Pretty Poison Pandemic | ナノ





「いいじゃないですか」
「えっ?」

あっけらかんと言い放ったヒズミに、ニーナは顔を上げた。怒声を恐れる子供のように不安げな、今にも泣き出しそうな彼女をヒズミは見ていない。その目は現在、窓の外の大通りを行き交う人々や車をとりとめもなく眺めている。

「情けなくていいじゃないですか。恥ずかしくたっていいじゃないですか。生きていくっていうのはそういうもんだと思いますよ。私もいつも情けなくて、恥ずかしくて──怖い」
「怖い、ですか」
「怖いんです。怖いんですよ──いろいろなことが。事故に遭う前から、家族とか学校が怖かったし、こんな体になってしまったとわかったときはもちろん怖かったし、命を狙ってきたあなたたちも、まあ、怖かったです。殺される前に心臓が止まっちゃうんじゃないかと思うくらい、怖かったですよ」
「……ごめんなさい」
「あ、いや、責めてるんじゃないんです。すみません。……すみません。むしろ今は、こうなってよかったのかも知れないと思ってるんです」
「えっ?」

目線をニーナに戻して、ヒズミは煙草をくわえた。

「吸ってもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」

ニーナの承諾を得てから、ヒズミはすっかり恒例になった親指での着火を行った。

「こんな感じで。ライター要らずですし」
「はあ……」
「それに──この発電体質を手に入れたことで、この間みたいな化け物とも戦うことができるようになったんです。怖がって逃げてばっかりだった私が、こうやって立ち向かえるようになった。あの事故がなかったら、私は今も“ただ死んでいくために生きていた”と思います」

周りに流され続けて。
自分というものを持たず。
死んでいくためだけに生きていた。

それを変えてくれたのは──

「……いい出逢いもありましたしね」

煙を吐いて、ヒズミは感慨深げに呟く。

「出逢い……ですか?」
「こっちの話っス。だから──ニーナさんも、怖くていいんですよ。騙されたとはいえ、騙られたとはいえ、自分の犯してしまった過ちが重くて抱えきれない。潰されてしまいそうだというのは、お察しします。でもそれは──きっと、罰を受けたからといって、償ったからといって楽にはならないです。なれないんですよ。心の中にずっと残って、雁字搦めにされると思います」
「………………」
「自分と向き合ってください。怖がりながらでも。それからどうするかを考えて、決めてください。私はまだ中途半端で、いい加減で、ぐだぐだと答えを先延ばしにしていますけれど……ニーナさんになら、それができると思います。弱っちくて甘ったれな私とは違って──あなたは“ヒーロー”なんですから」

自分の意志で“敵”を定め、反旗を翻し、あの男の悪事を終結させたヒーローなんですから──と。
ヒズミは唇に煙草を挟んだまま笑った。

「偉そうなことを言って、すみません」
「……いいえ。身に染みました」
「私もいろいろと、片付けなきゃあいけない問題が山積みなんですけどね……」

短くなった煙草を灰皿で揉み消して、ヒズミは鼻の頭を掻いた。

「私に話があるっていうのは、このことだったんですか?」
「いえ。他にもいくつか伝えたいことが」
「聞きましょう」
「あなたが仰った“片付けなければならない問題”のうちのひとつに──ご家族のことは含まれていますか?」

新しい煙草に火をつけようとしていたヒズミの手が、ぎしっ、と止まった。

「……そのココロは?」
「難航していた爆発事故からの復興が進捗して、発見された遺体をX市のシェルターに運搬する作業が始まったのです」
「なるほど──“作業”ですか」
「あ、っ……すみません。言葉が悪かったですね」
「いいえ。気にしないでください。揚げ足を取ってしまったみたいで申し訳ない……それで?」
「……それで、そこにあなたのご家族も運ばれている可能性があります。一段落したら、収容された人々の遺族やその他の近しい身内の者たちに連絡して、遺体の本人確認に協力を仰ぐ予定です。……損傷が激しく、顔などの外見的特徴から判断が困難な場合は、警察から提示された行方不明者のリストから虱潰しに照会していきます。まだ確定した事項ではないのですが、恐らく近日中にこの情報は開示されると思います」
「つまり“私の家族である可能性が高い死体を見て本人かどうか確認してくれ”っていうことですね?」
「……端的に言うと、そうなります」

手中で宙ぶらりんになっていた煙草に改めて点火して、ヒズミは大きく息を吸い込んだ。椅子の背もたれに深く体重を預け、木の骨組みが複雑に絡み合うカントリー風の天井を見上げる。

「このような申し出をするのは、とても心苦しいのですが」
「ニーナさんが気に病むことじゃありませんよ。いずれこういう日が来るとは思ってました。片付けなければならない問題──ですからね」
「その件に関しては、後日また私から通達します」
「お待ちしております」
「それから……もうひとつ」
「いい知らせですか? 悪い知らせですか?」
「それはあなた次第です」

