Pretty Poison Pandemic | ナノ





自慢じゃないが、かなり目はいい方なのだ。

だから見間違えたということは絶対に有り得ない。たとえ進級してすぐの健康診断で測定した視力より多少なり落ちていたとしても、あの至近距離で、あのショート・レンジで、あの圧倒的な現象を錯覚することなど──神に誓って断言してもいいけれど、有り得ない。



たったひとりの、生身の男が。
巨大隕石を己の拳のみで破壊したのだ。




あのときは我が目を疑ったけれど──A判定を勝ち取った誇るべき視力を疑ってしまったけれど、しかしそれは揺るぎない事実だった。動かしようもない現実だった。

砕けた巨大隕石は無数の隕石群へと姿を変えて、あわや町全体に降り注ぐかと覚悟を決めかけたが、そうはならなかった。火花のようなものがばちばちと飛び散ったかと思うと、拡散しようとしつつあった隕石群は空中でぴたりと停止した。ものすごい勢いで上空へ押し返されてゆき、そしてゆるやかに雲の流れるあたりの高度で木端微塵に爆発した。

眼前に聳えるビルの屋上で、人間離れした白い長髪を風に靡かせる女性の全身から、隕石の周囲に発生していたのと同じ色のスパークが乱反射しているのが、地上からでもわかった。彼女もタダモノではない──と本能で理解した。

S級ヒーローですら対処しえなかった人類の危機を、災害レベル“竜”を、いともあっさり解決してしまった。
常識を超越する、人智を嘲笑する、桁の違う強さ。
なにものにも負けない、折れない、壊れない強さ。

シキミが心から求め、血の滲むような鍛錬の果てに欲していたのは、まさしくそういうものであった。
それが目の前に──唯一の解答のように現れた。



逃してはならない、と思った。
この運命的な好機を、逃してはならない!



……あれから三日が経過した。
彼女は現在、Z市の郊外に位置する、通称“廃墟地帯”へと足を踏み入れていた。シキミもZ市に在住する身であったけれど、このゴースト・タウンに入ったのは初めてのことだった。噂に違わず──いや、噂以上に人気のない、不気味なほど静まり返った街並み。知らず知らずのうち、冷汗が背筋を伝っていくのがわかる。

「…………ここだ」

とあるマンションの前で、シキミは立ち止まった。白い外壁にはやや薄汚れている箇所があるものの、極端に古めかしい印象ではない。どこにでもある、ごくごく普通の集合住宅であった。

“彼”がここに住んでいるというのは確かな情報だった。巨大隕石騒動から三日、シキミは自身の人脈と情報網を駆使して“彼”についての詳細を集めたのだ。法的にグレーゾーンな行為にも少々ばかり及びつつ、結果としてシキミは“彼”の個人情報をあらかた手中に収めることに成功していた。

“彼”は先日のヒーロー試験にギリギリの点数で合格し、名簿に登録されたばかりなのだという。C級デビューの新人など、社会的には世間的には取るに足らない存在であるけれど、シキミはその彼が多くの人命を救ったことを知っている。その目でしかと見届けている。

一歩一歩、心身を引き締めるように階段を上り、シキミは目的地の前に辿り着いた。ここがあの謎の“彼”の棲家──ドアの前に仁王立ち、一度おおきく深呼吸をしてから、シキミは意を決して扉を強めにノックした。

五回目のノックで、果たしてドアが押し開けられた。
シキミは思わず息を呑んで、現れた人物を見つめる。

中から出てきたのは“彼”ではなかった。顔をほとんど覆い隠してしまうほどの、燃え尽きた灰のような白い蓬髪。その隙間から垣間見える瞳は青く、髪と同じ色の睫毛に縁取られている。肌も血管が透けて見えそうなほど色素が薄い。言葉を選ばずにいうならば、まるでアルビノのようだ。
体型はすらりと細い──というか、細すぎる。健康に支障が出るのではないかというほど肉づきが薄い。

