Pretty Poison Pandemic | ナノ
ドーピング、という言葉がある。
薬剤の投与により体機能を一時的に活性化する行為だ。その効果は著しいが、長期に亘って副作用が出るケースも少なくないため、スポーツの競技大会などでは禁止されている。
毒と薬はまさしく表裏一体。
恐らくシキミが自分自身の肉体に行ったのは──そういう反則技なのだろう。
しかし明らかに常軌を逸している、とジェノスは思った。もはやあれは人間の所業ではない。獣のように四つん這いになり、縦横無尽に暴れ、両の瞳を赤く輝かせ、かの深海王を圧倒している。腕の一振りだけで深海王の左脇腹に風穴を空け、今も着実にダメージを蓄積させている。深海王の余裕に満ちていた表情はもうすっかり崩れていて、シキミの猛攻撃によって驚愕と焦燥に塗り替えられていた。
「こ──この……!」
深海王が繰り出した正拳も、シキミはトリッキーな動きであっさり回避してしまう。完全に見切っていた。握ったままの愛銃のグリップで深海王の顔面を殴りつける。もはや“トリガを引いて発砲する”というだけの知性も残っていないのだろう。原始的な暴力ばかりが連続しているが、それらは確実にアタックとして成立していた。それほどの──桁外れの戦闘性能。
これなら──
これなら勝てるかも知れない!
非常識的な光景を目の当たりにして動揺していた民衆のあいだに、新たな希望が生まれつつあった。
しかしジェノスの目にはそうは見えなかった。とても手放しで喜べる気分ではなかった。
確かにシキミの乱打は効いているようだが、傷を負わせる度に深海王は再生している。じわじわと体力を削ってはいるようだが、深海王を力尽きさせるまでには遠く及ばないだろう。それに、ジェノスの推測が当たっているのなら──シキミが施したのが己への“ドーピング”だというのなら、その効果は恐らく短期的なものに過ぎないはずだ。こんな無茶苦茶な強化なのだから、そう長くは続かないに決まっている。
そしてそれは──その通りなのだった。
「…………っぐ、う、うう……」
がくん、と。
糸が切れた操り人形のように、シキミの体がなんの前触れもなく頽れた。地面に膝をついて、肩で荒い息をしている──“ドーピング”の効果が遂に切れたのだ、とジェノスは直感した。肉体のリミッターを強引に除外した、その反動が一気に彼女へ押し寄せている──
「あらぁ? 電池切れかしらぁあ?」
傷だらけの深海王が、消耗しきった様子のシキミを見て、にたりと口角を吊り上げた。防戦一方から一転、その恐ろしい顔には苛烈きわまりない優越が戻っていた。
「一体なにしたのか知らないけど、やるじゃないの、あなた。びっくりしたわ。地上にもこんな“化け物”がいたのねえ」
──“化け物”。
深海王が発したその単語に、シキミは反応した。憔悴しきった眼差しで、しかし芯の通った強い反抗心を湛えて、深海王を睨んだ。
「……あたしは化け物なんかじゃない」
「なに言ってるの? どこからどう見ても“化け物”だったわよ、あなた。私にここまでダメージを負わせるなんてね。まあ──もう治るけど」
深海王の述べた通り、その全身の傷はみるみる塞がって治癒していく。元通りになっていく。
(やっぱり、あの量じゃせいぜい保って数十秒が限界……こんなところで終わるわけにはいかないのに! 動け! 動いてよ! 動けってば──あたしは……あいつを倒さなきゃいけないんだ……!)
