Pretty Poison Pandemic | ナノ





快気祝いと称しサイタマ宅でどんちゃん騒いだ、その翌日。

シキミが腕を奮って拵えた食事の数々をサイタマが「これは本来なら金を払わないと食えない料理だ」と感動しながら貪り、ヒズミも「こんなメシ作ってくれる奥さん欲しい」と言いながらワンカップを浴びるように飲み、シキミはそれを見て嬉しそうにはにかみ、深夜までわいわいがやがや和気藹々パーティを堪能した、その翌日。

ジェノスはヒズミの部屋の前に仁王立ちしていた。

シキミは朝のうちに既に帰宅している。ヨーコには“サイタマ先生の家に泊まる”と連絡しておいてあるが、心配させているだろうから早めに戻ります、とのことだった。真面目だった。

サイタマはヒズミに付き合ってアルコールを大量に摂取したのが響いているらしく、まだ寝ている。ヒズミは途中「私と同じくらい酒呑んだら目ェ回すよ、先生」とそれとなく忠告していたのだが、なにやらスイッチの入ってしまったらしいサイタマは聞く耳を持たず勝手にヒズミとの飲み比べを展開しはじめ、そしてあえなく撃沈したのだった。どうやらアセトアルデヒドの分泌と戦闘能力は比例しないらしい。

(ヒズミもどうせ、まだ眠っているのだろう)

あの酒豪がサイタマ同様に潰れているとは考え難かったが、彼女は先日“怪獣”との戦闘で負った傷を癒すため、睡眠による“充電”を普段より多めに行う必要があるのだ。起こしてしまっては申し訳ないだろうか、いやしかしこまめに様子を見てやってくれと教授に言われているし──と、ジェノスはかれこれ十数分もドアの前で悶々と頭を悩ませている。

というのも。

(どう誘ったらいいんだ……花火なんて)

そう──花火大会。

クセーノ博士から教えてもらった情報によれば、今夜、近くの河川敷で花火大会が開催されるとのことなのだった。ゆっくり話をするにはちょうどいい口実になるんじゃないのか、と唆されて、なんとなくその気になってしまったのだ。

よくよく考えてみれば定期検査の帰りなんかにも充分すぎるほど語らいあってはいるので、今更そんな場を設けて改まる必要などないのだけれど──ヒズミとふたりっきりで夜空に咲く美しい花火を眺めるというのは、うっとりと花火に見入るヒズミの無防備な横顔というのはとても魅力的なシチュエーションのように思われずがん。

ジェノスが壁に頭突きをかます派手な音が響いた。

アパートが揺れる。頑丈なジェノスの額に傷はついていないが、壁は少しへこんでしまい、剥がれた塗料が粉になってぱらぱらと落ちた。

「……なにを考えているんだ、俺は」

呟いた自分の声が思っていたより悲愴感に溢れてしまったことで、ますますジェノスの苦悩は煩雑にこんがらがっていく。

なんだこれは。なんなんだこれは。みっともないにもほどがある。たかだか隣人に“花火を見に行かないか”と声をかけるだけのことではないか。異性と触れ合うのにまだ不慣れな、デートに連れ出すだけで精一杯で四苦八苦な、初恋に翻弄される初々しい男子中学生じゃあるまいしずごん。

壁にクレーターがまたひとつ増えた。

(なにを考えているんだ!! 俺は!!)

これでは。
これではまるで、本当に。

そういう目で、心で、ヒズミのことを──

(……待てよ)

はた、とジェノスは気づく。不本意ながら、こうも大きい音を立て続けに連発しているのに──建物全体が震えるほどの衝撃が走っているのに、まったく反応がないのはどういうことだ。
ヒズミの部屋からは物音さえしない。普通なら起きてもおかしくないのではないか。きっとなにかあったのだ。なにかあったに違いない。そうに決まっている。

寝惚けて冷蔵庫にくっつくような彼女が、そこから引っぺがされて高い高いされて上下にシェイクされてやっと覚醒するような彼女がこれしきのことで目を覚ます道理などないのだけれど、ジェノスは強引にそう理論づけて、ようやく合鍵を使ってノブに手をかけた。勢いに任せてドアを押し開け、無意識のうちに普段より大股になって室内に踏み入っていく。