「……どちらさん?」

生気のない、嗄れた声だった。表情も胡乱げである。ひょっとしたら今の今まで寝ていたのかもしれない。

どことなく中性的な顔立ちをしていて、その背丈も平均的な女性の身長値を少し超えているので、ともすれば成長途中の男子にも見える。それを否定しているのは胸部のゆるやかな膨らみだった。大きめのシャツを着ているためにぱっと見はわからないが、痩せぎすの体に相反してそこそこたわわに実ってらっしゃるようだ。シキミを絶望的な敗北感が襲う。

(くっ……がんばれ! これしきのことで負けるなシキミ! これはラッキーだ!)

そう──ラッキーだった。僥倖だった。彼女についての情報は、厳重な緘口令でも敷かれているのか、まったくといっていいほど集まらなかったのだ。

打ち出したあらゆる手段は空振りに終わり、名前さえ知ることができなかった。わかったことといえば──彼女が記憶に新しい“過激な思想に没頭した協会幹部が設立したX市の地下研究所の爆発事故に巻き込まれ、暴走した実験機材の影響を受けて特異体質に目覚めた”ということくらいだった。

大衆向けのニュースで報じられていたこの大騒動は、世間に議論を巻き起こしている。やれ「証拠を見せろ」だの、やれ「本人を公に出せ」だの、やれ「そいつは危険因子ではないのか」だの、やれ「協会ぐるみの動物実験の失敗をごまかしているだけではないのか」だの、頭の固そうなキャスターやコメンテーターたちがそれぞれカメラの前で激論していた。

しかしそれらの意見は、どちらかといえば民衆からは白眼視されていた。時期を同じくして起こった、突然変異により巨大化した蜘蛛による鉄道襲撃事件──それを鎮圧したのが、他でもない、この女性なのだ。乗り合わせていた一般人たちは「彼女がいなければ全員助からなかった」と口を揃えており、それには少なからずヒーロー協会の情報操作も絡んでいるのだろうが、ともあれ世論は彼女を擁護する方向へ傾きつつある。

なぜその身元不明の彼女が“彼”の家から出てきたのかは定かでないが、巨大隕石事件のときに二人の足並みが揃っていたのを見るに、もとよりの顔見知りである可能性が高い。
渦中の人物と、謀らずもこうして相見えることができた。
ツキは自分に向いてきている。そう自分を奮い立たせて、シキミは背筋を伸ばし、努めて低く強そうに聞こえる声を振り絞った。

「突然の訪問、お許しください! わたくしシキミと申します!」
「はあ」
「またの名を──A級ヒーロー“毒殺天使”!」

いまだにこの二つ名で自己紹介するのには抵抗があったけれど、天使とか自分で名乗っちゃうの正直どうなんだと思わなくもないのだけれど、そんなことを言っている場合ではない。

「先日Z市を襲った巨大隕石──未曾有の大災害において、輝かしいご功績を納められたサイタマ様に是非お会いしたく! 参った次第であります!」
「え? サイタマ先生に?」
「……先生?」

二人の関係性がますますわからなくなって、シキミは首を傾げた。
どういうことだ? 師弟なのか?

「サイタマ様にお会いしたいのですが、ご在宅でしょうか!」
「え? さあ……この時間ならいるんじゃないかな」
「? こちらサイタマ様のお宅なのでは……」

困ったように眉を下げて、女性は左を指さした。

「先生んちは、ここの隣」
「………………」

どうやら──やってしまったようだ。

「ままま間違えましたあっ!」

羞恥で顔を真っ赤にして、シキミはぺこぺこと頭を下げまくった。

「すみません! すみません! ごめんなさいっ! 失礼いたしましたっ! すみません!」
「ど……どんまい! 気にすんな!」

気を遣わせてしまった。余計に情けなくなって、涙が出そうだった。

かくして──シキミの果てしない壮大な野望は。
前途多難な幕開けを果たしたのだった。