Pretty Poison Pandemic | ナノ





「夏休みだーっ!」

ツルコが拳を天高く突き上げ、勇猛な雄叫びを上げた。

「夏休みだぞ皆の衆! 備えよ! これから始まる天国の一ヶ月に備えて槍を持てーっ!」
「あんた夏休みをなんだと思ってんの?」 
「なにって戦よ! 夏の陣よ! 長期休暇の乱よ! もっとテンション上げなさいよあんたたち! これからあたしたちガラスの十代の楽園が幕を開けるのよ! 壊れそうなものばかり集めてしまうのよ! しゃかりきコロンブスよ!」
「ツルコごめん、日本語でおk」

およそ高校生らしくないツルコの弁舌に、シキミはうんざりしながらプラスチックの下敷きでぱたぱたと顔を扇いでいた。

「シキミなんでそんなローにギア入ってんの? ヒメノもなんとか言ってやってよ」
「夏休みなんて……アバンチュールな季節なんてクソだ……だからみんな死んでしまえばいいのに……」
「エヴァ劇場版かよ! 生きろ! そなたは美しい!」
「うわあああんアシタカ様みたいな彼氏ほしい!」
「あたしハウルがいい! イケメンと動く城で旅しながら暮らしたい!」

すっかりメーター振り切ってしまっている友人ふたりの会話を右から左へ聞き流しつつ、シキミは下敷きを団扇にしながらスクールバッグに教科書を詰める作業に勤しんでいた。もうしばらくこの学び舎へ来ることはないので、荷物はすべて持って帰らねばならない。

終業式も滞りなく済んだ現在、教室はツルコと同じように高揚しきったクラスメイトでひしめいていて、一帯に浮かれた雰囲気が充満していた。わいわいと、がやがやと賑やかしい喧騒でちょっと耳が痛い。

「いいのよ私は。お盆にビッグサイトで二次元嫁を死ぬほど保護してくるから」
「そんなこと言ってるから振られんのよ、あんた」
「うっさい! 三次元なんてクソだね! あークソだね!」
「んで、どうせシキミは“先生”とやらとずっと一緒なんでしょ? 本当つまんない。面白くないよぉ! ねー修行なんかやめて海行こうよ海」
「馬鹿なこと言わないで。せっかく弟子入りできたんだから、一生懸命がんばりたいの」
「ぐああああああ真面目だ! こいつ真面目だっ! この怪人クソ真面目! そのやたら長い睫毛ごっそり抜けろ! 靴下ぜんぶ片方だけなくなれ! カレーいつも水っぽくできろ! 歩く度にタンスの角に小指ぶつける呪いにかかれ!」

その後もひっきりなしに海へ行こう海へ行こうと食い下がってきたツルコを無理矢理ひっぺがして、シキミは今日もサイタマのもとへ向かうべく、ひとり校門をくぐった。
ぎらぎらと容赦ない日差しの下、ゴースト・タウンを目指す。



“診療室”という簡素なプレートが掲げられたこの部屋に来るのも、もう何度目になっただろう。無駄に広い協会本部で最初はよく迷子になったものだが、今ではすっかり内部構造が頭に入ってしまった。ヒズミは無造作に垂らした髪の隙間から隠しきれない困憊を覗かせながら、控えめにドアをノックした。

「どうぞ」

女性の声で応答があった。ノブをひねって、押し開ける。

「やあ、ヒズミ。ご機嫌いかがかな」

室内でローラーのついた椅子に座っていた白衣の女性が、ヒズミに柔和な微笑を向けた。壁際に置かれたデスクの上に散らばったカルテの上に肘をついて、優雅に足を組んでいる。そのポーズがとても様になっていて、まるでそういうふうに創られた芸術品であるかのような気品が漂っていた。

「変わりありませんよ──“教授”」
「ふふ、それは重畳だ。座りたまえ。いつものことながら、検査で疲れたろう」
「もうぐったりです。こうも毎回毎回レントゲン撮られたりCTスキャンされたり血ィ抜かれたり、そっちで死にそうスよ」
「それはすまないね。しかし必要なことだから、大目に見てほしい。理解を示してもらえると嬉しいな」

やれやれと患者用のスツールに腰を下ろしたヒズミに、教授と呼ばれた女性──ベルティーユはさっそく話を始めた。

「今回は、まあ、異常なしだな。前回と諸々の数値は変わっているけれど、それは“進化”の影響だ。想定の範囲内であるから、問題はない。血中の成分濃度も大丈夫そうだ。内在する電圧の限界が天井知らずに上がり続けているのは気がかりだから、まだ定期検査の必要はあるが」
「自分の体ながら困ったもんスよ」
「まったくだね。睡眠は? きちんと摂取できているかい」
「それなりに。いつも三時間おきくらいに目は覚めますけど、一応ちゃんと寝てますよ」
「中途覚醒か……ふむ、それは芳しくないな。典型的な不眠の症状だ。肉体が活性化しているせいか、それともまだ精神状態が安定していないのかな」
「前ほどひどくはないんですけどね。過呼吸で飛び起きることも減りましたし」
「減った、ということは、ゼロになったわけではないのだね。それはいけないな。睡眠が不充分だと、脳にも悪影響を及ぼす。ジェノス氏に添い寝でもしてもらったらどうだい」

