Pretty Poison Pandemic | ナノ





装填してあった“弾薬”をすべて抜いて、シキミは首から下げていたベンダントを引き千切った。そこには赤黒く、どろりとした液体が詰まったガラス製の小瓶がぶらさがっている。親指ほどの大きさしかないその小瓶の、コルクの栓を抜いて、シキミは中身をスペアの空薬莢に注いだ。その試験管状の容器の半分ほどが、その得体の知れない血のようなおどろおどろしい液体に満たされる。

(“これ”を使うのは、四年振りか──)

冷汗が背筋を伝い落ちていく。強敵に対する恐怖──はもちろんあるが、それだけではない。自分が行使せんとしている“奥の手”への怯懦と緊張が、シキミの鼓動を速めていた。

眼前でジェノスが激闘を展開している。もはや目で追うこともできない。硬いもの同士が強くぶつかる音だけが絶え間なくシェルターに反響して、残響して、凄まじさを物語っていた。シキミはふらふらと立ち上がって、愛銃“ヴェノム”を両手に構えて持ち上げる。

──と。
そのときだった。

「が……がんばれ──お兄ちゃんっ!」

幼い子供の声だった。そちらへ視線を移すと、かわいらしいぬいぐるみを大事そうに抱えた、小学校低学年ほどの女の子が、親に手を引かれていた──必死に戦うジェノスへ向けて声援を飛ばしたのだろう。

「うるさい」

反応したのはジェノスではなく深海王だった。ぐるり、とその女の子へ顔を向けて、口から夥しい量のなにかを吐き出した。それは液体で、酸に似た刺激臭がシキミの鼻をついて──

(──……溶解液!?)

女の子を庇おうとシキミは反射的に飛び出したが、間に合わなかった──しかしその幼気な罪のない子供が、深海王の無慈悲な攻撃に晒されることはなかった。

ジェノスが──
身を呈して盾となったのだ。

じゅううううううう、という焼けるような、熔けるような音──溶解液の直撃を浴びたジェノスの体が、鋼鉄によって構成されたボディが──ほんの一瞬にして、原型を失った。

残されていた左腕も溶け落ち、体幹を支えていたと思われる背骨状のパーツが剥き出しになり、上半身のほとんどが抉られたように消失し、頭部の人工頭髪も後ろ半分が根こそぎにされて鈍い銀色の装甲が露になっていた。思わず目を背けたくなる惨状に──悲鳴も出なかった。

深海王の攻撃はそれで終わりではなかった。ジェノスの頭を鷲掴みにし、思いきり投げ飛ばした。壁に激突したジェノスを、さらに絶望的な殴打が襲う。壁にもうひとつ穴が増えて、そこから彼は外に放り出された。深海王もその穴を飛び越えて、シキミの視界から消えた。弾かれるようにそれを追って、シキミは有り得ないものを見た。

豪雨に打たれる深海王の、喪失したはずの右腕の──その断面の肉が不気味に盛り上がったかと思うと、瞬時に再生したのだ。深海王というだけあって、水に濡れることで体機能が活性化するのか──と、シキミは目の前の光景に打ちひしがれた。

「まさかガキを庇って自滅するなんて、私も考えつかなかったわ」

足元に倒れ伏すジェノスを見下ろしながら、勝利を確信して、謳うように深海王は言う。

「あなた馬鹿だけど私に軽傷を負わせたことは高く評価するわ。もう治ったけどね」

両腕と体のほとんどを失い、動くことすらままならないジェノスが、それでも必死に足掻いている。しかし逃げられるはずもなかった。このままでは──殺されてしまうだろう。

(う……ううう……っ!)

半狂乱になりながら、シキミは気力を振り絞って銃を構えた。しかしあのジェノスでさえ、こうも簡単にやられてしまった化け物に、自分の“奥の手”が果たしてどこまで通用するのか。ひょっとしたらまったく歯が立たないかも知れない。腹癒せに散々遊ばれた挙句に殺されるかも知れない──シキミの決意が揺らぎかけていたそのとき、深海王になにかが投擲されたことで、その思考は停止した。

それは──自転車だった。
大型スーパーなどでも売られている、ごくごく普通の、なんの変哲もない量産品の自転車だった。それが深海王の背中にぶつかって、やはり大したダメージを与えることもなく、地面に落下した。

