Pretty Poison Pandemic | ナノ





シキミがサイタマの部屋を訪問すると、サイタマはドアの前に立っていた。いつものヒーロースーツに身を包んで、まさにドアに鍵を差し込んで捻ろうとしているところだった。ちょうど帰宅したところなのか、はたまたこれから外出しようとしているのか。

「先生! おはようございます!」
「おー、シキミか」
「どこか出掛けられるんですか?」
「いや、いま帰ってきたとこ」
「そうだったんですか。……潮の香りがしますね」

すん、と鼻をわずかに動かして、シキミが言う。

「えっ、わかる? 磯臭い? しまったなー、匂い染みついたらどうしよ。クリーニング出す金なんかねーぞ」
「あ、いえ、あたし普通の人より鼻が利くので……言われなければ、わからないと思いますよ」
「そう? ならいいや」
「海に行ってきたんですか?」
「海から来た怪人を通りすがりに倒してきた」

こともなげに放たれたサイタマの台詞に、シキミは多大なるショックを受けたようだった。

「そ、そんな……! サイタマ先生の戦い方を目に焼きつける貴重なチャンスが……」
「別に大したことはしてねーよ。そんなに強くなかったし。ワンパンで終わっちまったし。それより、お前」
「はい? なんでしょう?」
「今日は制服じゃねーんだな」

サイタマの指摘通り、今日のシキミは私服であった。薄手の生地のブラウスに桃色のフレアスカートという、ファッション誌からそのまま飛び出してきたようないかにもゆるふわガーリィな服装で、サイタマの目にはとても新鮮だった。

「終業式が終わって、一度帰って着替えてきました」
「そうか、そういや夏休みなんだったな……」
「あ、それで、帰ったときに保護者から──ヨーコからこれを預かってきました」

差し出されたのは手提げの紙袋だった。サイタマがそれを受け取って、中を覗き込むと、包装紙で丁寧に包まれた箱が鎮座していた。そこにプリントされていたのは、和菓子を専門に扱う老舗の名店のロゴだった。そういった界隈のことには疎いサイタマですら名前を知っているクラスの高級チェーンである。

「木次屋のかりんとう饅頭だそうです。よろしければ、どうぞ召し上がってください」
「いいの? これめっちゃ高いやつじゃねーの?」
「“これから娘が世話になるゆえ、こういったご挨拶はきちんとしておかねばならんだろう”と申しておりました」
「……律儀な人なんだな」

感服のあまり、うっかり眩暈がしそうだ。

「人というのは礼儀を重んじる生き物じゃからのう、とかなんとか」
「はあん。……じゃあ、ありがたくいただくとするか。さっそく食おうぜ。入れよ」
「え? あたしもいただいていいんですか?」
「どのみち一人じゃ食えねーしな」
「ジェノスさんとヒズミさんがいらっしゃるのでは?」
「あいつら今日デートだから」
「……お付き合いなさってるので?」
「友達以上恋人未満、みたいな。ジェノスはいっつもヒズミがーヒズミがーってそりゃもーうるっせーけど、ヒズミがジェノスをどう思ってるのかは知らん。今日もヒズミの定期検査に無理矢理ついてってるんだよ。ヒズミも実は鬱陶しがってんじゃねーのかな、あんな四六時中ひっついて回られたら」

サイタマは冗談めかして笑っていたが、シキミにはそうは思えなかった。少なくとも自分の目には、あのふたりは意思の通った比翼連理に見えたのだ。十数年ばかりしか生きていない、圧倒的に人生経験の足りない自分の浮かれぽんちな思い込みなのかも知れないけれど。

「帰りは遅いんでしょうか」
「いや、いつも夕方くらいには帰ってくるぞ」
「そうなんですか。……あの、よろしければさっき先生が交戦したという怪人について詳しくお聞かせ願えますか?」
「……そんな話すことねーけどなあ」
「どんな些細なことでもいいので! 是非っ!」

