Pretty Poison Pandemic | ナノ





退院の手続きは滞りなく終了した。入院の経緯が経緯だけに荷物が少なく、期間も短かったために、クリアしなければならない関門が大して多くなかったのが幸いして、シキミは午前中のうちに晴れて自宅へ帰ることの許された身になった。ヒーロー協会の所有する病院なので、協会所属のA級ランカーであるシキミには──ひいていうなら先日の海人族襲撃において大きな功績を納めた彼女には、医療費の請求なども一切ない。

「……では、あたしはこれで。お世話になりました、教授」
「うむ。息災でな」
「ありがとうございました」
「なにかあれば、私が力になろう。これは私の連絡先だ。いつでもコールしておくれ」

すっかり片付いてしまった個室で、ベルティーユはシキミに一枚の紙切れを手渡した。それを受け取って、大切そうに折り畳んで、シキミはポケットにしまった。

「なにからなにまで、すみません」
「いいのだよ。深く悩める若人のためだ。使えそうなときは気兼ねなく私を使ってくれ」
「……ありがとうございます」
「君が希望するなら、より詳細に検査をすることもできる。……まあ“それじゃあ早速お願いします”とはなかなかいかないだろうから、ゆっくり考えてくれればいい。しかしこれでも私は極めて不安定な特異体質のヒズミの命を預かって、そして今日まで生かしている人間だ。他の誰よりも君のカラダについて深く理解し、正しく分析できると思う──と、要らぬ自慢をさせてもらおう」
「……教授、あたしは」

言いかけたシキミの言葉の続きを、ベルティーユは待った。しかし結局、彼女の口からその先が紡がれることはなかった。そしてそれをベルティーユが咎めることもなかった。

ベルティーユに別れを告げて、シキミは自動販売機や休憩用のソファが設置されたスペースを訪れた。そこにはサイタマとジェノスとヒズミがいた。サイタマは壁にもたれて缶コーヒーをちびちび飲んでいて、ジェノスはソファに姿勢よく背筋を伸ばして座り、その隣ではヒズミが皿に盛られた林檎や桃をむしゃむしゃと頬張っている。貪っている。

「ほ? ほうひはほ?」
「口にものを入れたまま喋るな、ヒズミ」
「んぐ」

ジェノスに叱られて、ヒズミは素直に小さな口の中いっぱいに咀嚼していたフルーツを飲み込んだ。右手にフォーク、左手に皿を持ち、両手が塞がっている彼女のべたべたに汚れた口の周りをジェノスがウェットティッシュでごしごしと強引に拭いた。ヒズミはされるがままになっている。仲睦まじい──というより、もはや親子だ。色気などあったものではない。

「シキミ、もう準備できたのか?」
「あ、はい。荷物そんなになかったので……お待たせしちゃって、すみません」

サイタマにシキミはぺこりと頭を下げた。その拍子に、肩に下げていたスポルディング・バッグがずり落ちそうになって、シキミは慌ててそれを定位置に戻した。

「教授はなんか言ってたか?」
「なにかあったらいつでも力になるから頼ってくれ、と」
「あの人も大概お人好しっつーか、仕事熱心っつーか」
「ありがたいです。本当に」

それはシキミの本心だった。世辞でも建前でもない、偽りない本音だった。こんなふうに他人に心配されて、世話を焼いてもらうなど──今までなかったことだ。

「シキミちゃんも食べる? おいしいよ」

のんびりとした口調で言って、ヒズミが皿を差し出してきた。

「え? それ……」
「昨日サイタマ先生と私が持ってきたフルーツ。こんな早く退院するとは思ってなかったから、でかいやつ買っちゃったんだよな。余って腐らせとくのもアレだろ、もったいねーだろ。だからさっさと食っちゃおうと思って」
「はあ……」
「うまいうまいふまひふはひひ」
「だから口にものを入れたまま喋るなと何度も」

ジェノスの呆れたような叱責を黙殺して、ぱくぱくとメロンを口に運び続けるヒズミ。

「ヒズミさんとジェノスさんは、病院に残られるんですよね」
「そうだ。俺は最終メンテナンスが残っているし、ヒズミも検査がまだ完全には終わっていないからな……夕飯の時間までには帰れるということだが」
「今日はちょっと晩メシ豪勢にすっか。ジェノスとヒズミとシキミの快気祝いに」

背中を逸らして伸びをしながらサイタマが発した提案に、シキミは目をぱちくりさせる。

「えっ? あたしも? いいんですか?」
「……まあ、お前も俺の弟子だし」
「せ……先生……!」
「そのちっせー体で頑張ってたしな」
「…………うううううう」
「!? なんで泣くんだよ!?」
「だ……だって先生……うううううっ……」
「あーもーめんどくせーな! ちょっとティッシュくれ」

ハゲた頭をがしがしと闇雲に掻いて、サイタマはシキミの顔面にジェノスから受け取ったティッシュを押しつけた。

それは女の子の涙を拭うにしてはちょっと優しさが足りない乱暴さではあったけれど、不器用さではあったけれど──シキミにとっては、なによりもかけがえのない、絶対に失いたくない温かさなのだった。



