Pretty Poison Pandemic | ナノ





「おはようございますっ! 先生!」

今日も今日とて制服姿のまま、学校から直でシキミがやってきた。その表情はきらきらと希望に輝いている。一変の汚れもない無垢な笑顔に、サイタマの内にむくむくと罪悪感が湧き上がってきた。

「……なんかごめん」
「えっ? どうして謝るんですか?」
「いや、その…………ごめん」

サイタマの不可解な態度にシキミは?マークを浮かべていたが、快く家に上げてもらえたのが存外に嬉しかったらしく、そんな些細な疑問はあっという間に霧散したようだった。通されたリビングではジェノスがなにやらノートと向かいあって一心不乱にペンを走らせていた。シキミに一瞥もくれることなく、筆記作業に夢中になっている。

「早速ですが、サイタマ先生」
「……なに?」
「サイタマ先生は普段どのような鍛錬をされているのですか? 教えてください。もし可能であれば、見せていただきたいのですが」
「……最近は、その、ほとんど……」
「なるほど、もう極めてしまわれたと! さすがです!」

なんとも好意的な解釈だった。
悪意すら感じるほどに。

「では、これまではどういったトレーニングをされていたのですか? 先生ほどのお方なら、さぞや厳しい訓練をなさっていたかと思うのですが」

ちょこんと正座して、真っすぐサイタマを見つめて質問を投げかけるシキミ。あまりにも真剣すぎて、真摯すぎて、直視することができない。ジェノスが押しかけてきたときとは事情が違う。なにせ既に弟子入りを許可してしまっているのだ。邪険に扱うことなど、適当に受け流すことなどできない。

「……腹筋とか、腕立て伏せとか、ランニングとか……」

本当のことを話す以外に道はなかった。ぼそぼそと力なく呟かれたその内容に、シキミは最初きょとんと目を丸くしていたが──すぐさま得心いったというように「ああ!」と手を打った。

「まずは肉体を強化しろということですね! 高みばかりを目指して基礎をおろそかにせず、当分は体力や筋力の向上に努めろと、そういうことですね! 勉強になります!」
「……………………」

なんとも殺人的な素直さであった。
今時の若者には珍しい。
サイタマはもう涙ちょちょぎれそうな思いであった。

「すみません。先生」
「んあ? どうしたジェノス」
「ヒズミの様子を見てきます」

ノートをぱたんと閉じ、ジェノスが立ち上がる。
彼が助け船を出そうと思ったのかどうかは定かでないが、なんにせよサイタマにとっては非常にありがたいタイミングだった。シキミの無邪気な質問攻めから解放されて、サイタマは心の中でジェノスにぐっと親指を立てた。

「あー、そうか。わかった。よろしく」
「ヒズミさん、今いらっしゃるんですか?」
「おう。たぶん寝てる」
「それは……」

シキミは自身の腕時計に目を落とした。雑貨店で購入した、ファンシーなデザインの文字盤に表示されている時刻──午後六時半を確認して「随分と早寝ですね?」と小首を傾いだ。

「いや、遅起きなんだよ。昨日の夜から寝っぱだから」
「えええ? それは健康上よくないのでは……」
「ん、まあ、いろいろ事情があってだな」
「ヒズミはそういう体質なんだ。睡眠によって“充電”を行っている。常人の倍ほど寝ないと、生命活動を維持できない。そのぶん食事の摂取は三日に一度ほどで問題ないのだが、ヒズミは先日、怪我によって血液を大量に喪失している。体調が完全に回復するまではなるべくしっかり栄養のあるものを食べさせろと教授に──彼女の“主治医”に言われている」

引き継いだジェノスの説明に、シキミはほうほう、と頷いた。最初にここを訪れたときにヒズミが寝起き候だったのはそういう理由だったのだ。起こしてしまって迷惑だったかな、と今更ながらシキミは申し訳なさを覚えた。

「お前も行ってこいよ。一緒に起こしてきてやってくれ」
「えっ? いいんですか?」

シキミは横目にジェノスを伺った。彼は憮然としていたけれど「先生がそう仰るのなら構わない」と言ったので、シキミはお言葉に甘えてついていくことにした。サイタマの部屋を出て、その右隣──ヒズミの住まいを、ジェノスと揃って訪ねた。

ジェノスがジーンズのポケットから合鍵を取り出して、施錠を解いた。

「ヒズミ、入るぞ」

返事はなかった。本当に寝ているのだろう。ずんずんと中に進んでいくジェノスの後ろにくっついてシキミも廊下を進んで、そしてぎょっとした。

サイタマ宅とまったく同じ間取りの、そのキッチンに置かれた独り暮らし用の小振りなサイズの冷蔵庫に、胎児のように体を丸めたヒズミがべったりと貼りついていたのだ。床から完全に浮いている。重力の法則を完全に無視していた。

