Pretty Poison Pandemic | ナノ
(ああ……先生とはぐれた)
J市に入ってから間もなく、ジェノスは同行していたはずのサイタマの姿が見えなくなっているのに気づいた。探そうかどうか迷って、やめておいた。それよりも今は“海人族”とやらを速やかに排除することを優先すべきだと判断した。手に提げている、取っ手のついた鞄のような形状をした黒色の“なにか”を強く握りしめ、再び歩を進める。
市民はあらかた避難してしまったようで、背の高いビルの立ち並ぶ通りに人の姿はない。今にも泣き出しそうな顔色の曇り空から轟く、太鼓を打ち鳴らすのにも似た耳障りな雷の産声がジェノスの聴覚を刺激していた。未知の相手と戦闘を行うシチュエーションとしてはあまり都合のよくない状況である。
だから。
ジェノスの反応が一瞬、遅れてしまったのは──仕方のないことだったと言えよう。
横から飛んできた一撃を超速の反応で防御できたのは幸運だった。ガードした腕は折れこそしなかったものの破壊的な衝撃に軋んで、踏ん張った足はアスファルトを削って数メートルの轍を描いた。
(──来たか!)
ジェノスがその眼に捉えたのは──八本の太い触手をざわざわと蠢かせる、巨大な蛸のような体を持った化け物だった。
敵を視認するやいなや、ジェノスは掌の砲口に熱エネルギーを集中し、一気に放つ。焼却砲の直撃を受けた大蛸はあっという間に焼け焦げてその場に崩れ落ち、全身から煙を上げて動かなくなった。
難なく倒した──が、それで終わりではなかった。
たったいま消し炭と化した大蛸の仲間らしき海人族がぞろぞろと姿を現してきたのだ。極悪なサイズの鋏を振りかざす蟹のようなものもいれば、鋭く尖った牙を光らせ地を這う海蛇のようなものもいる──その数、ざっと──三十ほど。
(……囲まれてしまったか)
それぞれ一体一体の強さはさほど脅威でもないが、これだけの軍勢を相手にするとなると骨が折れそうだ。多勢に無勢──こちらもただでは済まないかも知れない。
しかし。
こうなってしまったら──もう。
「やるしかないな……」
ジェノスが本格的に戦闘態勢に入った、その瞬間。
猛烈なエンジン音がどこからともなく聞こえてきて──どんどん大きくなる。こちらへ迫ってくる。
その突撃はジェノスが生体反応を探ろうとするより速かった。
白い一閃が、海人族の群れを貫いた。
さながら稲妻のように──
「………………!?」
数匹の海人族が戦闘不能に陥り、倒れ伏したことで、塞がれていたジェノスの視界が開けた。そしてものすごいスピードでこちらへ向かってくる一台の大型バイクと、そこに乗っているふたりの若い女性に目が釘付けになった。白い蓬髪を風に晒して暴れさせているノーヘルの運転手と、その運転手に全力で縋りついて振り落とされまいとしている同乗人、どちらにも見覚えがあった。ジェノスは唖然として、速度を緩める気配のないそのバイクを見つめている──
「半分くらいは仕留めるつもりだったんだけどな……」
運転手──ヒズミが舌打ち混じりに吐き捨てる。しかし背後のシキミはそんな独り言に構っている余裕はないようで、涙目になりながらヒズミの肉の薄い腹にしがみついている。
「シキミちゃん」
「──!? ……〜〜〜……ッ!?」
「ちょっと揺れるから全力で頑張って」
そんなことを言われても生憎もう既に全力である。全身全霊である。そう反論したいのだが、思うように舌が回らない。これ以上激しく振り回されたら目標の怪人に相見える前に死んでしまう。ていうかまだスピードが上がるのかこのバイク、法律的にアウトな仕様なんじゃないのか、そういえば特別製とか言ってたし──と混乱する頭をフル回転させて意味のない思考に没頭していたシキミを、しかしヒズミは鮮やかに裏切った。
加速はしなかった。
進路を──変えただけだった。
ほとんどドリフトのような動きで九十度、転回した。体勢を持ち直す力を利用して前輪を持ち上げ、ウィリー走行する姿勢になって、なんと目の前のビルに突っ込んでいく。
浮いた前輪がビルの外壁に触れて、あわや大クラッシュ、と思われたが──そうはならなかった。
そのまま駆け上がっていったのだ。
支えもなく、後押しもなく、壁面を走って──上へと。
そしてビルの屋上近く──地上の海人族が拳くらいの大きさに見えるほどの高さまで来て、ヒズミは思いきりハンドルを切った。バランスが崩れて、車体は空中に放り出される。
急に負担が少なくなって、いっそ無重力めいた体の軽さを感じて、シキミはやっと自分の置かれている状況を理解できる状態になった。曇天のもと、視界は良好でなかったけれど、はっきりと見えた。把握できた。
……地面が遠い。完全に浮いている。
なるほどこのバイクには飛行機チックな変形が可能なギミックが隠されていたんだな、と思ったが、残念ながらそんな奇跡は起こらなかった。車輪が推進力を失って空転している。
と──いうことは、つまり。
……落ちる?
「……っっっきゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
恥も外聞もなく悲鳴など上げてみたけれど、どうにもならなかった。車体はその重量に比例する、ものすごい勢いで急降下を始めた。海人族の群れめがけて、ぐんぐん落ちていく──
「いいィやっほおおおおおおおおおおおおおおお!」
同じくヒズミも絶叫してはいたが、シキミの叫喚とは明らかに質の異なるものだった。どこまでもハイでアッパーでクレイジーな雄叫びを高らかに響かせながら、蟹のような出で立ちをした海人族の脳天に華麗に着地した。メガトン級の物理的な一撃を食らって、そいつの外殻は無惨に割れて砕けて緑色の体液がいっそコントのように噴き出した。
「くっっったばりやがれええええええええ!」
蟹の頭に乗っかったまま、ヒズミがハンドルから右手を離し、大きく振り上げる。そこから閃光が迸ると同時に高圧電流が周囲を蹂躙し──フラッシュが収まる頃には、海人族はすべて丸焦げになっていた。ヒズミの渾身の電撃の餌食となっていた。
「……………………」
その渦中で一部始終を目撃していたジェノスは、あまりの事態についていけず呆然自失といった面持ちで乱入者に──アクロバティックな大立ち回りを演じたヒズミに視線を向けている。そんな彼にヒズミは、相変わらずの締まりのない顔で、へらりとシニカルっぽく笑ってみせた。
「お困りのようじゃねーか、ヒーロー?」