Pretty Poison Pandemic | ナノ





彼は迷っていた。

災害レベル鬼の緊急事態の真っ只中、悠長に考える猶予など欠片もないこの状況下で──ヒーロー協会のオペレーターである彼は、迷っていた。

「敵の場所知ってんなら教えてくれ」

受話器の向こうでそう話す彼は、C級2位のサイタマと名乗った。体力試験で新記録を連発し、S級ヒーローと協力して隕石を破壊した功績を持つ男だった。しかし過去に格闘技やスポーツで成果を納めた背景がなく、素性が不明なためにインチキだと噂されている──その本人なのだった。

(本来ならC級は止めるべきだが……)

彼の逡巡など知らず、謎の新人は「雨降ってるから早くしてくれ」と緊迫感に欠ける口調で急かしてくる。どうすべきか悩んで──彼はその正体不明の男に賭けることにした。

「わかった。今から指示する場所に急行してくれ」

彼がサイタマに伝えたのは、J市の避難所──災害用に建造されたシェルターであった。用件を聞くだけ聞いて、通話はサイタマの方から切られた。

さて。
賽は振られた。
藪を突ついた。
果たして、鬼が出るか、蛇が出るか。

彼は組んだ手を顎に添えて、眼前のモニターに意識を集中させた。それはともすれば、神に祈るようなポーズでもあった。




「あ、あの──ジェノスさん!」
「なんだ。無駄話をしている余裕は──」
「ヒズミさん、本当に大丈夫なんですか!?」

避難所へ向けて疾駆しながら、シキミが並走するジェノスへ問うた。全身を機械によって強化したサイボーグの青年と同程度のスピードで走りながら、大声で会話ができるところを見るに、彼女もなかなか人間離れした肉体の持ち主であるらしい──A級の肩書は伊達ではないようだ。

「……あれも海人族なら、俺の焼却砲やお前の銃よりは、ヒズミの電撃の方が相性はいいはずだ。水は電気をよく通す」
「そんな単純な──」
「あいつはやれると言った。俺はあいつを信じる。だが」

ジェノスはそこで言葉を切って、目を眇めた。

「海人族を排除して、すぐ助けに行く。あいつは──ヒズミは俺が守る」

強い決意を感じさせる語調だった。まるで御伽話に出てくる騎士のようだ、とシキミは思った。

やがてシェルターが見えてきた。あらゆる衝撃にも耐えられるよう特殊な工法で造られた外壁に、既に大きな穴が空けられていた。そこから大勢の悲鳴がうっすら漏れ聞こえてくる。

「……ッ! ジェノスさん!」
「一足遅かったか──」

舌打ちして、ジェノスは更に速度を上げた。さすがのシキミも置いていかれるほどのスピードで、彼はあっという間にシェルターへ迫る。そして飛翔といって差し支えない勢いで高々と跳躍し、ドーム型のシェルターの屋根付近へ一瞬で登っていった。その最中で、鮮やかに空中を舞う彼の、その手に今まで持っていた黒いバッグが突如として変形するのをシキミは確認した。複雑なギミックによってそれは籠手のような形状へ変化し、鎧となってジェノスの体へドッキングした──合体した。

呆気にとられるシキミを清々しいほど置き去りにして、ジェノスは外壁に等間隔に並ぶ窓のひとつを割って内部へ侵入した。一瞬の静寂。シキミが闇雲に動かしていた脚を緩めかけた──そのときだった。

すさまじいエネルギーの砲弾が、シェルターの内側から壁を破壊した──林立する周囲の建造物ごと抉り取った。鼓膜が破れそうな地響きとともに、一帯が大きく揺れる。

「い──今の、ジェノスさんが……?」

十中八九そうだろう。
なんとも桁外れな威力だった。どこまでも規格外のサイタマと一緒にいるせいで霞んでしまうが、彼も驚異的な実力の持ち主なのだということを改めて実感させられる。

次いで耳に飛び込んできたのは、割れんばかりの歓声だった。危機が去って、避難所の中にいた市民たちが歓喜しているのだろう。なんとも呆気ない、素気ない、味気ない終わり方ではあったが、なにはともあれ、これでひとまずこの場の脅威は潰えた。一刻も早く戻ってヒズミの助太刀に馳せ参じねば──とシキミが方向転換しかけたところで、