この整備室には窓がないので外の様子は窺い知ることができないが、壁掛け時計の示す時刻から察するに、そろそろ空が赤く染まりつつある頃合いだろう。ヒズミの検査はもう済んだのだろうか、あいつのことだから先に帰ってしまったんだろうな──などとぼんやりとりとめのないことを考えながら、ジェノスはクセーノ博士とゴーシュが戻ってくるのを待っていた。二人は現在ここではないどこかの部屋で、最終メンテナンスの結果を割り出している。計測した数値や各パーツの実動データをもとに、異常がないかどうかの確認を行っているのだった。

(……今日は豪勢にしよう、と先生は仰っていたな。なにか特別なメニューを考えるべきだろうか。しかしこれまでにそういった食事を用意したことはない……この体になってから、祝い事などしたことがない。どうしたらいいんだろうか)

そうこうしているうちに、博士とゴーシュが帰ってきた。ふたりの説明は専門知識のない者にはちんぷんかんぷんの難解な内容だったが、要約すると“全部うまくいったからもうおうち帰っていいよ”とのことだった。ジェノスは丁寧に礼を言って、サイタマの待つアパートへ帰還すべく腰を上げた。

使用していたパイプ椅子をわざわざ畳んで、もとあった収納スペースに押し込む律儀なジェノスに、博士が「そういえば」と声をかけた。

「ジェノス、知っておるか、オヌシ」
「? なにをですか?」
「明日の夜、Z市の河川敷で花火大会が催されるそうじゃ」

──花火大会。

「……いえ、それは初耳ですが」

ジェノスは正直に答えた。

「それをどうして俺に?」
「いや、花火大会といえば格好の“でーとすぽっと”じゃろうと思って」
「……デート?」
「あの白い髪のお嬢さんと」

反射的に脳裏にヒズミの顔を過ぎらせて、なぜかジェノスは腹の奥がざわつくような感覚を覚えた。そこからせり上がってきた妙なむず痒さが、顔の表面温度をかっと上げるような──

「ヒズミとは現在、そういう仲ではありません」
「ほう? “現在”そういう仲ではないのか」
「……………………」

博士が意識的に強調した単語に、ますますジェノスから落ち着きが失われていく。相変わらず無表情なので、他者からは一切なんの変化もないように見えるのだろうが、彼と付き合いの長い博士にしてみればその動揺は一目瞭然のようだった。

「まあ、オヌシとあのお嬢さんがどういう関係なのかはさておいても──ゆっくり対話する機会としてはちょうどいいんじゃないか? いろいろあったし、積もる話もあるじゃろう?」

──積もる話。
それは、まあ、確かに。
なくはない──のか?

「誘うだけ誘ってみたらどうじゃ」
「しかし……急ですし」
「もしフラれたらワシが慰めてやるぞ」
「……遠慮します」
「僕も。話くらい。聞いて。あげ。ますよ」
「結構だ!」

はあ、と盛大な溜息をひとつ零して、ジェノスは今度こそ整備室をあとにした。重たく沈んだ気持ちで廊下を歩いて、今の出来事を記憶から消去しよう、なにか他のことに意識を移し替えようと頭を巡らせながら病院のエントランスに差し掛かって──そこにヒズミがいるのを発見してしまったことで、その画策は虚しくも失敗に終わった。

待合用に備えつけられたベンチで文庫本を読んでいたヒズミは、ジェノスに気づいて軽く手を振ってきた。ジェノスが同じジェスチャで応答したのを見て、彼女は本を閉じてこちらへ小走りに駆け寄ってくる。

「メンテ終わった?」
「……ああ」
「もう帰っていいんだよね」
「ああ」
「じゃあ行こっか」
「俺を待っていたのか?」
「……迷惑だった?」

途端に声のトーンをしゅんと落として、白い眉を下げてそんなことを訊くヒズミに──ジェノスは即「そんなことはない」と言った。不自然なほどの素早さで否定してしまった。言ってから後悔した。

しかしヒズミが安堵したように破顔するのを見て。
そんなことはすぐにどうでもよくなった。

「あーよかった。そんじゃ帰ろ」
「そうだな」
「サイタマ先生とシキミちゃん、待ってるよ」
「そうだな」
「今日の夕飯なに作ろっか」
「……そうだな……」
「煙草も買って帰らねーと」
「そうだ……いや、少し控えろ」

うっかり流れで肯定してしまうところだった。危なかった。

蒸し暑い夏の夕暮れ。生温い風がふたりのあいだを通り過ぎていく。間違っても吹き飛ばされないように──隣にいるヒズミが、恐怖の象徴たる真っ白な髪をはためかせる彼女が、もう二度と不安に怯えることのないように、ジェノスは決意を胸に秘め、しっかりと強くアスファルトの地面を踏みしめて歩いた。