立ち上がろうと死力を振り絞っていたシキミの体は、深海王の手によって軽々と持ち上げられた。鋭利な爪の生えた太い指がシキミの首に巻きついて、甚振るかのようにゆるく締め上げている。空中に吊り上げられたシキミの手はヴェノムを握ってはいるもののだらりと垂れ下がったままで、足は地についておらず、身を捩って抵抗することさえできずにいた。気を抜いたら酸欠でブラックアウトしてしまいそうだ。
「ぐ……っうあ……」
「ほら、さっきみたいに暴れ回ってみなさいよ。ほら。人間どもを私から守るんでしょ?」
侮蔑を込めてせせら笑う深海王から、シキミはしかし目を逸らさない。生殺与奪を握られた絶望的な状況のなかで、まだ、彼女の心は折れていない。
深海王の頭部に、雨ではない液体が付着した。シキミの口から吐き出されたそれは血の混じった唾液だった。普段の彼女ならば絶対にしないであろう下品な行動。光を失っていたシキミの瞳がゆっくりと、また鮮烈な深紅へ変貌していって──
「……溶解液のお返しよ、サカナ野郎」
下等生物の鬱陶しい不屈の精神──深海王は苛立ちを露にした。
「もういいわ──さっさと死ね」
怒りに任せて深海王はシキミを思いきり放り投げた。その衝撃を受けて──ごきっ、という嫌な音がした。掴まれていたあたり、鎖骨の骨でも折れたのだろうか。シキミは放物線を描いて中空に投げ出され、そしてコンクリートの地面に激突──しなかった。
受け止められた。
何者かの──腕によって。
「……よくやった」
聴覚に異常が出ているようで、膜が張ったように不明瞭で、はっきりとは聞き取れなかったけれど──それは聞き慣れた彼の声だった。
「ナイスファイト、シキミ」
「せん、せ……?」
ぼろぼろのシキミを支えていたのは。
遅れて駆けつけてきた、サイタマだった。
「ま〜たまた、ゴミがしゃしゃり出てきたわねえ」
深海王が笑みを深くした。腹立たしさをぶつける遊び道具が増えた──とでもいうように。
「先生……先生……!」
「もう喋んな。お前はよくやった」
「あたし──あたし……あたしは……」
「喋んなって」
言い募ろうとするシキミを、サイタマは静かな口調で制した。彼の後ろにはヒズミも立っている。途中でたまたま合流したらしい。よくよく見るまでもなく、ヒズミの右腕が筆舌に尽くすのも躊躇われるほど惨憺たる有様になっているのに気がついた。趣味の悪いスプラッタ映画のワンシーンのようだ──あの“怪獣”との戦闘で負った傷だろう。
「ヒズミさん……腕が……」
「私の腕よりシキミちゃんの方が重傷だろ。他人の心配してる場合じゃねーよ」
口調こそ軽かったが、ヒズミの顔つきは普段と明らかに違っていた。いつもの飄々とした、おどけた感じなど欠片もない。
「……あたしより……ジェノスさんが……」
「ジェノスくんが?」
「あ……あっちで……倒れて……」
サイタマにもたれかかるように座り込んだ姿勢で、シキミは震える手でそこを指さした──ボディのほとんどを失って体積が半分になったジェノスが、虚ろな眼をシキミに、ひいてはサイタマとヒズミに向けていた。サイタマはぎょっと目を剥いて大声を出した。
「お……おいジェノス! おま……生きてんのかそれ!?」
「先……生……」
「…………ジェノスくん」
ヒズミがジェノスに歩み寄る。これといって取り乱したふうでもなく、彼の傍らに屈んで、その徹底的に破壊されつくした全身を間近で見つめた。ジェノスを構成する複雑な部品の数々が熔けて本来の形を失っている。ジェノスは黙ったままなにも言わないヒズミの心理を表情から読み取ろうと試みたが、彼女の顔は白髪に隠れてしまっていたため失敗に終わった。
「お前……その腕は……あの“怪獣”に……」
「そうじゃねーだろ」
「……ヒズミ?」
「そんなことは今どうでもいいんだよ」
抑揚のない声で、ヒズミは続ける。
「あいつにやられたんだな?」
“あいつ”というのは。
深海王のことを指しているのだろう。
「そうなんだな、ジェノスくん」
「ま、待て……お前だって万全の状態では……」
「そう心配すんなって」
ぞわり、と。
ヒズミを取り巻く空気が変わった。
「──ちょっとぶん殴ってくるだけだから」
純度の高い炎のように青く弾ける双眸の、その瞳孔が完全に開いていた。立て膝をついた格好のまま肩越しに振り返り、火傷しそうなほどに冷えきった眼光で深海王を射抜く。
ヒズミの全身に電流が漲って、一瞬でチャージが完了して、いざ雷撃を叩き込もうとして──その左腕を、いつの間にかすぐ側に来ていたサイタマが掴んだ。
「はい、ストップ」
「……先生。離して」
「断る」
「先生まで丸焦げにしたくねーんだけど」
「お前の気持ちはわかる。けど──ここは俺に任せてくれねーかな」
ヒズミはそこで初めてサイタマを見上げた。いつになく真剣な目をした彼と視線が交差して、交錯して──
「……そうやっておいしいところ全部まるっと持ってっちまうんだな」
「悪りいとは思ってんだ」
「いや──そういうもんなんだろ。ヒーローってのは、そうじゃねーとさ」
ヒズミはそう言って、悪戯っぽく肩をすくめた。そして自分の腕を掴んでいたサイタマの手が離れると、その掌を軽く叩いた。ハイタッチするような──バトンタッチするような仕種だった。
「そんじゃ、あとは頼んだ、先生」
「おう」
「早く帰って煙草吸いたいんで、巻きでお願いします」
「…………まあ、ちょっと待ってろ。いま海珍族とやらをぶっ飛ばすからな」
サイタマは力強く宣言する。
「聞こえてるのよ!」
蚊帳の外にされていた深海王が怒鳴って、後ろからサイタマの頭を殴りつけた。生身の常人ならばこの一撃で沈んでいただろう──生身の“常人”ならば。
サイタマは痛がる素振りすら見せず、怪物に思いきりどつかれた後頭部を気遣うこともなく、ただ怒りに燃える“正義の味方”として──ぎろり、と深海王を睥睨する。