たった今ジェノスがぶち壊した壁の穴から、高速でシェルターの内部へ突っ込んでいく影を視界に捉えた。

あれは。
あれは敵だ──と。
シキミの本能が直感した。

恐らくジェノスが一撃を食らわした海人族だろう。あの非常識的な高熱砲を受けてなお生きている──どころか、あれほどの身体能力を維持したまま動いている。一筋縄ではいかない化け物だ、とシキミは瞬時に判断し、太腿に巻きつけていたベルトに手を伸ばした。そこにくっついているホルスターから愛銃を解放して、脇目も振らずシェルターへ走りながら“弾丸”を装填する。

崩れた壁から怒濤の勢いで避難していた一般人たちが外へ溢れてくる。その隙間を、身を低くして掻い潜り、シキミはシェルター内へ侵入した。そしてすぐに片腕のないジェノスが海人族と応戦しているのを発見する。ジェノスと互角に──否、それ以上に殴り合っているそいつは頭に王冠を乗せていて、ご丁寧に“自分が長である”と主張してくれているかのようだった。

(あれが──“深海王”か!)

ソニックが言っていた──敵の全貌か。
ヒーローごときが束になっても勝てはしない、などと──好き勝手を言われてしまったけれど。
だからといって、逃げるわけにはいかない。

シキミは銃口を深海王に向けた。いくら図体がでかいとはいえ、ジェノスと激しい肉弾戦を演じている標的を正確に撃ち抜くのは至難の業だった。どんな射撃の名手でも、成功率は低いだろう──しかし。
シキミは。
A級ヒーロー“毒殺天使”は怯まなかった。

彼女の銃撃戦を目の当たりにしたことのある同業のプロフェッショナルは、かつてこう証言している。
“俺たちは目標のいるところに撃つが、あれは撃ったところに目標がいる”と。
百発百中──などというありふれた賞賛では生温い。

引鉄が絞られ、放たれた猛毒の弾丸──銀の注射器のような形をしたそれは、寸分違わず深海王の右肩に突き刺さった。

「……ッ……なァにいこれェエえええ!?」

深海王が攻撃の手を止めて、叫ぶ──それほどに異変は顕著だった。シキミの撃った弾丸が命中した部位の皮膚が、まるで沸騰する熱湯のようにぼこっ、ぼこっ、と泡のように膨らんで、黒く変色して、溶け落ちたのだ。ずるりと深海王の肩から先が──右腕が体から繋がりを失ってパージされる様は、腐敗した果実が輪郭を失うのにも似ていた。

「ッッッよくも私の腕をォオおおおお!」

深海王の怒りの矛先が、ジェノスからシキミに切り替わった。猛然とシキミへ吶喊し、残った左腕を大きく振り回す──その一撃は紙一重で躱したが、時間差で繰り出された鋭い前蹴りには反応が間に合わなかった。容赦のない一蹴が、シキミの腹部にもろに入った。

「っぐぅう……!」

めきっ、と骨の砕ける嫌な音が体の内側から直接シキミの耳に届いた。軽々と吹っ飛ばされて、コンクリートの床に叩きつけられる。その衝撃で肺から空気が強制的に絞り出されて呼吸が止まった。無様に転がるシキミにとどめを刺そうとにじり寄ってくる深海王の横っ面に、ジェノスの渾身の正拳が炸裂した。

再びジェノスと深海王の乱打戦が開幕して、シキミは痛む全身に鞭を打って上体を起こした。息を整える間もなく、せり上がってきたものを嘔吐する。赤い液体がぶちまけられた。折れた肋骨が内臓に傷をつけているのかも知れない。口の中にひどく不快な鉄の味が充満して気持ちが悪い──が、そんな些事に構っている場合ではない。

(信じられない……。普通なら、腕だけでなく全身の骨まで腐って即死に至るはずの猛毒なのに……想像以上だ。こうなったら“奥の手”を出すしかない──いや)

奥の手。
そう、奥の手──シキミが胸の裏に、肚の奥に隠す最終手段。
しかし“それ”はシキミ自身にも大きなリスクを伴う諸刃の剣なのだった。深海王にダメージを負わせることはできるだろうが、こちらもただでは済まない。

ジェノスも深海王と対等にやり合っているように見えるが、徐々に押されはじめている。片腕を奪われ、さらに周囲には守るべき、庇うべき市民がいるのだ。思うように全力を出せるはずがない。

それに──ヒズミも現在、あの恐ろしい巨大怪獣と戦っているのだ。彼女は自分の圧倒的な放電能力でもってなんとか足止めしているのだろうが、それもいつまで保つかわからない。事態は既に一刻を争っている。

(このままじゃ……みんな死んじゃう……!)

愛銃“ヴェノム”を握る手が震える。シキミは情けなくかたかたと鳴りそうになる奥歯を強く噛みしめて──覚悟を決めた。

やるしかない。
自分が──やるしかないのだ!