まるで──磁石のように。

「えっ!? こ、これは……!?」

理解の範疇を超えた光景に動転しているシキミに、ジェノスが懇切丁寧に解説する。

「ヒズミの体から漏れ出した電流のせいだ。ヒズミ自体が大きな磁気モーメントを放つ強磁性体となっている。それが冷蔵庫と反応して、こうなっている」
「は、はあ……」

わかったような、わからないような。
シキミは理系だが、得意分野は物理ではなく化学なので、なんとなく「睡眠中に無意識に放電して全身が電磁石のような状態になっている」ということしか飲み込めなかった。

ジェノスがヒズミの両脇の下に手を差し込み、べりっ、と冷蔵庫から引き剥がした。それでもヒズミは反応しない。相変わらずボールのように丸まって、ぐっすりとっぷり泥のように熟睡しきっている。幼児を高い高いしているような格好のまま、ジェノスがゆっさゆっさとヒズミを揺さぶって覚醒を促す。なんとも乱暴な所業ではあったけれど、これくらいしないと起きないのだろう、とシキミは思った。

「おい、起きろヒズミ。夜だぞ」
「むにゃ……だめだッ……ここで降りるのは二流ッ……さらに倍率ドン……一気に限度額いっぱいまで行くッ……ざわ……ざわ……」
「いつから勝負師になったんだ、お前は」

ジェノスの冷静な突っ込みが功を奏したのか、ヒズミはようやく目を開けた。何度か瞬きして、その視界に自分を抱き上げているジェノスとシキミの姿を捉え、ぐずぐずの寝惚け眼ながら驚いたような表情になった。

「……かわいい女子高生がいる」
「あ、えっと、おはようございます」
「ん、おはよう……」

目を擦り、大きな欠伸をひとつ零してから、ヒズミはジェノスに下ろしてくれと申し出て、ゆっくり地に足をついた。

「いま何時?」
「もうじき七時になる。夕食の時間だ」
「……毎度のことながら、悪いね、わざわざ起こしに来てもらっちゃって」
「気にするな。……半分は好きでやってる」
「え? なんだって?」
「なんでもない」

起き抜けのヒズミには、ジェノスの声量が小さすぎて聞き取れなかったらしい。しかしシキミの耳には、彼の台詞はしかと届いていた──ふたりの関係性をなんとなく察して、しかしだからといってどうということもなかった。年頃の女子らしく、身内の発展途上の色恋沙汰にちょっと首を突っ込んでみたい衝動はあったけれど、自分の“兄弟子”であるところのこのサイボーグ青年にその手の冗談が通じるとは思えなかった。下手に刺激したらぶん殴られてしまいそうだ。

かくして三人で連れ立ってサイタマ宅に戻り、さて夕食の支度に取り掛かろうかという運びとなった。

「あの、よろしければ、私なにか作りましょうか!」
「シキミちゃん、料理できるの?」
「普段から炊事はしています。というか、家事全般……なんといいますか、同居人が……その、いささか生活力に欠けているもので」
「あー、まあ、そんな感じだったな」

思いもよらぬサイタマの同意に、シキミはくりっとした目をさらに大きくした。

「え? なぜご存じで……?」
「……今日の昼、ここに来たから」
「えっ? え? 来たって……」
「ヨーコさんだろ。うちのシキミをよろしくってご挨拶に来た。あんまり帰りが遅くならないように注意してやってくれとも言われたよ」
「……ええええええ!」

予想外の事実だったらしい。シキミは頭を抱えて、顔をさあっと青褪めさせた。

「な、なにか失礼なことを申しておりませんでしたか……?」
「いや別に……変わった人だなーとは思ったけど」
「うわああああんすいませんすいません!」
「謝ることじゃねーよ。だから、その……なんだ、暗くなる前に帰った方がいいんじゃないか」

季節柄、この時間でもまだ空は明るい。しかしあと一時間も経てば真っ暗な夜の様相へと変化するだろう。シキミがZ市のどのあたりに住んでいるのかサイタマは知らなかったが、それでも送り出すなら早い方がいいに決まっている。

「……わかりました。今日は帰らせていただきます」
「送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です。そこまで先生を煩わせるわけには……バス移動ですし」
「遠慮すんなよ。危険指定区域から未成年をひとりで帰らすわけにはいかねーだろ。バス停まで送るわ」
「あ……ありがとうございます……」
「そういうわけで、ちょっと出るわ。適当にメシ作っといて」
「イエッサー。行ってらっしゃい」

どこから取り出したのか、ヘアゴムで髪を後ろにくくりながらヒズミが言った。

ヒズミとジェノスに見送られ、シキミはサイタマ宅をあとにした。ちょうど子供に帰宅を促す時報のメロディが流れているのがどこからともなく聞こえてくる。

ノスタルジーな旋律が、誰もいない街並みを通りすぎていく。