「ヒズミ? 起きてるか、ヒズミ」

台所にも、リビングにもヒズミの姿はなかった。蛻の殻だった。ローテーブルの上、吸殻の山盛りになった灰皿の隣に──“今日は出掛けます。夕飯も食べて帰ります。すみません”と書かれたメモが置いてあった。

「…………………………」

誰もいない居間の真ん中でがっくりと肩を落とし、そこはかとなく切なすぎる、憐れすぎる、悲しすぎる溜め息を吐き出すジェノスを慰めてくれる者は、残念ながらその場にはいないのだった。



「──へっくちっ」

その頃ヒズミはというと──行きつけの喫茶店“フロラドーラ”の一席で、盛大なくしゃみを零していた。ずっ、と鼻をすすって、向かい合って座っているスーツの女性に「すみません」と軽く頭を下げた。

「随分とかわいいくしゃみですね」
「いやあ、お恥ずかしい」
「少し冷房を弱めるように頼みましょうか?」
「いえ、大丈夫です。誰か噂してんのかな」
「あなたの噂なら、いたるところでされていますよ」
「それは困ったもんですね。ヒーロー協会の力で情報操作して、どうにかしてもらえませんか──ニーナさん」

いかにもキャリアウーマンといった雰囲気の、ニーナと呼ばれた若い女性は、ヒズミの言葉に頬を緩めた。

「それは無理ですね。協会は“地下爆発事故”を揉み消すのに躍起になっていますから。あなたを謎の異能力者としてミステリアスに仕立て上げて、世間の注目を集めさせて、事故そのものの印象を薄めようとしているんです。底意地の悪い、ずる賢くて汚いやり方ですよ」
「……協会の人が、そんなこと言っちゃっていいんですか?」
「嘘はついていませんから」

悪びれもせず、ニーナはしれっと言い切った。

「ついでにリークすると、先日の海人族襲来についても、協会は利用しようとしているようです」
「海人族を?」
「あなたと巨大な海人族が戦っているところを、フリーの記者団体がヘリコプターから撮影していました。そこそこ出来のいい映像だったので、協会が秘密裏に買い取って、報道各社に流そうとしています。直にいろいろなニュースで放送されることでしょう。怪物から一般市民を守った“ヒーロー”として、あなたの顔が全世界に公開されるのです」

ニーナが真剣な口振りで言う。しかしヒズミはおどけたように片眉を上げるだけで、まともに取り合おうとしない。たっぷりと蜂蜜のかかった、カロリー満点のワッフルをのんびりと切り分けて口に運ぶ。

「それはめんどくせーな……。あーあ」
「……私の力がどこまで及ぶかはわかりませんが、あなたがそれを拒むのであれば、私はそのために努力します」
「大丈夫ですよ。ニーナさんに危ない橋を渡らせるのは、ちょっと気が引けます」
「どうか──どうか、遠慮はしないでください。慈悲はいりません。同情もいりません。私は──自分の弱さゆえに騙されて、脅されて、罪のないあなたを殺そうとしたのですから」

冷静だったニーナの面持ちが、痛切に歪んだ。
ヒズミはワッフルを咀嚼しながら首を横に振る。冷えたアールグレイでそれを胃に流し込んでから「終わったことですよ」と口を斜めにした。

「あれは事故みたいなもんでしたし。いやまあ実際に“事故”だったんですけど……もう解決したことですし。黒幕は逮捕されて、めでたしめでたし、と相成ったわけですし。もう掘り返さないでいいんですよ」
「あなたは恨んでいないのですか? 私やアンネマリーを。……テオドールを」
「サラッと呼び捨てにしますね、昔の上司を」

どこか揶揄するように言うヒズミに、ニーナはしかし気分を害した様子はない。

「私は……協会に“諸悪の根源はテオドールだ。部下であるお前は従わされていただけで、責任や処罰を負う必要はない。これからも変わらず平和のために尽くせ”と命じられ、どうしたらいいのかもわからず、言われるがまま協会に残っています。そんな自分が情けないんです。自分では結局なにもできない。なにも決められない。そんな人間が、正義の味方を気取っていたなんて──馬鹿馬鹿しいです。滑稽です。本当に」

ニーナは俯いて、膝の上に置いた拳を強く握った。
ヒズミはそんな彼女に──かつて敵対し、自分の命を奪わんとした眼前のニーナ・スタラーチェという年上の彼女に、いわく言い難い不思議な眼差しを向けている。