Pretty Poison Pandemic | ナノ





「あなた……私の殴打で倒れないなんてやるわね」

深海王の態度が一変した。サイタマになにか──これまでの人間とは異なるものを感じ取ったのだろう。

「今までのゴミとは明らかに違うわ」
「なあに」

深海王の賞賛にも、サイタマのリアクションは薄い。

「テメーのパンチが貧弱すぎるだけだろ」

窮地にいきなり現れ、強敵の攻撃を食らってものともせず平然としている男に、事態を飲み込めない市民たちがどよめいた。ざわめいた。隠しきれない不安を誰もが顔に出しながら、それでも突然やってきた彼が救世主であることを心のどこかで祈っているようだった。

「また誰か現れたぞ」
「ヒーロー?」
「誰だあれ?」
「無免ライダーがやられた……」
「あの顔……ヒーロー名簿で見た気がする」
「俺、知ってる! C級の新人だよ! 確かランキング二位の……噂も聞いてるが……」
「でも……C級か……」
「絶望的な状況は変わらないんだな……」
「でもさっき、殴られたように見えたわ」
「見間違いだろ? あの怪物のパンチで何人もヒーローが吹き飛ばされたのを見てただろ」

深海王は微動だにせずサイタマを睨みつけている。胸に手を当てて、対等な敵と認めた男に対して名乗りを上げた。

「私は深海王──海の王。海は万物の源であり、母親のようなもの。つまり海の支配者である私は、世界中全生態系ピラミッドの頂点に立つ存在であるということ。その私に立てついたという」
「うんうん、わかったわかった」

深海王の台詞を、サイタマは適当な調子で遮った。聞く気がまったくなかった。呑気に濡れて湿った耳の穴を掻いている。しかしその表情には──ともすれば見逃してしまいそうなほど微かな怒気が燃えていた。

「御託はいいんだよ。俺は今──久々にキレそうなんだ」
「……はあ?」
「よくも俺の弟子たちをやってくれやがったな」
「弟子? ……どいつのこと?」
「いや、いいよ。雨降ってるから早くかかってこい」

サイタマがどういうつもりでそう言ったのかはわからなかったが、それは深海王への挑発として成立していた──深海王の挙動は素早かった。ひたすらに凶悪でどこまでも凶暴な、大洋におけるヒエラルキーのトップを自称するのに相応しい力でサイタマに襲いかかった。



そして。
その胴体は──壁のような巨躯は。

なんの変哲もない有象無象のように見えるサイタマの、ただのワンパンによって貫かれた。



胸部に大きい穴が空いた。風通しがすこぶるよくなった。見通しもよくなった。深海王の向こうの景色が──破壊された街並みが、深海王のどてっ腹に生まれた窓からよく見えた。

遺言も、断末魔さえもなく。
深海王は倒れた。
その体の下に夥しい量の血液が広がっていく。
ジェノスの口元がほんのわずか綻んだ。これが自分の師だと誇るかのように。

明瞭に、明確に、深海王は事切れていた。
──すべてが終わっていた。



「えええええええええええええええええええええ!?」



民衆が爆発した。無数の大声量が、歓喜と驚嘆と興奮が綯い交ぜになった叫びの怒濤がシェルターに響き渡る。

「すげー! すげー!」
「なんだ今の! なにが起きたんだ!」
「嘘だろ……」
「何者だよ!」
「やっつけた! 助かったぞおおおお!」
「一発で仕留めちまったぞ」
「ワンパンだよ! ワンパン!」
「助かった……」
「なんでだ!? 他のヒーローが全然太刀打ちできなかったっていうのに」
「C級じゃないの!?」
「強すぎる!」
「実はあんまり強い怪人じゃなかったんじゃね?」

若い男の一人がそう呟いた。ニヤニヤと頬を歪めている。危機から脱却できたことで気が大きくなっているのかも知れない。

「いや、でもいろんなヒーローが負けてるぞ……」
「負けたヒーローが弱かったんじゃね?」
「それは……」
「確かに今の見ると敵が弱く見えたけど」
「そこにいるC級ヒーローが一発で倒しちゃったんだぜ? 負けたヒーローってどんだけ……A級とかS級とかぶっちゃけ肩書だけで大したことないんだな」
「おい、やめろよ……一応……命張ってくれたんだぜ」
「命張るだけなら誰でもできるじゃん。やっぱ怪人を倒してくれないとヒーローとは呼べないっしょ。今回たくさんヒーローに負傷者が出たらしいじゃん? そんな人たちを今後も頼りにできるかっつーと疑問だよね……ま、結果的に助かったからいいんだけどさ。ほとんど一般人と変わらないみたいな弱いヒーローは助けに来られても困惑するだけだから、できれば辞めてほしいな。やっぱヒーロー名乗るからには確実に助けてくれないとさ──」
「……なあ、おい」

自分勝手な弁舌を並べる男の言葉を遮ったのはヒズミだった。こちらへ歩いてくる彼女に、人垣がモーゼのように割れた。その右腕のグロテスクな惨状を間近に見て、誰もが息を呑んでいた。口元に手を当てて嘔吐を堪える仕種をする者もいた。

