して声にならない。叫び出したいほど、逃げ出したいほど苦しいのに──
「……とは、俺は聞かないからな」
「………………え?」
「いや、正直すげー悩んでたんだけどさ……」
がりがりとこめかみの辺りを掻きつつ、サイタマは続ける。
「教授いわく、お前の体は普通じゃなくて、長生きさせたいならなんか手を打たなきゃいけない──そうなんだけど。でもお前は、あんまし言いたくないんだろ。打ち明けたくないんだろ。その様子だと」
「あ……あたしは……先生」
「いいんだよ。お前が話したくないことを無理に聞こうとは思わねーし。いつか決心がついたら、そんときに聞く。まあ、早けりゃ早い方がいいんだろうけどさ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃねーって」
サイタマがシキミの背中を軽く叩いた。励まそうとした──らしい。
「……まあ、でもよ。シキミ」
「はい」
「お前がなにを抱えてて、なにで迷ってんのかは知らねーけど……お前がちょっとなんか変だからって、俺は別に引いたりしねーからな」
「先生……」
「俺の周り見てみろよ。手から火ィ噴くサイボーグに、真っ白な頭した電気人間だぞ? 教授もなかなか変人だしよ。あの人の子供ふたり見たか? あれロボットなんだぜ?」
「……いえ……存じませんが」
「そんなわけだからさ。お前が少しくらい普通と違ったって、俺はなんとも思わねーよ。ジェノスもヒズミも、それは変わんねーだろうし。だから──そんなビビらなくていいんだぞ。お前が悪いヤツじゃねーってのは、俺もジェノスもヒズミも、ちゃんとわかってる」
諭すように、宥めるようにサイタマは語る。
シキミの肩が震えた。
「……ありがとう、ございます」
「あーもー、だから泣くんじゃねーよお前」
「だ、だって先生、先生が」
先生が、そんなことを言うから。
シキミが放った、そのぐしゃぐしゃに濡れた幼子のような泣き声は──夜空に弾けた花火の豪快な音に掻き消された。
周囲の人々から、わっ、と歓声が上がる。
「お、始まったな」
「先生……」
「まあ今日のところは楽しめよ。こんだけうるさくちゃ、ろくに話もできねーだろ」
サイタマの言う通りだった。
これまでの沈黙が嘘のように連発される、大小さまざまの、色とりどりの花火。暗黒のスクリーンに咲き誇る一瞬の芸術作品。刹那的な美しさというのは、その儚さゆえに人の心を惹きつけてやまないものだ。
この幸せな時間がずっと終わらなければいい。
夏の風物詩を目に焼きつけながら、シキミはそう願った。
ただ願っただけで。
ただ祈っただけで。
叶うとは──通じるとは思っていなかったけれど。
──それでも。