Pretty Poison Pandemic | ナノ





「……それにしても、苦労してんだな、お前」

うら寂びれたゴースト・タウンを並んで歩きながら、サイタマがぽつりと呟いた言葉にシキミは顔を上げた。

「えっ?」
「ヨーコさんからいろいろ聞いた。その……親がいなくて、親戚のところで育てられてたとか」
「ああ……」

シキミは伏し目がちに苦笑いした。

「いろいろありまして」
「複雑な事情があって出てきたって聞いたけど」

あの得体の知れない風格を持つ“保護者”が複雑というからには、相当に──相応に、複雑なのだろう。部外者が土足で踏み込んでいい領域なのかどうかサイタマにはわからなかったが、曲がりなりにも一応は彼女の“先生”にあたる立場なので、ある程度くらいは知っておきたいと考えての質問だった。

「……両親は、交通事故で他界しました」

重々しい口調でシキミがつらつらと語りはじめた。

「父と母の恋仲を周りは大反対して、でもそれを押し切って、ほとんど駆け落ちのような形で結婚したそうです。あたしが──あ、いや、わたくしが」
「いいよ、無理に丁寧語じゃなくて」
「すみません……それで、あたしが三歳のとき、事故が起こりました。あたしは母方の家に引き取られました。望まれなかった子なので、風当たりは強かったです。嫌なことをたくさん言われました。ひどい仕打ちもされました。自分が馬鹿にされたり、口汚く罵られたりするのは我慢できましたけど、父や母について悪く言われるのは、すごく悲しくて。でも子供にはどうすることもできなくて、あの頃は毎日泣いてました」
「…………それで」
「それである日、もう耐えきれなくなって、家を飛び出しました。着の身着のまま、荷物も持たずに家出したんです。でも母の実家は──その、なんというか、すごい山奥だったので、あたしはあっさり遭難しました。このまま情けなく野垂れ死ぬのかな、と覚悟を決めかけていたところをたまたま拾ってくれたのが、ヨーコさんでした」
「え? 山奥で? たまたま?」

サイタマが述べたのは、至極当然の疑問だった。シキミは努めて明るい口振りを心がけながら、それに答える。

「世捨て人だったそうです。人里を離れて山に篭って、自給自足、晴耕雨読の隠遁生活をしていたらしくて。私の話を聞いて、ヨーコさんは「じゃあ儂の娘になるといい」と言ってくれました。山から下りて、アパートまで借りて、諦めていた高校にも進学させてくれました。ヨーコさんは「儂は家事ができんから、そういった世話を焼いてくれればそれでよい。その他に礼などいらん」と笑っていましたけれど、せめて自分の生活費くらいは自分で稼ごうと思って、偶然チラシで見たヒーロー試験を受けました。もともと運動神経はよかったですし、その……ある程度は鍛えていたので、合格することができました。スタートはB級で、それからちょっとずつランクが上がっていって、現在A級です」
「……大したもんだな」
「いいえ。あたしはまだまだ未熟です。弱くて──いつも、負けてばかりです。だから強くなりたかった。自分の大事なものを自分で守れるくらい強くなりたかった。だから、サイタマ先生を初めて見たとき──心から思ったんです。かっこいい、あんなふうになりたい、って」

シキミはサイタマを見上げた。
純真な憧れに潤んだ瞳にまっすぐ射られ、サイタマは思わず目を逸らしてしまう。

「一生懸命がんばりますので、強くなるためならなんでもしますので──どうか、なにとぞ、よろしくお願いします!」
「………………ああ、うん」

二十五年ものあいだ生きてきて、かつて経験したことのないヘヴィな罪悪感がサイタマにのしかかっていた。重い。重すぎる。ジェノスいわく“大してハードでもない一般的な筋力トレーニング”だけでここまで来てしまった自分が背負うには余りある女の子だった。

そうこうしているうちに、目的地のバス停に到着して、シキミはサイタマに深々と頭を下げた。

「送っていただいて、ありがとうございました。ここからは、もう大丈夫ですので」
「おう。気をつけて帰れよ。……ヨーコさんによろしく」
「はい! また来ますね!」
「……そうしょっちゅう来て大丈夫なの? 学校の……ほら、宿題とか課題とかさ……」
「大丈夫です! 明日から夏休みですから!」

屈託なく笑うシキミ。
サイタマはその場に膝をつきそうになった。そうか。そうか夏休みか。そういわれてみればそんな季節だ。世の学生連中が浮き足立ち、年に一度の長期休暇に胸を弾ませ心を躍らせる魅惑のシーズンだ。
と──いうことは。

「……時間はたっぷりあるわけですね?」
「そうですね。ヒーローとしての仕事がなければ、毎日来れると思いますっ! ……あ、さすがに毎日はご迷惑ですか?」
「…………いや」

こんなにも期待にきらきらと輝く眼差しを前にそうだ迷惑だ遠慮しろなどと言える男がいるだろうか。いやいない。反語法など使ってみたところで──無意味だった。サイタマは諦観の境地に達しながら遠い目をして、いつまでも頭を下げ続けているシキミにひらひらと手を振りながら自宅への帰路についた。



とぼとぼと沈んだ足取りで戻ってきたサイタマを出迎えたのは、直に胃袋を刺激して食欲を喚起するようなスパイシーな香りだった。底が深めのフライパンを木箆で混ぜながら、ヒズミが廊下を通るサイタマに「おかえり」と気のない台詞を投げた。ジェノスはその隣でゴム手袋をはめて洗い物をしている。役目を終えた調理器具を片付けているところのようだった。

「死にそうな顔してんな。どーしたの」
「……いや、あの子がさ……」
「え? なに? まさか手ェ出しちゃったの?」
「ちげーよ馬鹿!」
「そうか、遂にやっちゃったのか。テレビ取材とか来たら“いつかやると思ってました”って言っとこう」
「ちげーつってんだろ! オイ!」
「そうカリカリすんなって。犯した罪は償えばいいんだって。メシ食って元気を出そう。今夜のメニューはなんとなんと激うま麻婆豆腐でっせ、旦那」
「……くだらない冗談はさておいて、先生、どうしたんですか? もしや彼女になにか言われたのですか?」
「言われたっつーか……聞いたっつーか……藪から蛇が出たっつーか」

はあ、と盛大に溜息をついて、サイタマは廊下を過ぎてリビングにのっそり座り込んだ。その後ろ姿は哀愁に満ちていて、状況の飲み込めないヒズミとジェノスは顔を見合わせた。

フライパンの中でいい塩梅に仕上がりつつある麻婆豆腐が歌う魅惑的な音をBGMに、三人の夜は今日もとりとめなく更けていくのだった。