Pretty Poison Pandemic | ナノ





「さて──ヒズミ。申し訳ないが、この頭の出来がよろしくない私にも理解できるよう、一から詳しく説明しておくれ」

協会直属の病院の、その広い診察室のひとつで、ベルティーユはにこにこと微笑んでいた。スツールに長い足を組んで座り、正面に立つヒズミに女神のような笑顔を向けている。しかしその裏に修羅のごとき憤怒が潜んでいるのをヒズミはひしひしと感じていて、全身に大量の脂汗をかいていた。

「巨大な海人族と交戦しまして、そいつにバイクを壊されまして、ついでに右腕もこうなっちゃいまして……」
「よく聞こえなかったな。もう一回お願いするよ」
「……巨大な海人族にバイクを壊されて、右腕も……」
「んん? なんだって?」
「…………ごめんなさい許してください」

ヒズミが遂に折れた。

「あれほど“無茶はするな”と言っただろう。落雷をわざと受けて取り込んで攻撃に利用しただって? 漫画の読み過ぎじゃないのかい。結果として成功したからいいようなものの、制御に失敗していたら君は今頃ここにはいられなかったかも知れないのだよ?」
「……重々承知してます。反省してます」
「しかし後悔はしていない──といった顔だね。やれやれ」

ベルティーユは重く嘆息して、ボールペンの先で額をついた。

「緊急事態だったから仕方ないとはいえ……。まあ回復の兆しはあるから、右腕は数日くらいで元通りになるだろう。しばらくは“充電”を優先してしっかり行うように。いいね?」
「ういっス」
「念のためにあとでジェノス氏にもこのことは伝えておく。彼はある程度、生体力学の知識にも精通しているようだからね……身内のなかでは、君の体のことをもっとも理解しているだろう。私を除いて、だがね。彼のいうことをよく聞いて、しっかり甘やかされて、たっぷり面倒を見てもらいたまえ」
「……ジェノスくんは」
「大丈夫だ。脳が無事だったから、命に別状はない。全身のパーツを総交換する必要はあるがね。そちらはいま別室で私の“息子”と“博士”が手を尽くしてくれているよ」
「……そうですか……」

ああもこてんぱんにやられていながら、それだけで治ってしまうのか──直ってしまうのか。戦うためだけに強化された体というだけあって、まったく便利なものだ、とヒズミは思った。なにはともあれ、無事だというならそれでいい。ヒズミは無意識に安堵の息を洩らした。

「せっかくだ、少し話してくるかい? まだ現在は修理の途中だから、長時間は難しいが」
「……いえ。遠慮しておきます」
「怖いのかい?」

ベルティーユの問いかけに、ヒズミは押し黙った。答える代わりにベルティーユを真っすぐ見据える。それは、少し前の彼女が──まだ髪が短く、生気に欠けた佇まいで、なにもかも遠ざけて生きていた頃の彼女がよく浮かべていた表情に似ていた。



……夢を見ている。

昔の夢だ。牢獄のようなあの家で、監獄のようなあの部屋で暮らしていたときの夢だ。

光の射さない暗闇のなか、恐怖に駆られて泣き叫びながら、出口を探してがむしゃらに走っている。そこにいる誰もが敵だった。自分に危害を加えようとしていた。肉食獣が獲物を追い詰めるのように、多くの気配が嬉々として自分を甚振っていた。

誰も助けてくれない。
孤立無援の絶望が充満した空間。

誰も助けてくれない。
誰も助けてくれない。
誰も助けてくれない。

だから──強くならなければいけなかった。
誰も助けてくれないのだから。

たとえ自分が絶体絶命に陥っても、誰も助けてくれない。頼れるのは自分だけ。それが世界の真理だった。それだけを信条に生きてきた。それだけを真情に生きてきた。

──けれど。
誰かが助けてくれたような気がする。

いっそ馬鹿馬鹿しいほどの圧倒的な強さで、自分を救ってくれたような気がする。

それは誰だっただろう。
忘れてはいけない、大事な相手のはずなのに。暗闇に溶けてしまって曖昧で、茫洋として、思い出せない。誰だっただろう。あれは──誰だったっけ?