「お兄さんよ、それ、よく聞こえるようにもっかい言ってくれねーかな」
「は? 誰? あんた誰?」

男の至近距離まで詰め寄って──ヒズミはその胸倉を、焼け爛れた右腕で掴みあげた。ずいっと顔を寄せて、狼狽える男を青く輝く人外の眼光で射抜く。

「もっかい言ってみろっつったんだよ」
「な……なんで!? なんで俺が怒られないといけないの!? ヒーロー協会の活動資金は皆の募金が元になってるんだよ!? お金払ってるからにはちゃんと守ってもらわないと困るよね!?」
「私は協会の人間じゃねーから、よくわかんねーけど──“命張るだけなら誰でもできる”んだっけ? じゃあお兄さん、ここで命張ってみろよ。今から私わやくちゃに暴れっから。命懸けで止めてみろよ。それくらいのこと、誰でもできるんだろ? 好き勝手なこと言ってくれてやがんだから、お兄さんも自分の命くらい簡単に投げ出せるんだろ?」
「ひ──ひぃ……!」

大して凄んだふうでもないヒズミの言葉に、男は怯えて震えあがっていた。ヒズミはしばらく無表情でそんな彼の醜態を観察していたが──やがて心底つまらなさそうに締め上げていた手を緩めた。くるりと踵を返して、なにも言わずにシェルターの外へ出て行った。生きた心地がじわじわと蘇ってきたのか、男は懲りずにまた持論を再開しだした。

「じ、実際、今回はあのハゲてる人が一人で解決しちゃったわけだし、他のヒーローは無駄死にだったよね!」
「やめろって!」

遠巻きに眺めていた他の者が制止するが、男はやめなかった。

「時間稼ぎなんて工夫すれば誰でもできるしさ、他のヒーローって結局なにもヒーローらしい活躍してなくね?」
「とにかく助かったんだ! それでいいじゃないか!」
「そうよ! 確かに他のヒーローは活躍できなかったけどそこを突っ込むなんて性格悪いわよ!」

そんな遣り取りを背後に聞きながら、ヒズミはポケットから煙草を取り出して口にくわえた。すっかり湿気ってしまっていたが、それでもなんとか先端は赤くなって、白い煙が立ち上る。雨足はだいぶ弱まっていたので、火が消えることもなかった。決死の覚悟で戦って倒れ伏すシキミやジェノス、立ち尽くしたままのサイタマのもとへ戻って、どかっと地面に腰を下ろして胡坐をかいた。もう疲れ果てた──とでもいうように。

「…………あっはっはっはっはっはっは!」

突如サイタマが高笑いしはじめた。ヒズミは思わず項垂れていた頭を上げて、目を丸くしてサイタマを見た。しかし彼はこちらに背中を向けているので、表情まではわからない。

「いやーラッキーだった! 他のヒーローが怪人の体力奪っててくれたお陰でスゲー楽に倒せた! 遅れて来てよかった! 俺なにもやってないのに手柄独り占めにできたぜ!」

それは──大きな声で。
民衆の全員の耳にしっかり入るような、大きな声でサイタマは言った。

「あ! お前ら、ちゃんと噂を撒いとけよ! 漁夫の利だろうがなんだろうが最後に怪人を仕留めたのは俺だからな! 本当はただ遅刻してきただけとかバラしたらぶっ飛ばすぞ!」
「え……? どういうこと?」
「あの怪人弱ってたのか?」

人々がさっきとは違う意味で、またどよめいた。ざわめいた。

「倒した本人がそう言ってるけど」
「ヒーローとの連戦でかなり体力を奪われてたのかも」
「いやでも……それでも一撃で倒せるか? 普通……」
「ちょ……ちょっと待てよ。あ、あいつ……サイタマだ……。Z市でインチキ呼ばわりされて話題になってたヒーローだよ……間違いない」
「え!? インチキ!?」
「いや、本当にインチキかどうかはわかってないんだけどさ」
「俺も知ってるよ。いきなり出てきてものすごい早さで順位を上げてるんだよな……」
「怪しい……」

サイタマに懐疑的な目が向けられていく。

「さっきも漁夫の利? それで順位が上がるのか?」
「いやでも一撃はすごくね?」
「大型新人のジェノスさんとかC級ランクトップの無免ライダーとか他のヒーローがぼろぼろになって追い詰めたところを……横取り?」
「なにそれ。ずるくね?」
「まあインチキではない……のか?」

大勢の疑いの眼差しに晒されながら、サイタマは傍若無人な態度を崩さなかった。それどころかへらへらと笑って、

「おいお前ら、倒れたヒーローたちをちゃんと看てやれよ。死なれたら困るんだよ俺が。利用できなくなるだろ」

そんなことを口にした。
ヒズミは呆然としていたが──はっ、と吹き出してしまった。なにを心にもないことを。そうやって自分を悪者にしてまで、敗北したヒーローたちの面子を守ろうというのか。

(あんた、本当に不器用な人だな……先生)

一般人の自己中心的な言い種に激昂して手を上げかけた自分とは格が大違いだ、とヒズミは自嘲的に細い息を吐いた。

「やっぱインチキか?」
「うわあ…………」
「ずるいな!」
「やっぱ比べると他のヒーローの方がヒーローらしいな」
「……怪人を弱らせてくれたヒーローたちがいなかったら、今頃は……」
「ああ、ヒーローたちに──心から感謝だな」

民衆の意見がひとつにまとまったとき、雨が上がった。
雲の切れ間から一筋の日差しが射し込んで、この一大事件に──平和な終結を齎したのだった。