ベルティーユがしれっと放った提案に、ヒズミはずっこけそうになった。

「……なんでそうなるんスか」
「寂しい夜は人肌の温もりに癒してもらうのが一番だからね」
「いや人肌の温もり皆無でしょう、あの子」
「それもそうか。保温性の人工皮膚を用意しておこう」
「結構です」

額を押さえてきっぱりと断言したヒズミに、ベルティーユは不思議そうに肩をすくめた。

「そう頑なに拒否することもあるまい。君自身はどうだか知らないが、少なくともジェノス氏は君のことを憎からず思って──想っているように見えるのだが」
「嫌われてないとは思ってますけどね……思いたいですけどね。まあ、ジェノスくんのはたぶん庇護欲ですから。放っとけないだけでしょう。野良猫に情が移ったみたいなもんですよ」
「……これは大変だな」
「は? いや、ありがたいと思ってますけど」
「大変なのは君じゃない。ジェノス氏さ」

齢も二十一を過ぎて、こうも鈍感になれるものか。
ああも熱烈にアプローチされておいて。

「ジェノス氏も大概なかなかどうして朴念仁だが、君も大したものだよ。それでちょうどいいのかも知れないがね……年長者は黙って見守らせてもらうとするよ」
「はあ……」

ベルティーユの真意がいまいち掴めず、ヒズミは曖昧に頷くことしかできなかった。

「さて、問診はこのくらいにしておくとして──もうひとつ大事な話があるのだよ」
「大事な話?」
「“黒幕”の彼に面会許可が下りた」

ベルティーユの言葉に、ヒズミは反応した。

「…………テオドール」
「ああ。まだ裁判は終わっていないが、会って話をすることはできるようになったらしい」
「どうしてそれを、私に?」
「あるだろう? 彼に言いたいことが。たくさん」

言いたいこと。
それは──あるだろう。山ほどもあるだろう。なにせそいつこそが自分の人生を大きく狂わせた張本人なのだ。こんな体にされて、住んでいた街を根こそぎにされて、挙句の果てに命をも狙ってきて、その死体まで利用しようとした男なのだ。

しかし。

「今更ですよ」

ヒズミは力なく息を洩らして笑った。

「なにを言っても、終わってしまったことはどうにもなりません。彼を断罪しようという気も私にはありません。それは司法の仕事です。私がどうこうできる領域じゃない。関わろうとは思いません」
「怖いのかい?」
「……そうかも知れません」

自分の根幹にあるもの──“恐怖”。
それは頭髪が真っ白になってしまうほどの。

心に深く根づいたその負の感情は、きっと一生つきまとって離れることはないのだろう。
消えることはないのだろう。

「もう逃げないとは決めましたけど、自分が手を出さなくても解決することに首を突っ込む気はありませんよ」
「そうかい。君がそう言うのならば、私はそれを尊重する。この話はもう終わりだ。二度としないと息子と娘に誓うよ」
「そうしていただけると、ありがたいスね。……すみません」
「謝ることじゃあない。今回の定期検査はこれで終了とする。今日は電車かい? それとも早速“あれ”に乗ってくれているのかな」
「今日は電車で。まだ“あれ”で公道を走るのは怖くて」
「そうかい。残念だね」

ベルティーユは気落ちしたらしく、口角を下げた。

「練習は毎日してますから、そのうち普通に乗れるようになると思います。今日はジェノスくんが迎えに来てくれることになってるんで」
「彼も忙しい男だなあ」
「ひとりでも大丈夫だって言ったんですけど、俺が迎えに行くって聞かなくて。いくらなんでも過保護すぎますよ。小学生の父親じゃねーんだから」
「父親というよりは、彼氏じゃないのかい」
「……そういうの本当いいっスから。うっかりその気になっちゃったらどうしてくれんスか」
「大家の権限で、君の部屋を防音壁に改造してあげるよ」
「あなたならやりかねないのが怖いです」
「ふふふ。私は有言実行の女だからね」
「……それじゃ、失礼します。ありがとうございました」
「うむ。次回また会おう。息災で」

診療室を出て廊下を歩きながら、ヒズミはジェノスに検査が終わった旨のメールを送った。近場で時間を潰すと言っていたので、恐らくすぐにやってくるはずだ。それでも一服するくらいの余裕はあるだろう。ジャケットのポケットに右手を突っ込んで、そこに押し込まれていた煙草の箱を手持ち無沙汰に弄びながら、ヒズミは白い髪を揺らめかしつつ喫煙室へと歩いた。