しかし、そのひとに自分は守られた。それだけは確かだった。閉じた世界に一縷の光が見えたような気がして、ゆっくりと目を開ける──



「……おお、目が覚めたか」

最初に視界に入ってきたのは白い天井だった。少し首を傾けると、そこにはヨーコがいた。

「気分はどうじゃ? 愛娘よ」
「ヨーコさん……ここは」
「病院じゃよ。お主の所属する、ひーろーきょうかい、とやらが持っている施設のひとつらしいぞえ。随分と儲かっとるようじゃのう」

自分がベッドに横たえられ、その脇にヨーコが座っているのだということをなんとなく把握して、シキミは体を起こそうとした──が、力を入れた途端に全身を鋭い激痛が走って、思わず顔をしかめた。

「やめておけ。お主の体は動かせるような状態ではない。生きているのが奇跡だと“教授”は言っておった」
「……“教授”……?」

どこかで聞いた肩書きだった。

どうやらここは個室のようで、他にベッドは見当たらなかった。自分とヨーコ以外に人がいる気配もない。贅沢な処遇だなあとシキミは申し訳なく思ったが、身内と気兼ねなく話ができるのはありがたかった。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ヨーコが話の向きを変えた。

「“あれ”を使ったのじゃろ──シキミ」
「……はい」
「已むを得ん状況じゃったのか?」
「あのままでは全員、殺されていたと思います」
「そうか。まあ、大体の想像はつくがの……それでも“保護者”としては看過できんな。儂は数万の民草よりも、お主ひとりの方が──天秤にかける余地すらないほど大事であるゆえ」
「……ごめんなさい」
「よいよい。こうして生きておるのじゃから、それでよい。悪と命を懸けて戦うのがヒーローの務めなのであろ? お主が謝らなければならん道理などない」

ヨーコはからからと快活に笑った。そこに──ドアが控えめにノックされる音が飛び込んできた。大声を出せないシキミの代わりにヨーコが「どうぞ」と返事をすると、スライド式の扉が横に開いて、そこにいたのはサイタマだった。ヒーロースーツではなく、普段着で──安物のTシャツにハーフパンツという極めてラフな格好でやってきて、シキミが起きているのに気づいて目を大きくした。

「おお、シキミ。目が覚めたのか」
「……先生……」
「あ、どうしよ。教授を呼んできた方がいいのか?」
「儂が行ってこよう。サイタマ殿はシキミの側におってやってくれ」

よいしょと立ち上がり、サイタマに有無を言わせる隙すら与えずヨーコは部屋を出て行った。残されたサイタマはとりあえず腰を落ち着けることにした。さっきまでヨーコが使用していたスツールに座り、横になったままのシキミの顔を覗き込む。

「どうだ? 体調は。大丈夫か?」
「……大丈夫です」
「いや、どう見ても大丈夫じゃねーけどな」
「すみません。あたしが不甲斐ないばっかりに……」
「そんなことねーよ。お前はよくやったって」

サイタマがそうやって褒めてくれるのが、逆にシキミの無力感を煽っていた。

「他の皆さんは……どうなったんですか」
「あ? ああ、ジェノスは破損がひどいってんで今も修理中。でもなんか今日中には直るみてーだぞ。ヒズミも怪我自体は大したことないらしいんだけど、教授の“絶対に無茶すんな”っていう言いつけを破った件でさっきものすげー絞られてた。バイクも壊しちまったしな」
「バイク……あの黒い……?」
「そうそう。あれ“教授”がヒズミのために作ったヤツだったんだよ。電気のエネルギーで走る特別製」

シキミの脳裏に、あのとんでもない曲芸走行の記憶が蘇って、血の気の引く思いだった。
それだけでなく、まあ、いろいろあって。
掛け値なく──死ぬかと思ったのだ。
けれど現在、こうして生きている。

──助けてくれたのだ。
目の前の彼が、颯爽と現れて、救ってくれた。

「ありゃ弁償かな。あれ一体いくらくらいすんだろ」
「……先生」
「ん? どうした?」
「ありがとうございました」

シキミの言葉に、サイタマは虚を突かれてぽかんとして──それから、にっ、と笑った。幼子を宥めるようにシキミの頭をくしゃくしゃと撫でる。手入れされた艶のある黒髪が乱れて、枕の上に散らばった。

(頭なんて撫でられたの、何年振りだろう……)

子供扱いされるのは嫌なはずなのに、サイタマの掌はまったく不快ではなかった。むしろとても心地よくて、安心できて──泣いてしまいそうになる。

今にも堰を切って溢れそうな涙を必死に堪えながら、シキミは再び目を閉じた。
温かい微睡みのなかへ、ゆっくりと落ちていく──