こんなに必死に懇願されてしまってはお茶を濁すこともできない。サイタマは観念して自分の行動を改めて振り返りつつ、女子高生の弟子の柔肌を炎天下の直射日光から保護すべく室内に招き入れた。



「ジェノスくんはさ、もうちょっと目上の人間に対する敬意というか遠慮というか、そういうものを身につけた方がいいんじゃねーかなと私は思うんだよ」

協会本部に程近い喫茶店“フロラドーラ”の奥まったボックス席に向かい合って、ヒズミとジェノスはのんべんだらりと語らい合っていた。内装はカントリー風で、天井に木の骨組みが交差している。スローなジャズが気怠げに流れていて、忙しない外界から隔絶され時間の流れすらゆったりと感じられる落ち着いた雰囲気のこの店が、ヒズミのお気に入りなのだった。定期検査が終わったあとはここに立ち寄って一服するのが習慣になっている。

「歳が上だからという理由だけで謙遜するのは性に合わない」
「……先生にはあんな腰が低いのに」
「先生は偉大な方だからだ。年齢がどうとか、そんなことは関係ない」
「教授にも一応は敬語だし」
「教授には世話になったからな。あのひとに救われた場面も、多々あった。恩を感じている」

無表情でマンデリンのカップに口をつけるジェノスを、ヒズミはやれやれといった目で見つめた。どうも脳味噌は自前らしいが、本当はそこも機械なんじゃないかと思わせるほどの融通の利かなさだ。まあ──それが彼らしさだろうといってしまえば、そうなのだけれども。

「……さっきの」
「んあ?」
「さっきの男には、なにを言われたんだ」

普段の三割増しくらい愛想のない声音でジェノスが訊ねてきた。ヒズミは顎に手を当てながら明後日の方向に目をやって、

「別に。定期検査を強いられてるって話をしたら、俺も昔はそうだったって。似たもん同士だなって。それくらいだよ」
「……仲間意識があるのか?」
「まあ、まさかS級ヒーローがそんな扱い受けてたなんて思っても見なかったし。驚きはしたかな。機会があるなら、もうちょっとゆっくり話を聞きたいかも知れねーなあ」
「…………そうか」

ジェノスの方を見ていなかったヒズミは、彼がまるで子供のように拗ねて口をへの字に曲げるのに気づかなかった。

「教授からは、なにか言われたか?」
「今回は異常なしだって。細かい数値の変化は想定の範囲内だから問題ねーってさ」
「そうか。一安心だな」
「…………うん」

テオドールとの面会許可が下りたことについて打ち明けようかどうか迷って、言わなかった。終わったことなのだ。自分のために粉骨砕身してくれた彼にまた心配を──また負担をかけてしまうのは嫌だった。喉元まで出かかったカミングアウトを、ヒズミは冷えたレモンティーとともに嚥下して胃に収めた。

こうやって、どこまでも噛み合わずにすれ違っていってしまうふたりなのだった。

「今日の晩メシどうしようかなあ」
「無理して毎日拵えなくてもいいんじゃないか。今日くらいゆっくり休めばいい」
「いや、一日サボると癖になるからさ。根が自堕落だし」
「そうだな」
「そこはちょっと否定しろよ」
「事実じゃないことは口にできない」
「ひでー男だな」

けたけたと笑うヒズミに、ジェノスの鉄面皮も気持ち緩んだようだった。

「こないだイタリアンで、昨日は中華だったから──今日は和食にしようかな」
「スーパーへ買い出しに寄るか?」
「よし、そうしよう。もう一服してもいい?」
「……あまり吸い過ぎるな」

ジェノスの忠告もどこ吹く風とばかりに、ヒズミは素早く煙草に火をつけた。紫煙が立ち上り、不規則に踊って、そしてすぐ空中に溶けて見えなくなる。

儚く消えていく白色が、どこか目の前の彼女に似ているように感じられて、ジェノスの眉間にひとつ皺が増えた。