ニーナはきっぱりと、そう断言して──真正面からヒズミを見据えた。

「あなたの人生を大きく狂わせてしまって、その原因を作った張本人である私が、こんなことを頼むのは勝手すぎると──理不尽すぎると、不条理すぎるとはわかっているのですが、厚顔無恥を重々に承知で、お願いします」

そう言ってニーナが隣席に置いていたビジネスバッグから取り出したのは、一枚の紙だった。A4サイズで、皺ひとつないその書類には“契約書”と銘が打たれている。



「大蜘蛛の討伐、巨大隕石の破壊、ひいては先日の海人族の撃退──それら数々の偉業を達成したあなたに、正式に協会所属のS級ヒーローになっていただきたいのです」



「お断りします」
「ええ、依頼の内容が内容です。すぐには返事できないでしょう。強制ではありませんから、少し考える猶予を……って、えええっ!?」

ニーナは椅子からひっくり返って落ちそうになった。

「えっ!? ヒズミさん!? 断る……って」
「私はヒーローなんて柄じゃないスから」
「そ──そんな」
「大体、こないだ深海王がシェルターを襲ってきたとき、私は一般人に手ェ上げようとしたんですよ? 胸倉ひっつかんで。ぶん殴るのは我慢しましたけど……そんな短気で喧嘩っ早いヒーローがいたら市民の反感を買いますよ。大顰蹙ですよ」
「……本当に、拒否されるのですか?」
「はい。すみませんが、お断りさせてください」
「協会に所属していただければ、世間からの奇異の目や、あなたを危険視する派閥の攻撃からも庇い立てしやすくなるのですが……」
「自分の身は自分で守りますよ。“怪人”ですからね」
「そう──ですか」

それ以上ニーナは追及しなかった。ヒズミの意見が変わらないであろうことは、変えられないであろうことは──彼女の目を見れば明らかだった。

彼女は“怖がりながら生きている”と自分を称した。

しかしニーナと向かい合い、こうして言葉を交わしている女性は凛としていて、芯の通った強さを感じさせる。超然とした白い長髪。人間離れした濁りない碧眼。とても美しく、高潔で、神話に登場する戦天使のような風格──とでもいうのか。なにかを恐れ、なにかに怯え、みっともなく逃げ隠れしながら生きているようには、とても見えない。

ニーナは知っている。
気づいている。
彼女の、その目は──
戦う覚悟を極めた者のそれなのだと。

(あなたは──あなたはきっと、自分が思っているよりも、ずっと強いひとですよ。ヒズミさん)

眩しそうに目を細めて、ニーナは契約書をバッグに戻した。

「わかりました。あなたがそう仰るのであれば、私も無理にとは言いません。ただ──もしも心変わりするようなことがあれば、そのときは……よろしくお願いします」
「覚えておきます」
「では最後に、あとひとつだけ」
「はい」
「あなた宛てに預かったものをお渡ししておきます」

ニーナのバッグから出てきたのは、今度は茶色い封筒だった。差し出されたそれを受け取って、ヒズミは中を覗いた。そこに数枚の紙切れが入っているのを確認してから、ヒズミは封筒をジャケットのポケットに捻じ込んだ。

「毎度すみませんね」
「いいえ。あなたの所在は“協会が把握している”ということ以外は厳重に緘口令が敷かれて、伏せられていますから。ここ最近は協会本部までやってきて、噂の生存者とコンタクトを取りたい、という人間が後を絶ちません。下世話な週刊誌の取材や、過激派の怪人撲滅主義団体などは相手にせず追い返してしまいますが──“こういう人たち”なら、話は別です」
「恩に着ます。感謝していますよ」
「これくらいしか力になれませんから」
「とんでもない。助かってます……本当に」
「前にお渡ししたものは、どうしたんですか?」
「部屋に飾ってありますよ」
「そうですか」

満足そうにニーナは笑った。
ヒズミもつられて、口角を上げる。

それから他愛もない会話を二言三言ばかり交わして、ニーナとヒズミは別れた。ヒズミは先に店を出て、どこかへと出掛けていった。現在テーブルについているのはニーナだけで、彼女のコーヒーの横には伝票とくしゃくしゃの千円札が重ねられている。ご丁寧なことに、ヒズミは自分の飲み食いした分の勘定を置いていったのだった。

(自分と向き合ってください──か)

ヒズミに突きつけられたフレーズを脳内でリフレインさせながら、ニーナはカップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。すっかり冷めてしまっていたけれど、それでも頭はすっきりした、ような気がする。

伝票と千円札を掴んで立ち上がる。レジに向かって、伝票はカウンターに、ヒズミが残していった千円札は──そのまま自分のスーツの懐にしまいこんで、アルバイトと思しき高校生くらいの女の子に、ニーナは小悪魔的な微笑で悪戯っぽく、

「領収書ください。名前は“ヒーロー協会”で」

と。
言った。

この世知辛い世の中、ヒーロー協会といえども羽振りは芳しくなく、この財布は今や鬼も裸足で逃げ出すほどの極寒地獄なのだ。給料日前ともなれば、泣きたくなるほど惨めな金額しか入っていない。

なるほど。

自分に正直に生きるのも、なかなかどうして悪くない。