深海王が振り返る、その目線の先にいたのは──

「正義の自転車乗り──無免ライダー参上!!」

高らかに名乗りを上げたそいつを、シキミは知っていた。特撮ヒーローのようなスーツを纏い、ヘルメットとゴーグルを装着した彼は、C級トップの、無免ライダーだった。彼もまた協会からの要請を受けて駆けつけたのだろう──けれど。

「よ……よせ!」

ジェノスが制止するのも無理はない。遠巻きに眺めるしかない民衆たちも、全員が同じことを思っていただろう。S級の彼が手も足も出なかったのだ。いくらランカーの頂点にいるとはいえ、C級の人間が太刀打ちできる敵ではない。案の定──彼は深海王に、玩具のように弄ばれる結果となった。人形のように振り回され、放り投げられ、相手にすらされていなかった。

「あー、ごめんね。とどめ刺すの遅れちゃって」

無免ライダーから意識を外して、深海王はジェノスに向き直った。だが──その歩みを止めようとするかのように、無免ライダーが深海王の背中に縋りついた。

「ジャ……ジャスティスタックル」
「……はあ?」
「うう……期待されてないのはわかってるんだ……」

無免ライダーは深海王の、まるで羽虫を払うかのような腕の一振りだけですっ飛ばされた。雨に濡れた地面を滑って──それでも彼は立ち向かおうとするのをやめなかった。

「C級ヒーローが大して役に立たないなんてこと……俺が一番よくわかってるんだ! 俺じゃB級で通用しない。自分が弱いってことはちゃんとわかってるんだ……!」
「なァにぼそぼそほざいてるの。命乞い?」
「俺がお前に勝てないなんてことは……俺が一番わかってるんだよぉッ……!」

今にも倒れ込んでしまいそうな前傾姿勢で、しかし無免ライダーは自分の足で立っている。

「それでもやるしかないんだ……俺しかいないんだ……勝てる勝てないじゃなく! ここで俺はお前に立ち向かわなくちゃいけないんだ!」
「……わけわかんないこと言ってないで、早くくたばりなさい」

誰の目から見ても、C級ヒーローである無免ライダーに勝ち目はなかった。
しかし。
人々は最後の希望を彼に託していた。

「頑張れ!」「そいつを倒してくれ!」「頑張ってくれ!」「口から吐く液に気をつけて!」「ファンだ! 死なないでくれ!」「無免ライダー!」──彼を奮い立たせる言葉のシュプレヒコールが谺する。民衆の熱い気持ちに背中を押され、無免ライダーは深海王に飛びかかっていったが──

ごきん、
という鈍い音。

無免ライダーの顎を捉えた深海王の拳によって、彼は倒れた。今度こそ再起不能になった。

「無駄でしたぁ」

深海王が嘲るように言った。

──無駄?

彼のしたことは無駄だったのか? そんなわけがない。臆せず立ち向かって、怯まず戦い挑んだのだ。その勇気が無駄であるはずがない。彼は──彼は紛れもなく、偉大なヒーローとして、その役目を全うした。

勝てる勝てないじゃなく。
ここで立ち向かわなければいけないんだ。

俺しかいないんだ──と。

(……その通りだ)

シキミは深呼吸する。腹部はまだ鈍痛を訴えているが、動けないほどではない──戦えないほどではない。大粒の雨に濡れながら、シキミはしっかりとした足取りで、深海王の前に立ちはだかった。

「お、おい、あれは──」
「ど……毒殺天使だ! A級の毒殺天使だ!」
「あの子も来てたのか!」

シキミの登場に気づいた群衆がにわかにざわめきだした。彼らの命運は、いまや彼女の肩に乗っている。シキミの小柄で華奢な背中に、すべてが委ねられている。

「……あなた、また出てきたの? もう飽きてきたんだけど。そういえば、さっきあなたが撃った弾も妙だったわね。もう治ったけど。まあでも、やられっぱなしは面白くないわね。右腕の借りは返してあげるわ」

深海王が、邪悪な笑みを湛えてシキミを見据えている。

「あたしは負けない。負けるわけにはいかない。やれるものなら、やってみなさい──深海王!」

笑っている凶暴な化け物を睨み返して、シキミは“ヴェノム”のグリップの感触を確かめるように握り直した。一発だけ弾丸の込められた手中の愛銃に、いろいろなものが懸かっている──賭けられている。

決着のときが近いことを知らせるように、はるか上空の濃い雲のなかで、雷鳴が閃光とともに轟いた。